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06. 重い空気

 ◆◇◆◇


 数日経つが、フィールドワークはお世辞にもうまくいっているとは言えない。


 現地に着けば何とかなるだろう、と楽天的に構えていたのがいけなかったのか。初めての個人企画のフィールドワークにはこの村は難易度が高かったのか。

 事前調査をもっとしておくべきだったとジェイは悔やんだ。今から資料を集めようにもネットが通じる場所は限られている。画像の読み込みなんて壊滅的だ。


 現地にいるんだから現地人に話を聞けばいいのだけど、言葉の壁は思いの外大きかった。ここまで英語が通じないとは思わなかったのだ。そうでなくても、ジェイたち三人は警戒されている。外国人だからなのか、それとも単純に『よそ者』だからなのか。それすらわからないまま、とりあえず怪しげに見えないよう行動することに努めている。


 焦っても仕方ない。


 ジェイは自分に言い聞かせた。


 ジェイは夜中に夢を見るようになった。

 子どもと水場にいる夢だ。海のような広大で明るい場所ではない。暗く、狭く、湿った場所だ。それでも子どもは楽しそうに水と戯れている。ジェイはそれを少し離れたところから見守る。聞いたことのない歌を歌いながら水を蹴って遊ぶ子ども。聞いたことのない歌は子守唄だろうか。懐かしさが込み上げてくる。


 ジェイは幼くして離れ離れになった妹を思い出した。両親の離婚で母親に引き取られていった妹は、ジェイの中では今でも小さな妹のままだ。大きな目を見開いてずっとアヒルのぬいぐるみを抱きしめていた妹は、両親が喧嘩をする時は決まってジェイの部屋に逃げ込んでいた。両親の罵倒し合う声が聞こえないように妹の耳を手で塞いだジェイだが、妹はそれでも声が聞こえて嫌、とジェイに物語をねだった。妹が眠りにつくまでジェイはずっと読み聞かせをしたものだ。歌を歌ったこともある。ああ、だから懐かしく思うのか。お別れの時は声を上げて泣いた。ジェイも大泣きした。胸がちぎれるような思いだ。どうして今まで忘れていられたのだろう。


 父の実家に引き取られたジェイは、母と妹のことを話してはいけない空気の中で育った。祖父母はまるで最初から母と妹が存在しないかのように振る舞う。いつしかジェイも話題にすることはなくなっていた。

 帰ったら父に二人の連絡先を聞いてみようか。仕事が忙しくて滅多に家に帰ってこない父親とは疎遠だ。ジェイのことはもう覚えていないかもしれない。そんな自嘲的な考えが浮かぶ。

 そして、母も、妹も。

 いちいち口出ししてくる祖父母が鬱陶しくてホリデーの時にしか帰省しない自分がどの口で言う、と自分を責める声がする。大学のルームシェアは快適で、その日のことだけ考えていればいい生活は慣れれば楽なものだ。


 水の中で何かを見つけたのか、子どもが手に何かを握って物思いに耽るジェイを振り返った。にこりと笑うその顔に笑顔を返そうとして、喉が急に詰まる。喉が潰れて声が出ない。首に絡む何かを払い除けようとして、ジェイは目を大きく開いた。


「っ、はあ、はあ」


 真っ暗な空間でジェイは横たわっていた。一瞬自分がどこにいるかわからなくなる。自宅のベッドか? いや、違う。ここは、そうだ、村の一軒家だ。ジェイは何度も瞬きを繰り返した。夢と現実の境目は曖昧で、今にも引き摺り込まれそうになる。

 汗が大量に吹き出ていた。噛み締めていた顎をぎこちなく緩める。喉はひりつくように乾いていた。

 ジェイは嫌な考えを振り払うように布団から這い出て部屋を出た。襖を開けて縁側に座り、思い切り息を吐く。


 夜になっても気温は下がらない。街灯一つないこの村には本来なら満天の星空が広がっているのであろうが、今夜もどんよりと曇り空だ。

 蚊取り線香の匂いと、濃密な森の匂いが漂ってくる。

 ときどき遠くでフクロウの鳴く声が聞こえる。それに混じって、ぽたりぽたりと水滴が落ちる音がする。井戸水の蛇口だろう。


「ビール飲みたいな」

 思わず口からこぼれる。

 ビールくらいどこでも買えるだろうと高を括っていたが、この村の唯一の商店は補給が週に一回だけらしい。バックパックに詰めっぱなしのシックスパックは緊急用だ。でも明日開けてもいいかもしれない。こんなサムライみたいな粗食、充分緊急事態に該当するはずだ。

 バックパックに入っているチップスのこともついでに思い出してしまって、じわりと唾液が溢れてきた。腹がくう、と抗議の音を出す。すっかり目が覚めたようだ。悪夢は霧散していった。


 腹の音を苦笑いで宥めると、ジェイは襖を閉めて布団に戻った。夢のかけらはまだジェイの周りを漂っているが、今夜はもう囚われることはないだろう。確信に近い思いを抱きながら、ジェイは目を閉じた。


 水の滴る音は横になっても絶え間なく響いていた。


 ◆◇◆◇


 村の中と外では明らかに湿度が違うと気づいたのは、村の端の、森との境目に行った時のことだった。生息している虫や木々をスケッチし、メモに残していく。家に帰った後にまとめるつもりだ。まとわりつく湿気に耐えながら、何とか三人で手分けして調査していたのだが。


「おい、なんかこっちやべえぞ。空気が軽い」

 少し離れていたところでカメラを構えていたロベルトが、ジェイを呼んだ。何のことかとジェイは手招きされたところまで行ってみる。

「うわあ」

 思わず声が漏れた。森の新鮮な空気を感じたからだ。

「な?」

 きらきらした顔でロベルトが言う。


 しばらく二人で周辺を歩いてみると、まるで境界線のように空気が違う二つの層が存在していることに気づいた。


「こっちは空気が重い。こっちは軽い」

 反復横跳びのように、ジェイは境目を行ったり来たりした。それを見たロベルトは火が付いたように腹を抱えて笑い出した。

「待て待て待て、お前それもう一回やって。動画撮るから。あとで投稿しとくわ」

「嫌だよ! 恥ずかしい。それにここじゃSNSは無理だろう」

「うーん、だよな。じゃあ帰ってから全世界に公開するとしよう」


 ロベルトのジョークを流すと、ジェイはノートに書き留める。

『風の流れ?』


「村側が重いんだよな。ベッタリ張り付く感じで。反対だったらいいのに」

「確かにな。ここまできっちり分かれてるのも気味悪いけど」


 空気の境目をしばらく歩いてみても、途切れなく村の内と外で空気が違うことがわかった。このまま村の外周を回れるかとも思ったが、前方にある大きな岩に邪魔されてそのまま通ることは叶わなかった。仕方なく村側に戻って岩壁を歩いてみる。やはり空気が重たい。村に着いた時も経験していたのだろうか、とジェイは首を捻った。でもあの時は疲れててそれどころじゃなかったしなあと結論づける。そうして歩いていくと、やがて先にぽかりと穴の空いた空間が見えてきた。


「おい、こっちなんか洞窟っぽいのがあるぞ。入ってみようぜ」

 ロベルトが親指で大きな穴の開いた暗闇を指す。

「準備なしに入るのは危険だよ」

 ジェイは首を振る。

「お宝があるかもよ。何とか埋蔵金みたいな。あ、それか死体でも転がってるかもな」

「はいはい」

 ジェイはわかっている。これはロベルトの飽きてきたサインなのだ。何の変哲もない木々や虫を撮るのに飽きたのだろう。テスト勉強の時も最初に飽きるのはいつもロベルトだった。それなのに成績はロベルトの方がいいのだから、世の中は本当に不公平だとジェイは思う。


「それはまた今度にして、帰るぞ。そろそろ夕飯の時間だ」

 夕食だというのに、何ともテンションが上がらない。まだまだ食べ盛りだというのに。分厚いステーキが食いたい。

 じゅわりと肉が焼ける香ばしい匂いを想像してしまって、ジェイは頭を振った。

 帰国したら真っ先に肉を食ってやる、と心に誓う。


 クリスは疲れたと言ってとっくに帰っている。今日の成果はこの自然現象ってことでいいだろう、と二人は重い空気の中を進んでいった。

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