02. 到着
「それにしても、この国の湿気はやばいな」
ジェイは険悪な雰囲気を払拭させるために話題を変えようと試みた。
「湿度100%だってよ。水の中かよ。窒息死しそうだ」
ロベルトはジェイの話に乗ってきた。こういう時に気遣いができる男なのが、ロベルトだ。
さすが婚約者がいるだけのことはある。
羨ましくない。羨ましくないったら。くそ、羨ましいぞ。
「湿度が100%だからって死ぬわけないじゃないか。そもそも――」
クリスがロベルトに反対する。こういうことはきちっとしておきたいタイプなのだ、クリスは。
「わかった、わかったよ。今はそういう固い話が聞きたいんじゃない」
ロベルトはハエでも払うかのようにクリスを遮った。
あー……とジェイは空を仰いだ。
道はどんどん険しい登り坂になっていく。獣道とはよく言ったもので、本当に獣しか通ることができないのではないかと言うほどの細い道だ。地図アプリは時々こういった道なき道を案内してくることがある。これもその一つなのだろう。
うっそうと茂る森からは、様々な生き物の音がしてくる。
蝉の鳴き声、鳥の鳴く声、木々が揺れる音。
この景色だけを切り取ってみれば、大自然が豊かで素晴らしいですねとコメントがきそうなフォトジェニックな光景ではあるが、画像では決して表すことができないことがある。それはこの湿気だ。肌にまとわりつくような湿気。息ができないほどの濃厚な湿気が重く体にのしかかってくる。息をするたび、体が重くなっていくような気がする。
なんでこの森はこんなに茂ってるんだ。
ジェイは背筋に伝い落ちる冷たい汗を感じた。
まるで、森の木々たちが生き物の生命力を奪い取っているようだと思いながら、ジェイは先に進んだ。
◆◇◆◇
「やっと着いた」
もうこれ以上一歩も歩けないとジェイはその場にしゃがみ込んだ。その通りでロベルトは仰向けになって寝転んでいる。クリスは声を発する気力もないようだ。
正確には、ゴールではない。ゴールが見えるところまでやっと下ってこれた、というのが正しい。
険しい上り坂を登って頂上に着き、さあゴールだ! と思ったら、山の上は本当にただの山の上だった。地図アプリを確認すると、目的地まであと五キロと表示されている。
嘘をつけ。こっからまた歩いたら、山を下ることになるじゃないか。……え、マジで?
ジェイはやってしまったという顔でロベルトを見た。
「どうした」ロベルトが聞く。クリスもジェイを見る。 二人の視線を感じたジェイは、気まずそうに言う。
「えーと、あのね。あともうちょっとだけ歩くかも」
「あとちょっとって?」
「うん。あと数キロってところかな!」
努めて明るく告げたつもりだったが、当然ながら笑いは起きない。二人の冷たい視線を感じながら、ジェイはしずしずと山を下っていった。
上から見下ろす村は、奇妙な印象を受けた。
村があるのは、360度ぐるりと山に囲まれた平地だった。谷というような険しいところではなく、本当にただの平地だ。まるで山が密集しているところから山を一つ分抜き取って、そこを真っ平にしたような土地だった。
これじゃあ行政がデカい公道を作る気にもならないというのも頷ける。
ジェイは半笑いで村を見つめた。
村の奥側、ジェイたちのいる反対側の山から西日が差しているのがかろうじて見えた。厚い雲から突き抜ける太陽光は僅かだが、その僅かな光が集落と畑をぼんやりと照らしている。
村の規模はさほど大きくないようだ。左手手前に広がるのは畑、奥にあるのは集落の集まりだ。共同の炊事場があるのだろうか。集落の中心にもくもくと煙が出ているところがある。
村の中心には大きな屋敷らしきものと、それなりに大きな建物がある。役所か、それとも学校か。
ここの子供たちはどうやって村の外に通学しているのだろうと思いながら、ジェイはバックパックからスケッチブックを取り出して、村の概要をスケッチした。
村の右側は林のようだ。林と山の境目あたりに、小さな赤色の建築物がある。宗教儀式で使うものかもしれない。確かこの国は仏教徒が多いと聞いていたが、とジェイは後で訪れる場所のリストにそこを追加した。
山を登りきるまでは痛いくらいの日差しが差していたのに、村の周りはどんよりと暗い。村全体を覆うように厚い雲が立ち込めているのだ。しばらく眺めていても、雲は動く気配を見せない。
『山特有の気候?』とスケッチブックに殴り書きする。
ブーンと蚊がやってきて、ジェイの腕を刺した。
「そろそろ降りようよ。ここにいたら蚊の格好の餌食だ」
ジェイは荷物をまとめると、またぐったりとしている二人を急かして、あと少し山を下った。
すぐ近くの畑では、男が一人農作業をしていた。
「あ、第一村発見だ。ハロー」
第一印象が大事だと、ジェイは白い歯をにかっと見せて笑いかけた。男は得体の知れないものを見るかのように無言でジェイを見つめた。
「……えーっと。僕たちはその、この村で研究をするためにやってきた者です。ジェイと申し、あ、ちょっと待って、ストップ、ストップ!」
何とか会話を繋げようと話し始めたジェイだったが、男が無言で鍬を振りかざしながらズンズンと近寄ってくるのに慌てる。
「いえ、違います。僕たち怪しいものじゃなくて、ホーキンス教授に紹介されて、あの、英語わかります? わからない……っぽいですよね。ホーキンス教授の研究仲間の村松教授って人がですね!」
ジェイは手を上げて、武器を持っていないことを示すと早口で言った。
「……村松?」
男がボソリと呟いてぴたりと止まった。
「そうです。プロフェッサー村松!」
唯一理解し合えそうな単語をジェイは繰り返す。
男は桑を下ろすと、鋭い目つきで上から下までジェイを嬲るように見た。そして、ついてこいと言うように顎をくくった。
ジェイは冷や汗が止まらない。詰めていた息をなんとか吐き出した。
「やっべえな、ここ。お前、あとあいつが数歩前に出てきてたら、喉をかっ切られてたぞ」
ロベルトが冗談とも本気とも言えない声で言う。
「やめてくれよ。『研究者の卵、異国のフィールドワークで第一村人に殺害される』なんてニュース、母さんが見たらひっくり返って倒れちゃうじゃないか」
ジェイの慌てぶりに、ロベルトとクリスは声をあげて笑った。だがそれは緊張の残る笑いだった。
無言で前を歩いていた男が、ちらりと三人の方を振り返った。無言の圧を感じて、 三人は黙々と男についていくことにした。
ここで待っていろとおそらく言われたに違いない場所で、三人は棒立ちになっていた。 畑を抜けたところ、ちょうど畑と集落の境目だ。
男が去っていてからしばらくの時間が経つが、帰ってくる気配は無い。西日はとっくに沈んでしまったようだ。ガーガーガーというガラスの声が鳴き声がする。
時々村人が通りかかる。みんな重たそうに体を引きずって、覇気のない顔をしている。「ハロー」と笑顔で言っても、無反応だ。
子連れのお母さんが通りかかった。男の子は目を大きく見開いて三人のことを見ている。母親は子どもの手をぐいっと引っ張ると、子どもを覆い隠すようにして足早に去っていく。当然目は合わない。