26. Deadweight
黒い水が泉のように口から流れ出るその異様な光景に、ジェイもロベルトも動くことができなかった。時が止まったかのような静寂の中、洞窟内の水滴が落ちる音はさらに速度を上げていく。
ポタポタポタポタ
絶え間なく落ちる水は、まるで何かに興奮しているようだ。
息すらできない中、先に動き出したのはロベルトだった。
「死んでる」
ロベルトは首を振った。首元で脈を取ろうとしたが、首は黒い水でベトベトになっている。代わりに手首に指を置いて脈を取ったが、事切れているのは明らかだった。
「マジかよ……」
ヒューヒューと息を漏らしながらジェイは呟いた。
ジェイは人が死ぬ瞬間を見たことはない。事件や事故に巻き込まれたことはないし、父方の祖父母は存命、母方とは音信不通だ。
「なんで、いきなりどうして?」
ジェイは額の汗を拭いながら顎を噛み締めた。目をきつく閉じてみても、最後に目が合ったクリスの顔が脳裏に焼きついて離れない。
「わかんねえよ。黒い水がって言ってたけど……」
ロベルトはいつの間にか手に付着していたらしい黒い水をジーパンで拭った。いくら拭っても手から色が落ちないことにロベルトは眉を顰める。だが文句は言わない。
一歩も動けないジェイは、そんなロベルトのことが心からすごいと思う。咄嗟の時に動ける奴が本当にすごい奴なんだ。羨んでないで、僕も行動しないと。
ジェイは震える膝を叱咤すると、なんとか立ち上がった。くらりと眩暈がして目の前に星が飛んだ。瞬きを繰り返してそれをやり過ごすと、ジェイはロベルトの隣に並んだ。
クリスの体には外傷は見当たらない。銃で撃たれていたら、Tシャツに穴が開いているはずだろう。しかし、それらしきものはどこにもない。確かに胸の辺りから音がしたのだ。頭を打たれた? いや、クリスは事切れる前にコントロールが効かないほど体を震わせていた。それに標準を合わせるのは難しいだろう。周りを見渡してみたが、生き物らしい気配はない。
ただただ口から黒い水を垂れ流すクリスの遺体に、ジェイは現実と虚構の区別がつかなくなってくる。
悪い夢なら醒めてくれ。
いくらそう願っても、それを嘲笑うかのように目の前に突きつけられる現実。心の底ではわかっている。
これは、今この瞬間、リアルに起きたことなのだと。
覆すことはできないのだと。
この現実とともに、先に進むしかないのだと。
「とにかく、先に進むしかないな」
ジェイが考えていたことと同じことをロベルトはつぶやくと、固く目を閉じて目頭を揉んだ。ロベルトはクリスのTシャツでクリスの口元を拭う。だが、いくら拭っても次々と黒い水が溢れ出てくる。
「しょうがない。Tシャツでくるむか、顔」
「えっ」
あまりにも淡々と言われた言葉にジェイは自分の世界から引き戻された。
「仕方ないだろ。これじゃ滑って背負えねえよ」
「うん……そう……だな」
二人がかりでTシャツを脱がしてクリスの顔をくるむ。頭頂部できつくTシャツの袖を結んだ。申し訳ないと思いつつも、ジェイは顔が見えなくなったことにホッとしていた。
目が。あの目がまだ、ジェイを見ている気がするのだ。クリスが最後に伝えたかったことはなんだったのだろう?
考えてみても答えなど探せるわけはない。これから一生わかることがないという事実が重くのしかかる。人はこうして最後に伝えたいことを伝えられないまま死んでいくのか。生きた証を、自分の思いを遺すことなく、人はあっけなく死んでいくのだろうか。
ばあちゃん。
ジェイは本国の祖母のことを想った。もっと話を聞いてあげればよかった。まだ遅くない。帰ったら真っ先に祖父母の家へ戻ろうとジェイは心に決めた。
そして、気持ちを切り替えるようにジェイは頭を振った。
ロベルトはクリスの体を背負って立ち上がった。ジェイも後ろからクリスを支える。力のあるロベルトでもクリスの体は重いのだろう。腕の血管が大きく盛り上がっている。
ここに置いていって後で救急隊に回収に来てもらえば、という考えが頭をよぎったが、ジェイは口に出さなかった。ロベルトは口は悪いが人を切り捨てられる人間ではないのだ。そのことをジェイはよく知っている。
「ジェイ、クリスは俺が引き受けるから先を歩いてくれ。コンタクトが落ちちまったんだ。あまり先まで見えない。なるべく歩きやすい道で頼む」
わかった、とジェイはクリスの体から手を離した。ずしりとロベルトに負担が入ったようで、ロベルトは小さく「うっ」と唸った。
「……僕今、ロベルトが何考えたかわかったんだけど」
「いや、お前も同じこと思ってただろ」
「「Deadweight」」
口を揃えて二人は言った。
思わずぷはっと二人で吹き出す。不謹慎なことは承知だが、だからこそ笑ってしまうことはある。まさかリアルでDeadweightを体験することになるとは。ダークジョークで緊張が緩んだ二人は、慎重に歩みを進めていった。
「お前と一緒でよかったよ」
「僕も」
これが二人の最後の会話になるとも知らずに。




