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水縹の君

作者: 奇跡の軌跡
掲載日:2026/10/24

試作

「その夏、僕は恋をした。」


セミの鳴き声が、世界中の音をかき消すように響く正午のバス停。

夏の日差しで焼け焦げそうなくらいの気温。

海が近く、水平線も見えるほど世界は澄んでいる。

アスファルトから立ち上る陽炎の向こうから、彼女は現れた。


白いワンピースに、少しだけ大きい麦わら帽子。

手元には、年季の入ったカメラ。

田舎の退屈な景色の中で、そこだけが鮮やかなフィルム映画のように輝いて見えた。


都会に馴染めず、逃げるようにやってきた祖父母の家。

何もすることのない夏休みは、彼女に会った瞬間に、全く別の意味を持ち始めた。

彼女は僕の隣に座って、話しかけてくる。


「次のバスが来るまで、15分もあるよ。」


麦わら帽子を押さえながら、彼女が僕を見て悪戯(いたずら)っぽく笑う。

風が吹き抜け、彼女の髪から微かにレモンのような爽やかな香りがした。


それが、僕たちの始まりだった。


「……そうだね。」

僕は気の利いた返事もできず、ただ短く答えた。

都会の人混みの喧騒から逃げてきた身としては、この15分という待ち時間でさえ、世界の時間が止まってしまったかのように長く感じられる。


彼女はずいっ、と顔を近づける。

「君、見ない顔だね。ここの人じゃないよね?東京とか大阪とかの、都会の人なのかな?」

「……まあ、一応は。都会に馴染めなくて、夏休みだけは、すぐそこにある、祖父母の家に。」

「やっぱり!服の匂いも違うもん。土とかそういう匂いじゃなくて、アスファルトの匂いがする。」


彼女はそう言うと立ち上がり、一眼レフを構えた。

レンズが僕を見透かすように、真っ直ぐに捉えてくる。


「待って、写真は———。」

「動いちゃダメだよ、そのまま。」


カシャ、と乾いたシャッター音が、先程まで響いていたセミの声を切り裂くように割り込んだ。


「うん、いい写真。顔がちょっと迷子の子犬みたいだけど。」

彼女は満足そうに液晶画面を覗く。

そして、僕に向かって小さな手を差し出してきた。

「私の名前はひまわり、貴方の名前は?都会の迷子の子犬くん。」

ひまわり、まさしく彼女を表す言葉だと思う。

「ききょう、です。」

ききょうくん、と少しだけ呟いたひまわり。

「花の名前じゃん、どっちも。よろしくね、ききょうくん。」

彼女は、夏の太陽をそのまま形にしたような笑顔を浮かべていた。

レンズ越しに見つめられた僕の心は、夏の陽炎よりも火照っていて、海よりも激しく波打ち始めていた。


「バスが来るまでの15分は……過ぎちゃうかも。でもさ、待ってるだけって退屈じゃない?」

彼女に勢いよく引き上げられたように、立ち上がる。

「わわっ。」

「この町で、1番いいところを紹介してあげるよ。まだ私しか知らない、秘密の場所。」

カチカチと、腕時計は何も知らずに時を刻み続けている。

けれど、僕の退屈だった夏休みは、この瞬間に、彼女のペースで動き出そうとしていた。


「でも、バスが来ちゃうんじゃ。ひまわりさんも、元々乗る予定だったのに。」

「さん付けなんてしなくていいよ、ひまわりでいい。それにバスなんて、1日に数本しかないし。乗り遅れたら、別のことをすればいいだけだよ。」


ひまわりは僕の手首を軽く掴むと、バス停の脇から伸びる、草の生い茂った細い坂道を駆け上がり始めた。


坂道を登り切った先には、白漆食が所々剥がれ落ちている、古い崖の上の廃灯台だった。


「じゃーん!ここが私の好きなところ、私だけの特等席。」


ひまわりが両手を開いて振り返る。その向こうに広がっている景色に、息を呑んだ。

そこは、視界の全てが青で染まる場所。

空の青に、海の青。水平線がどこまでも真っ直ぐに世界を二分している。

都会のビル群に切り取られていた、よく見た狭い空とは違う。

吸い込まれそうなほどに濃く、深い、濃紺の海がそこにはあった。


「すごい……都会とは、全く違う。」

「すごいでしょ?ここに来ると、自分のやらかしたこととか、どうでもよくなっちゃうの。」

ひまわりは錆びた手すりに身体を預け、愛おしそうに海を見つめた。

潮風は彼女の白いワンピースを揺らす。

あの爽やかな香りが、僕の鼻腔をくすぐる。

その時の彼女の横顔が、とても綺麗だったと同時に、どこか退廃的な美しさを伴っていることを感じ取った。

都会での人間関係、学校での息苦しさ、逃げるようにこの町にやってきた自身の惨めさ。

そういう、僕の中に泥のように沈殿していた何かは、この光景と彼女の存在で、静かに洗い流されていく感覚がした。


ひまわりは不意に視線を海から僕に変えた。

悪戯っぽい笑みは消えていて、静かな声で問いかけてきた。


「ねえ、ききょうくん。なんでこの町に来たの?初めて会った時の君の顔、死ぬほど疲れてそうだったよ。だからさ、どうしても気になったんだ。」


全てを読んできそうなくらいに、真っ直ぐで曇りのない瞳。

いつもなら、薄く適当な嘘をついて逃げ出すところだった。

だが、寄せては返す波の音と、目の前の眩しい少女の前では、不思議と正直になれた。


「逃げてきたんだ。あっちの生活に、嫌気がさして。何もかもが嫌になって、全部放り出してきて、ここに。」


俯きながら弱々しい声で搾り出した僕の言葉を、ひまわりは遮ることなく、ただ静かに聞いていた。


「そっか。」

ひまわりは小さく呟いて、僕の隣に一歩、歩み寄った。

「逃げるって、別に弱いことじゃないと思うよ?だって自分に正直に向き合えてる証拠だし。ここに辿り着けたし。」

ひまわりはカメラをとんとん、と叩く。

「ねえ、私のカメラさ、まだフィルムがたくさん残ってるんだ。この夏が終わるまでにさ、君が『ここに来てよかった』って思える瞬間をたくさん撮ってあげる。あ、都会に帰っても頑張るんだよ?」


そう言って笑うひまわりに、自然と僕も笑みがこぼれる。


遠くから、ゴトゴトと古いエンジン音が聞こえてくる。腕時計を見た。

「もう15分も経っているのか。」

「長いようで短い時間だよね、15分って。」

こんな他愛のない会話でも、今の僕には癒しになった。

笑顔で話しかけてくれる彼女に、僕はいつから惹かれていたのだろう。

出会った時からなのか、話している時からなのか。


「ねえききょうくん。君って高校生?」

「えっと、まあ。都内の高校で、今は二年生で。」

「私も二年。同じじゃん。バイトとかって、結構やったりする?」

「……すいません、その、人混みが苦手で、人間関係も拗れてしまいそうなので、やってません。」

不意にひまわりがカメラで僕の顔を撮ってきた。

「ネガティブな顔も思い出でしょ?」

どこまでも前向きだと、僕は感じた。

今までは写真に写るのも苦手で、自分の顔も思い出に残したくないくらいだった。

「そうかも、しれません。」

「お、急に前向きじゃん。その調子だよ。」

今までを考えると、やはり田舎の方が向いているのかもしれない。

「よし、そうと決まったらさ。ききょうくんの家に荷物置きに行こ?もっといいところ紹介してあげる!その二って感じ?」

「その二もあるんですか。」

「もちろん。狭いけど隠れた名所は沢山あるんだよ?」


登ってきた坂道を下る。潮風は吹いてこない。

再びアスファルトの熱気が僕たちを包み込んだ。

けれど、さっきまで感じていた息苦しいほどの暑さは、今は少しだけ心地よく感じられる。


道を歩きながら、ひまわりは時折立ち止まる。

路地裏に咲いている名のない花から、古い民屋の上で眠る猫に向けてレンズを向ける。


「その、ひまわり。」

「どうしたの?」

ファインダーから目を離さず、彼女が応じる。

「どうして僕なんかに、こんなに構ってくれているんですか。どうせ都会から逃げた、根暗な奴ってだけなのに。」


カメラを下ろし、僕の方を振り返る。

深く被った麦わら帽子から、真っ直ぐな瞳が僕を見つめてくる。

「面白い感じがした。所謂(いわゆる)直感。ききょうくんがあまりにも透明に見えたというか、暑さで蒸発してそうだっからさ。私のカメラだったら、留められると思ったからだよ。」

そう言うと、笑って僕の方にカメラのレンズを向ける。

いきなりカメラを向けられると、心の準備ができない。

「また難しい顔してる、ききょうくん。ほら、もっと気楽に行こう?」

力を抜いた。

カシャ。


「お、さっきよりマシな顔だ。」

「……そうですね。」


照れ隠しのつもりで、わざとぶっきらぼうに答えてしまった。後ろから「待ってよー!」と追いかけてくる可憐な声。



◇



祖父母の家は、平屋の古い日本家屋だった。

「ただいま。」

引き戸を開けると、奥から声が聞こえてくる。

「おや、ききょうかい。おかえり。」

縁側で休んでいた、祖母が顔を出した。

「お邪魔しまーす。」

祖母は見慣れないひまわりに驚きながらも、対応してくれた。

「あらま、うちの孫にも春が来るなんて。さ、どうぞ上がっておゆき。」

「あ、僕の部屋でいいですか?」

「もちろん。」


少し不安な音のする階段を登り、自分の部屋に着く。

「散らかってるけど、気にしないで。」

足の踏み場はギリギリある。

「男の部屋って感じがする。」

「そんなこと言わないでください。」

僕たちは手早くベッドの上に荷物を置いた。

「お茶でいいなら、持ってきますよ。」

「気が利くねぇ、ありがとう。」


夏の暑さを紛らわせるように、冷房を全開にして休憩した。

時計の針は午後3時ごろを指していた。

「体力も復活したし、そろそろ行きますか!」


僕は彼女の後ろ姿を追い続ける。

そこは町の小さな漁港の端にある、古い造船所の跡地だった。

今は使われていない建物の隙間を通り抜けると、そこには波打ち際まで続く、誰もいない小さなプライベートプールのようだった。


「ここが秘密基地の二つ目。」

ひまわりは履いているサンダルを脱ぎ捨て、裸足で白い砂浜を駆け出した。

波は足首を濡らし、美しい飛沫が舞う。


「ききょうくんもさ、靴脱いでこっちおいでよ!気持ちいいよ!」


彼女に促されるままスニーカーを脱いで、恐る恐る青へと足を踏み入れる。

ひんやりとした砂の感触に、夏の気温で生ぬるい海水が、僕の足を包み込んだ。

「本当だ……気持ちいいです。」

「ここは夕方になると、絶景になるんだ。キャンパスをぶちまけたみたいな、見るだけで視界を染めるくらいにね。」

ひまわりは首にかけたカメラを撫でる。

「どうして写真を撮っているんですか。それも留めるとか、忘れないようにするため、とか?」

「お、随分察しがいいじゃん。写真だったら思い出なんていつでも思い出せるし、持ち運びできるし。いいことだらけじゃん。」

彼女はやはり太陽のような人だ。

ずっと明るく照らしてくれる、僕とは真逆のような。

「あ、その顔いいじゃん!」

カシャ、と僕の顔を撮ってくる。

もう三回目だ。


液晶を覗き込む。

その顔はいつもよりも、どこか晴れやかな笑顔だった。

「うん、満点だね。」

ひまわりは微笑む。

夕日はゆっくりと傾いて、世界をオレンジ色に染める。

「そろそろバスの時間もあるでしょうし、帰りませんか。」

「そうだね。」


帰り際、二人で歩いた。僕が車道側で。

おずおずと彼女の手に向かって手を伸ばす。

ひまわりは悪戯っぽい笑みを浮かべようとして、どこか照れ隠しのような笑顔で手を握ってくれた。

帰りの空気は、蒸し暑い空気と甘酸っぱい空気が混ざっていた。


◇


夏休みの終わり、都会に帰る時が来た。

結局ひまわりに思いを伝えることは、まだできていない。

祖父母の車に乗って、駅へと向かう。

駅のホームはガラガラで、誰もいない。


車から降りて、切符を買う。

後ろから、聞き馴染みのある可憐な声がする。

「ききょうくん、待って、早いよ。」

ひまわりは息切れしている。

相当走ってきたようだ。

「ひまわりさん、その、僕。今日帰るんです。」

「またさん付けしてるし、それに知ってる。君のお婆ちゃんから聞いたもん。何で直接言ってくれないかなあ。」

帰る前に「好き」と言ったらどうなるか分からなかったから。消えてしまうのか、側にいてくれるのか、確証が持てなかったからだ。


どうせ散るくらいなら、ここで咲き乱れてやる。

「ひまわり。僕の話を聞いてください。」



◇



帰る前のその男の子の目は、最初に会った時とは違った。

あの消えそうで弱々しい目じゃなくて、とても真っ直ぐな目。

なんだろう、この気持ちは。

恐怖と期待が入り混じった感情がする。

ききょうくんが離れてしまうから、それとも、私はずっと彼のことが———。

「なに、ききょうくん。改まって、どうしたの?」

「そのさ、前から言おうと思ってたんだけどさ。ずっと——。」

ああ、この答えを聞いてしまったら、私はきっと後悔するんだ。

彼のことを忘れられなくなってしまう、写真なんて要らないくらいに。

私は一度だけ深く息を吸い込んだ。

「うん、聞かせて。」


「ずっと、好きでした。初めて会った時から、一目惚れです。付き合ってください。」

彼の目は変わらず、私のことを真剣に見つめてくる。

私は、こんな彼に惹かれていたんだろう。

「私も、ずっとききょうくんが好きだった。これから、よろしくね。」



◇



俺は彼女を抱き寄せた。

少し調子に乗りすぎたかも、という不安はすぐに消え去った。

ひまわりは脱力して、安心しきっている。

「じゃあ、ひまわりさん。僕はそろそろ向かいます。」

遠くから、ガタゴトという古びたレールの上を走る列車の音。

「ききょうくん、また会える?」

「会いに行きますよ、次の夏休み、あのバス停で会いましょう!」


プシュー、と音を立ててドアが開く。

電車に乗り込んだ。無常にもドアは閉まる。

だが、これは別れではなく、歩みだ。

手を振ってくる君に、小さく手を振り返す。姿が小さくなって、見えなくなるまで。

最初から最後まで、ずっとひまわりのおかげだった。

都会でも、上手くやっていくよ。


すっかりセミの鳴き声は聞こえなくなって、日差しも弱まってきている。

僕の心みたいに、今日は涼しい日だった。

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