20. 異常
「じゃあ、じゃあ、誰かが夜中にこの中に入ってきたんだ。そうに違いない。そうに違いないんだ。玄関も濡れてたし。そうだ、濡れてたんだ。それで、僕のスマホを盗んで行ったんだ!」
クリスはぶつぶつと呟きながら狭い部屋の中を行ったり来たりしている。
「それはないだろ。金目の物なら他にもあるし、財布を取られたわけでもないんだろう? 玄関が濡れてたのは、ロベルトだ、な?」
ジェイはクリスを刺激しないように穏やかに話しかけた。ロベルトに話を振る。
「いや、俺が外に出ようとした時はすでに濡れてたぞ。てっきりお前らどっちかが外に出たんだと思ってたけど」
「…………」
ジェイは今朝は玄関からは一歩も外に出ていない。トイレ(と言う名の穴)小屋があるのは玄関とは正反対の敷地内で、三人はめんどくさがって毎回縁側からそこに行っている。
「……まあ何にせよ、せっかく車出してくれるって言うんだからさ、もう帰ろう」
ジェイは提案し、ロベルトも同意する。
「いやだ。僕はスマホを取り返すまで帰らないよ。この村の人間に、僕たちを不当に扱うのはいけないんだってことを見せてやる。舐められたら、舐められたらおしまいなんだよ! 僕は、絶対に舐められない!」
あんなに帰りたがっていたクリスの頑ななまでの態度に、ジェイとロベルトはいよいよ本格的に異変を感じ始めた。
クリスは全身を震わせている。呂律もやや怪しいし、同じ言葉を繰り返す様は薬物中毒を彷彿とさせた。
ジェイは散らばったクリスの荷物に目を走らせた。いかにも薬物らしきものはなさそうだが、娯楽用ドラッグには食べ物に混ぜられているのもある。チョコレートやキャンディなんかが主流だ。それを隠し持ってきていたのかもしれない。
ロベルトも同じ結論に達したようだ。
クリスと距離を取りつつ、クリスの荷物に目を走らせている。
ロベルトと目が合った。
どうするよ? これやべえよ、と目で会話をする。
「とにかく、僕は僕のスマホを探すから。僕のスマホがない状態で、僕はどこにも行かない。昨日のあいつらだ。あの村長が、村長の息子たちが、隠したんだ。今から屋敷に行ってやる!」
クリスは部屋を出て行こうとする。 二人はそれを必死に止めた。こんな状態のクリスを村人に合わせるわけにはいかない。何とかドラッグの効果が切れるまでこいつをどうにかしないと、とジェイは必死に頭を働かせる。気持ちを落ち着かせるために、息を深く吐いてからクリスの正面に立った。なるべく穏やかな笑みをクリスに向けると、クリスは戸惑った顔をして一歩後ろに引いた。
すかさずロベルトが後ろからクリスの肩に手を置く。
「わかった。クリス。お前の言いたい事は、よくわかった。お前のスマホがないんだな。で、お前はそれを探したいんだな。俺たちも協力する。最後にいつスマホを使ったのか覚えているか?」
ロベルトの両腕は、血管がくっきりと浮き出ている。震えて今にも爆発しそうな巨漢のクリスを押さえるのは相当の力がいるだろう。でもそれを顔に出さず、ロベルトは気さくな友人の体で聞いた。
意味を理解していないのか、クリスは頭を左右に激しく振って身を捩った。ロベルトの頭にクリスの手が当たりそうになるが、それを上手くかわす。対面から見ているジェイには真似のできない反射神経の良さだ。
「俺なんかさ、よくスマホ、いろんなところに置き忘れてきちゃうからさ。なんかいつもあるって思うとなかなか意識が向かないもんだよな。あるある。そういう時はさ、後ろから遡って考えると意外に見つかるもんなんだよ。最後にさ、いつ使ったか覚えてるか?」
ロベルトはクリスの抵抗などなかったかのように軽く話を続ける。
「最後……?」
クリスは疲れたように体の力を抜いた。まるで迷子になった子どものように、言葉を絞り出す。
「スマホ……最後……最後は、いつだろう? 昨日の夜かな。昨日の夜に使った気がするけど、もしかしたらあれは一昨日の夜だったかもしれないし、今朝だったかもしれない。スマホ……僕のスマホ……最後……最後……?」
クリスは頭を抱えてぶつぶつと言い出し、やがてしゃがみ込んだ。
ロベルトは両手を万歳の状態にして、一歩クリスから引いた。
『やべえよ』と口だけでジェイに合図する。ジェイも完全に同意だ。
「じゃあ、家の中にあるかもしれないな」
ジェイは努めて明るく聞こえるように言った。
「家の中にはないって言ってるじゃないか! 僕はもう何時間も探したんだぞ!!」
クリスは激昂したように叫んだ。
逆効果だったらしいとジェイが後悔したときには、クリスはまた興奮し始めていた。血の気の引いた頬が真っ赤に染まって、こめかみの血管が浮いている。
「もういい。とにかく僕は探しに行くから!」
二人が止める暇もなく、クリスはサンダルを履いて外に出て行ってしまった。
「クリス!」
ジェイはクリスの後を追いかけようとしたが、ロベルトに止められた。
「こんな雨の中、外に出たら危ない」
「だからだよ。あんな状態のクリス放っておけないじゃないか」
怪我をしたり、道に迷ったり、最悪怪我だけじゃ済まないかもしれない。村人を傷つけるかもしれない。あんな判断力が落ちている状態では何をしでかすか、わからない。
ジェイとロベルトはじっと見つめ合った。
やがて、ロベルトは諦めたように肩をすくめた。
「やれやれ、お前は本当にお人よしだな。いっつも貧乏くじ引きやがって」
ロベルトは自分のバックパックから防水加工のジャケットを引っ張り出した。ついでに、 Tシャツとハーフパンツを着る。
「そういうころが僕のチャーミングポイントなんじゃないか」
冗談めかして、ジェイも自分のバックパックからレインコートを取り出した。雨の降らないこの村で使うことなどないと思ってたけど、最後の最後に役立つなんてなあ。なんとも言えない微妙な気持ちになりながら、ジェイはレインコートを羽織った。
「そりゃそうかもしれないけどよ。いつまでたってもただのいい人だぞ。それじゃ」
婚約者持ちのロベルトに言われると痛いところがある。ジェイは無言でレインコートのジッパーを引き上げると、靴を履いた。




