水縹の君
試作
「その夏、僕は恋をした。」
セミの鳴き声が、世界中の音をかき消すように響く正午のバス停。
夏の日差しで焼け焦げそうなくらいの気温。
海が近く、水平線も見えるほど世界は澄んでいる。
アスファルトから立ち上る陽炎の向こうから、彼女は現れた。
白いワンピースに、少しだけ大きい麦わら帽子。
手元には、年季の入ったカメラ。
田舎の退屈な景色の中で、そこだけが鮮やかなフィルム映画のように輝いて見えた。
都会に馴染めず、逃げるようにやってきた祖父母の家。
何もすることのない夏休みは、彼女に会った瞬間に、全く別の意味を持ち始めた。
彼女は僕の隣に座って、話しかけてくる。
「次のバスが来るまで、15分もあるよ。」
麦わら帽子を押さえながら、彼女が僕を見て悪戯っぽく笑う。
風が吹き抜け、彼女の髪から微かにレモンのような爽やかな香りがした。
それが、僕たちの始まりだった。
「……そうだね。」
僕は気の利いた返事もできず、ただ短く答えた。
都会の人混みの喧騒から逃げてきた身としては、この15分という待ち時間でさえ、世界の時間が止まってしまったかのように長く感じられる。
彼女はずいっ、と顔を近づける。
「君、見ない顔だね。ここの人じゃないよね?東京とか大阪とかの、都会の人なのかな?」
「……まあ、一応は。都会に馴染めなくて、夏休みだけは、すぐそこにある、祖父母の家に。」
「やっぱり!服の匂いも違うもん。土とかそういう匂いじゃなくて、アスファルトの匂いがする。」
彼女はそう言うと立ち上がり、一眼レフを構えた。
レンズが僕を見透かすように、真っ直ぐに捉えてくる。
「待って、写真は———。」
「動いちゃダメだよ、そのまま。」
カシャ、と乾いたシャッター音が、先程まで響いていたセミの声を切り裂くように割り込んだ。
「うん、いい写真。顔がちょっと迷子の子犬みたいだけど。」
彼女は満足そうに液晶画面を覗く。
そして、僕に向かって小さな手を差し出してきた。
「私の名前はひまわり、貴方の名前は?都会の迷子の子犬くん。」
ひまわり、まさしく彼女を表す言葉だと思う。
「ききょう、です。」
ききょうくん、と少しだけ呟いたひまわり。
「花の名前じゃん、どっちも。よろしくね、ききょうくん。」
彼女は、夏の太陽をそのまま形にしたような笑顔を浮かべていた。
レンズ越しに見つめられた僕の心は、夏の陽炎よりも火照っていて、海よりも激しく波打ち始めていた。
「バスが来るまでの15分は……過ぎちゃうかも。でもさ、待ってるだけって退屈じゃない?」
彼女に勢いよく引き上げられたように、立ち上がる。
「わわっ。」
「この町で、1番いいところを紹介してあげるよ。まだ私しか知らない、秘密の場所。」
カチカチと、腕時計は何も知らずに時を刻み続けている。
けれど、僕の退屈だった夏休みは、この瞬間に、彼女のペースで動き出そうとしていた。
「でも、バスが来ちゃうんじゃ。ひまわりさんも、元々乗る予定だったのに。」
「さん付けなんてしなくていいよ、ひまわりでいい。それにバスなんて、1日に数本しかないし。乗り遅れたら、別のことをすればいいだけだよ。」
ひまわりは僕の手首を軽く掴むと、バス停の脇から伸びる、草の生い茂った細い坂道を駆け上がり始めた。
坂道を登り切った先には、白漆食が所々剥がれ落ちている、古い崖の上の廃灯台だった。
「じゃーん!ここが私の好きなところ、私だけの特等席。」
ひまわりが両手を開いて振り返る。その向こうに広がっている景色に、息を呑んだ。
そこは、視界の全てが青で染まる場所。
空の青に、海の青。水平線がどこまでも真っ直ぐに世界を二分している。
都会のビル群に切り取られていた、よく見た狭い空とは違う。
吸い込まれそうなほどに濃く、深い、濃紺の海がそこにはあった。
「すごい……都会とは、全く違う。」
「すごいでしょ?ここに来ると、自分のやらかしたこととか、どうでもよくなっちゃうの。」
ひまわりは錆びた手すりに身体を預け、愛おしそうに海を見つめた。
潮風は彼女の白いワンピースを揺らす。
あの爽やかな香りが、僕の鼻腔をくすぐる。
その時の彼女の横顔が、とても綺麗だったと同時に、どこか退廃的な美しさを伴っていることを感じ取った。
都会での人間関係、学校での息苦しさ、逃げるようにこの町にやってきた自身の惨めさ。
そういう、僕の中に泥のように沈殿していた何かは、この光景と彼女の存在で、静かに洗い流されていく感覚がした。
ひまわりは不意に視線を海から僕に変えた。
悪戯っぽい笑みは消えていて、静かな声で問いかけてきた。
「ねえ、ききょうくん。なんでこの町に来たの?初めて会った時の君の顔、死ぬほど疲れてそうだったよ。だからさ、どうしても気になったんだ。」
全てを読んできそうなくらいに、真っ直ぐで曇りのない瞳。
いつもなら、薄く適当な嘘をついて逃げ出すところだった。
だが、寄せては返す波の音と、目の前の眩しい少女の前では、不思議と正直になれた。
「逃げてきたんだ。あっちの生活に、嫌気がさして。何もかもが嫌になって、全部放り出してきて、ここに。」
俯きながら弱々しい声で搾り出した僕の言葉を、ひまわりは遮ることなく、ただ静かに聞いていた。
「そっか。」
ひまわりは小さく呟いて、僕の隣に一歩、歩み寄った。
「逃げるって、別に弱いことじゃないと思うよ?だって自分に正直に向き合えてる証拠だし。ここに辿り着けたし。」
ひまわりはカメラをとんとん、と叩く。
「ねえ、私のカメラさ、まだフィルムがたくさん残ってるんだ。この夏が終わるまでにさ、君が『ここに来てよかった』って思える瞬間をたくさん撮ってあげる。あ、都会に帰っても頑張るんだよ?」
そう言って笑うひまわりに、自然と僕も笑みがこぼれる。
遠くから、ゴトゴトと古いエンジン音が聞こえてくる。腕時計を見た。
「もう15分も経っているのか。」
「長いようで短い時間だよね、15分って。」
こんな他愛のない会話でも、今の僕には癒しになった。
笑顔で話しかけてくれる彼女に、僕はいつから惹かれていたのだろう。
出会った時からなのか、話している時からなのか。
「ねえききょうくん。君って高校生?」
「えっと、まあ。都内の高校で、今は二年生で。」
「私も二年。同じじゃん。バイトとかって、結構やったりする?」
「……すいません、その、人混みが苦手で、人間関係も拗れてしまいそうなので、やってません。」
不意にひまわりがカメラで僕の顔を撮ってきた。
「ネガティブな顔も思い出でしょ?」
どこまでも前向きだと、僕は感じた。
今までは写真に写るのも苦手で、自分の顔も思い出に残したくないくらいだった。
「そうかも、しれません。」
「お、急に前向きじゃん。その調子だよ。」
今までを考えると、やはり田舎の方が向いているのかもしれない。
「よし、そうと決まったらさ。ききょうくんの家に荷物置きに行こ?もっといいところ紹介してあげる!その二って感じ?」
「その二もあるんですか。」
「もちろん。狭いけど隠れた名所は沢山あるんだよ?」
登ってきた坂道を下る。潮風は吹いてこない。
再びアスファルトの熱気が僕たちを包み込んだ。
けれど、さっきまで感じていた息苦しいほどの暑さは、今は少しだけ心地よく感じられる。
道を歩きながら、ひまわりは時折立ち止まる。
路地裏に咲いている名のない花から、古い民屋の上で眠る猫に向けてレンズを向ける。
「その、ひまわり。」
「どうしたの?」
ファインダーから目を離さず、彼女が応じる。
「どうして僕なんかに、こんなに構ってくれているんですか。どうせ都会から逃げた、根暗な奴ってだけなのに。」
カメラを下ろし、僕の方を振り返る。
深く被った麦わら帽子から、真っ直ぐな瞳が僕を見つめてくる。
「面白い感じがした。所謂直感。ききょうくんがあまりにも透明に見えたというか、暑さで蒸発してそうだっからさ。私のカメラだったら、留められると思ったからだよ。」
そう言うと、笑って僕の方にカメラのレンズを向ける。
いきなりカメラを向けられると、心の準備ができない。
「また難しい顔してる、ききょうくん。ほら、もっと気楽に行こう?」
力を抜いた。
カシャ。
「お、さっきよりマシな顔だ。」
「……そうですね。」
照れ隠しのつもりで、わざとぶっきらぼうに答えてしまった。後ろから「待ってよー!」と追いかけてくる可憐な声。
◇
祖父母の家は、平屋の古い日本家屋だった。
「ただいま。」
引き戸を開けると、奥から声が聞こえてくる。
「おや、ききょうかい。おかえり。」
縁側で休んでいた、祖母が顔を出した。
「お邪魔しまーす。」
祖母は見慣れないひまわりに驚きながらも、対応してくれた。
「あらま、うちの孫にも春が来るなんて。さ、どうぞ上がっておゆき。」
「あ、僕の部屋でいいですか?」
「もちろん。」
少し不安な音のする階段を登り、自分の部屋に着く。
「散らかってるけど、気にしないで。」
足の踏み場はギリギリある。
「男の部屋って感じがする。」
「そんなこと言わないでください。」
僕たちは手早くベッドの上に荷物を置いた。
「お茶でいいなら、持ってきますよ。」
「気が利くねぇ、ありがとう。」
夏の暑さを紛らわせるように、冷房を全開にして休憩した。
時計の針は午後3時ごろを指していた。
「体力も復活したし、そろそろ行きますか!」
僕は彼女の後ろ姿を追い続ける。
そこは町の小さな漁港の端にある、古い造船所の跡地だった。
今は使われていない建物の隙間を通り抜けると、そこには波打ち際まで続く、誰もいない小さなプライベートプールのようだった。
「ここが秘密基地の二つ目。」
ひまわりは履いているサンダルを脱ぎ捨て、裸足で白い砂浜を駆け出した。
波は足首を濡らし、美しい飛沫が舞う。
「ききょうくんもさ、靴脱いでこっちおいでよ!気持ちいいよ!」
彼女に促されるままスニーカーを脱いで、恐る恐る青へと足を踏み入れる。
ひんやりとした砂の感触に、夏の気温で生ぬるい海水が、僕の足を包み込んだ。
「本当だ……気持ちいいです。」
「ここは夕方になると、絶景になるんだ。キャンパスをぶちまけたみたいな、見るだけで視界を染めるくらいにね。」
ひまわりは首にかけたカメラを撫でる。
「どうして写真を撮っているんですか。それも留めるとか、忘れないようにするため、とか?」
「お、随分察しがいいじゃん。写真だったら思い出なんていつでも思い出せるし、持ち運びできるし。いいことだらけじゃん。」
彼女はやはり太陽のような人だ。
ずっと明るく照らしてくれる、僕とは真逆のような。
「あ、その顔いいじゃん!」
カシャ、と僕の顔を撮ってくる。
もう三回目だ。
液晶を覗き込む。
その顔はいつもよりも、どこか晴れやかな笑顔だった。
「うん、満点だね。」
ひまわりは微笑む。
夕日はゆっくりと傾いて、世界をオレンジ色に染める。
「そろそろバスの時間もあるでしょうし、帰りませんか。」
「そうだね。」
帰り際、二人で歩いた。僕が車道側で。
おずおずと彼女の手に向かって手を伸ばす。
ひまわりは悪戯っぽい笑みを浮かべようとして、どこか照れ隠しのような笑顔で手を握ってくれた。
帰りの空気は、蒸し暑い空気と甘酸っぱい空気が混ざっていた。
◇
夏休みの終わり、都会に帰る時が来た。
結局ひまわりに思いを伝えることは、まだできていない。
祖父母の車に乗って、駅へと向かう。
駅のホームはガラガラで、誰もいない。
車から降りて、切符を買う。
後ろから、聞き馴染みのある可憐な声がする。
「ききょうくん、待って、早いよ。」
ひまわりは息切れしている。
相当走ってきたようだ。
「ひまわりさん、その、僕。今日帰るんです。」
「またさん付けしてるし、それに知ってる。君のお婆ちゃんから聞いたもん。何で直接言ってくれないかなあ。」
帰る前に「好き」と言ったらどうなるか分からなかったから。消えてしまうのか、側にいてくれるのか、確証が持てなかったからだ。
どうせ散るくらいなら、ここで咲き乱れてやる。
「ひまわり。僕の話を聞いてください。」
◇
帰る前のその男の子の目は、最初に会った時とは違った。
あの消えそうで弱々しい目じゃなくて、とても真っ直ぐな目。
なんだろう、この気持ちは。
恐怖と期待が入り混じった感情がする。
ききょうくんが離れてしまうから、それとも、私はずっと彼のことが———。
「なに、ききょうくん。改まって、どうしたの?」
「そのさ、前から言おうと思ってたんだけどさ。ずっと——。」
ああ、この答えを聞いてしまったら、私はきっと後悔するんだ。
彼のことを忘れられなくなってしまう、写真なんて要らないくらいに。
私は一度だけ深く息を吸い込んだ。
「うん、聞かせて。」
「ずっと、好きでした。初めて会った時から、一目惚れです。付き合ってください。」
彼の目は変わらず、私のことを真剣に見つめてくる。
私は、こんな彼に惹かれていたんだろう。
「私も、ずっとききょうくんが好きだった。これから、よろしくね。」
◇
俺は彼女を抱き寄せた。
少し調子に乗りすぎたかも、という不安はすぐに消え去った。
ひまわりは脱力して、安心しきっている。
「じゃあ、ひまわりさん。僕はそろそろ向かいます。」
遠くから、ガタゴトという古びたレールの上を走る列車の音。
「ききょうくん、また会える?」
「会いに行きますよ、次の夏休み、あのバス停で会いましょう!」
プシュー、と音を立ててドアが開く。
電車に乗り込んだ。無常にもドアは閉まる。
だが、これは別れではなく、歩みだ。
手を振ってくる君に、小さく手を振り返す。姿が小さくなって、見えなくなるまで。
最初から最後まで、ずっとひまわりのおかげだった。
都会でも、上手くやっていくよ。
すっかりセミの鳴き声は聞こえなくなって、日差しも弱まってきている。
僕の心みたいに、今日は涼しい日だった。




