05. 黒い水
学校は閉まっていた。夏休みなのだろう。その奥の屋敷に挨拶に行くか? とジェイとロベルトが話し合っていると、クリスがストップをかけた。暑い、しんどい、もう歩けない、人とにこやかに話せる気分じゃない、だそうだ。
お前全然にこやかじゃねえだろうという文句は腹の中にしまって、とりあえず林の木陰で一旦休むことにした。ジェイのTシャツも汗だくだ。確かに人の家を訪れる格好じゃない。
やっと涼めそうな木陰を見つけて、三人は腰を下ろした。太陽はもう真上あたりまで上がっている。さほどのことをしたつもりはなかったが、案外時間が経っているらしい。
この林は村の一部なのだろうか。
そういえば、昨日林の奥に祠のようなものを見つけたんだっけ。
今からそこまで行く……気力はない。まだ始まったばかりだし、とジェイはマイボトルの水を飲んだ。
いくら水を飲んでも足りない。喉が常に乾いている。
水っ腹なのに全然水分が身体中に回ってる気がしない。
さらに嫌なことに、汗で水分は蒸発するというのに、湿度が高いから肌にまとわりついて乾かない。
体が重い。
汗で服が濡れてるからだろうか?
いや、違う。身体全体がだるいのだ。
「時差ボケかなあ」
ジェイは目を擦った。
ロベルトがどうした? という目で見てくる。
「いや、なんか、昨日から体が重くて。喉が乾くから水飲むんだけど、全然吸収されてる気がしないし、飲みたいのにもういいやってなる」
あー、それな、とロベルトも同意する。
「水中毒って言うんだよ、それ」
クリスが言う。
ジェイとロベルトは首を傾げた。
「水分が必要だからと一気に摂取すると、体内のナトリウム濃度が低下するんだ。それで疲労感が出る。体内に水分が多いせいで体が無意識にストップサインを出しているんだろうな。だから喉は渇いているけどもう水は飲みたくないと感じてるんじゃないかな」
クリスはしんどそうにしながら答えた。
「……お前、博識だな」
ロベルトが初めてクリスを褒めた。
それを鬱陶しそうに見ながら、クリスは続ける。
「水分だって胃から直接膀胱に行くわけじゃないからな。体内を巡って腎臓で濾過されるから。水分を摂りすぎると腎臓に負担がかかるんだよ」
「あー、だからこんなに腹がタプタプするのか。でも水を飲まないわけにもいかないしなあ。脱水だって怖いし」
「そうだよなー。まあ一番いいのは汗をかかないことなんだろうけどな」
「……この、クーラーという概念すらない、この村で?」
ジェイは真顔で聞いた。
「まあ無理だな」
ロベルトは肩をすくめた。
この村の人たちが肥満体型に見えるのは、もしかして体が浮腫んでいるからなのかもしれない。まだ一日も滞在していない自分たちがこの有り様なのだ。ずっとここで暮らしていたら、何らかの影響は出ていてもおかしくない。
すると、原因はこの暑さと湿気?
クーラー設置を調査結果の|提案《recommendations》に入れようか。
ジェイはメモに書き込みながらもう一口マイボトルの水を飲み込んだ。いや、押し込んだ、のほうが近いかもしれない。
別にまずいわけじゃないんだけどなあ。
何とも微妙な気持ちになるのは、アレを見てしまったからだ。
家の中に水道が通っていないことに気づいた――というか疲れすぎて見ないふりをしていたのだが――のは、今朝のことだった。
朝食の皿を片付けに来てくれた木原に聞いたのだ、水はどこか、と。
何度目かのハンドジェスチャーでやっと伝わった『ミズ、ドコ?』に、木原は合点がいったように頷いた。
外に出るジェスチャーをされてついて行った先には、井戸水のポンプがあった。掘り抜き井戸ではなく、打ち込み式のものだ。金属製の鉄管が地面に刺さっている。その錆びついた緑色の取っ手を上下させると、蛇口から水が出るらしい。
「飲み水は?」
ジェイはコップを傾ける仕草をした。
木原は無言で井戸を指差した。
「まじかよ、二十一世紀の先進国で? クールな売りはどこいった、この国?」
ロベルトがうんざりしたように言った。
やってみろと木原に促されたジェイは、ポンプを上下させる。
ギギギと乾いた音がした。結構な力がいる。体重をかけてポンプを押し、それを引き上げる。朝イチだというのにもう汗をかいてきた。それでも止めるわけにはいかず、重いポンプを押し続けること数十回。ハンドルがやや滑らかに動くようになった。
それに励まされるように、ジェイは力を込めていく。
ぽたり、ぽたりと雫が蛇口から垂れてきた。
ぽた、ぽた、どばあああ!
「うわっ!」
ジェイだけでなく、他のメンツも後ろに飛び退いた。出てきたのは、黒い水だった。ヘドロのようにドロドロしているものが、地面にばら撒かれている。妙に艶やかなそれは、スライムのように弾力がありそうだ。
「うわー、これ、ダメなやつだろう?」
ロベルトはスニーカーのつま先でヘドロを突く。つま先にこびりついたヘドロは取れない。「げ」と声を発するとロベルトは地面にそれを擦り付けた。
うわあという顔でジェイとクリスはそれを見た。だが木原はケロッとした顔をしている。もっとポンプして、という仕草をしている木原を、三人はドン引きしながら見つめた。
「おー! ウォーター、ブラック、ノードリンク!」
木原はバッテンマークを手で作った。
「…………」
誰も動かなそうなことを察した木原は、自らポンプを数十回上下させる。
水は次第に明るい色に変わっていく。蛇口の淵にこびりついたヘドロはまだぶら下がっているが、透明と言って差し支えないほどの変化を遂げた。
「ウォーター、ホワイト、ドリンク、オッケー!」
木原はニコッと歯のない笑みを浮かべる。
「……多分、黒い水は飲めないけど、何度かポンプしたら透明になるから飲めるって言ってるんだと思う」
ジェイは通訳を買って出た。
「ああ、それはジェスチャーで通じた」
「透明はホワイトじゃないぞ」
ジェイとクリスからすかさずツッコミが入る。
「そんな細かいこと気にすんな」
ジェイは鷹揚に見えるといいなと思いながら腕を組んでみた。目線は蛇口の淵にこびりついたヘドロに固定されているが。
家主はもう一度、「ブラックウォーター、ノードリンク!」と言って去って行った。
「……僕はこの水は飲まないよ」
クリスは硬い声で宣言した。
「飲まないって、じゃあどうするんだ?」
ジェイは眉を顰める。数日滞在の旅行じゃないんだ、水を飲まないにも限度があるだろう、とクリスを諭す。
「本国から持ってきたペットボトルの水を飲む」
クリスは頑なに言い張った。
「それじゃ――」
足りないだろうと続けようとしたジェイを、ロベルトが遮る。
「神経質な奴は放っておけ」とロベルトは肩をすくめた。
全く先が思いやられるとジェイも肩をすくめると、持参したマイボトルに水を入れた。