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01. 旅立ち

 真夏の太陽が照りつける昼下がり。

 サラリーマンの男は電車に乗り込むと額の汗をハンカチで拭った。端の席に座ってビジネスカバンから新聞を取り出す。朝のラッシュアワーでは到底新聞を広げることはできない。乗客の少ない昼の電車だからできることだ。

 一面、二面、三面と新聞をめくるが、そのほとんどがこの夏の異様な暑さに関する記事だった。『最高気温記録更新』、『連日湿度100%』、『熱中症患者相次ぐ』。


『酷暑』とはよく言ったものだ、と男は皮肉げに笑う。

 ローカル記事はほとんど素通りだ。その隅に『四㽷(しすい)村で死亡事故』と書かれた記事があったが、聞いたことのない村の名前など誰も気にも留めない。

 男は興味なさげに新聞を折りたたむと、それを網棚に置いて電車を降りていった。


 ◆◇◆◇


「あっっっっいなぁ」

  ジェイは額から滴り落ちる汗を手で拭った。だが、拭ったそばから新たな汗が流れ落ちてゆく。

 深夜便で寝不足な上に体力をゴリゴリと奪っていくこの気温と湿度に、ジェイは早くもギブアップしたい気持ちだった。腕時計で時間を確認するも、さっき見てから五分と経っていない。引きずるように脚を動かして前に進む。


 母国では平均的な背丈だと思っていたがこの国ではなかなかガタイの良い分類に入るらしいと気づいたのは、現地の空港に降り立ってからだった。地元ではうじゃうじゃいる金髪碧眼が目立つらしいと気づいたのも。

 タンクトップにハーフズボン。背中に背負っているのはパンパンに膨れ上がった大きなバックパックだ。白人特有の白い肌は、既に真っ赤に日焼けしている。今夜寝る頃には肌がヒリヒリしているだろう。


 ローカル線のバス停で降ろされてから、既に一時間以上は道を歩いている。いや道というのもおこがましい。森の中の獣道と言った方が正確だ。その道なき道を、ジェイはひたすら歩いている。


「だから車が走ってるほうの道を行こうぜって言ったのに」

 隣を歩くのはジェイの親友のロベルトだ。

 黒髪でブラウンの瞳、南米系の彫の深い顔立ちのロベルトは、高校時代はクロスカントリー部に入っていたためスラリと引き締まった体付きをしている。日焼けにも慣れているようで、変化のない浅黒い肌を見てはジェイは少し負けた気分になる。


「あっちだと大回りなんだよ。暗くなる前に着きたいだろ、なるべくなら」

 ジェイはぶっきらぼうに言った。

 ロベルトのアドバイスをバス停で蹴った身としては、いまさらやっぱりそっちの方が良かったね、なんて言えない。ややムキになっている自覚はある。だがロベルトとは小さい頃からの幼馴染で親友なのでこういったわがままなところが出てしまうのだ。


 そもそも、村までの最短距離の車道があると聞いていた。だからそこを使うはずだったのだ。だが一昨年の土砂崩れでその道は塞がれ、いまだに再開の目処は立っていないらしい。それを聞かされたのはバスの運転手からだった。ヒッチハイクすればなんとかなるだろうなんて軽く考えていたジェイは、思わず「オーマイガー」と呟いた。身振り手振りで伝えられた内容に、出鼻を挫かれたのはつい先ほどのこと。すでに長い時が経っている気がするが。


 ロベルトは無言で片眉を上げた。バツが悪い思いをしているジェイをわかっているのだろう。ロベルトはジェイに向かって無言で何かをぶげつけた。

「何すんだよ」

 ロベルトが手に持っていたのは、冷え冷えのペットボトルだった。

「あ! ロベルト、それどうしたんだよ。なんでこんなに冷たいの?」

 ジェイはペットボトルを赤子のように抱きしめた。ひんやりとした冷たさが腹に当たる。

「駅で買っといたんだよ。で、保冷パックに入れといた」

 ロベルトはにんまりと笑った。

「ええ! すげえ! お前天才!」

 ジェイはペットボトルを天にかざした。


 ペットボトルの水がこれほど輝いて見えることなどあるだろうか。

 ジェイは勢いよくキャップを外すと、半分ほど一気に喉に流し込んだ。

「おい! ちょっと待てよ。俺のなんだからな」

 ロベルトは慌ててペットボトルをジェイから奪い返す。

「うまい。水がうまい。命の水って、こういうこと言うのかもしんない。あー水の女神様よ。渇ききった我々にお恵みをください」

 ジェイは祈るように両手を天にかざした。

「何やってんだよ。お前」

 ロベルトは呆れたように残りの半分の水を飲み干した。


 二人の後ろからは、はあはあという重い息が聞こえてくる。

「クリス、お前大丈夫かよ」

 ロベルトが声をかける。

「大丈夫? 大丈夫なわけないじゃないか。こんなくそ暑い中、車にも乗らずに獣道を歩いてくなんて、お前らクレイジーだよ」

 クリスは吐き捨てるように言った。


 クリスは滝のように汗をかいている。メガネが汗で曇り、それを苛立たしげに拭っている。背丈はあまり高くないが、脂肪のたっぷりついた身体はこの国の人の二倍の体積がありそうだ。ジェイと同じ金髪碧眼だが、ジェイの方が女性から好意的な視線を投げかけられているような気分になるのは、ジェイの自惚か。まあ、ジェイだって母国に帰ったらただの凡人扱いだが。


 まだぶつぶつと文句を言っているクリスに、ロベルトはうんざりして何かを言いかけた。ジェイはそれを無理矢理遮った。

「まあまあ、ほら。マップによると、あとちょっとで着くみたいだからさ。頑張ろうぜ」

 ジェイは宥めるようにクリスを励ました。


 クリスはこの国に降り立ってからずっと文句ばかり言っている。機内と空港でも「飯の味が薄い」、「言葉が通じる人がいない」から始まって、電車に乗れば「席が狭い」、「エアコンが全然効いてない」と続いた。

 言葉が通じない中、身振り手振りでジェイとロベルトが人に助けを求めると、クリスは後ろでむすっとした顔をしてだんまりだ。ローカル線のバスに乗り込めば、「こんな田舎なんて聞いてない」、「湿度が高すぎる」などなど。


 ジェイはクリスと同じ教授の下でゼミ生をやっている関係で慣れっ子ではあるが、これまでほとんど接点のなかったロベルトはイライラするのだろう。何度か衝突しそうになる二人を、ジェイは何度も宥めすかしてここまできた。


 カラッとした性格のロベルトと、じめっとした性格のクリスは、水と油なのだろう。

 まだ旅は始まったばかりなのにそんなんじゃ困る、とジェイは困ったように眉を下げた。


 ジェイたち三人は海外から人類学のフィールドワークのためにやって来た。

「夏休みの課題はフィールドワークの研究発表だからね。もう君たちはフレッシュマンじゃないんだから。ビーチでパーリーナイツをしてる場合じゃないんだからね」と笑顔で言い切った教授に、ゼミ生は背筋の凍る思いがした。言葉の裏を読み取るなら、『君たち、研究しないなら僕のゼミを追い出すよ』だ。人類学なんていうマイナーな分野、それを仕事にできるのなんて一握りの人だけだ。だからなんとしてでもこのゼミにしがみつかないと、先がないのだ。


 ジェイも青ざめた一人だ。そこまで教授の覚えが良いわけでもなく、大した研究結果を出しているわけでもない。名前をちゃんとに覚えてもらっているかも微妙なところだ。

 ジェイは起死回生のチャンスを掴むために必死に考えた。

 なんか、こう教授がぐっとくるような研究テーマはないか。

 そこで思い出したのが、極東の島国のある村の話だった。教授によると、この村で老人が不可解な死を遂げているらしい。公式な死因は溺死だ。それが細菌感染によるものなのか、遺伝的なものなのか、それともその土地独自の気候的なものなのか、原因はわかっていないらしい。しかもあまりにもマイナーすぎて、その国でもあまり話題には上っていないとの事。教授もたまたまネットニュースで読んだだけだと言っていた。


 これだ。

 ジェイは頭の上に電球が点灯したようなひらめきを覚えた。

 ここに行こう。そしてここでフィールドワークをして、研究結果を発表しよう。教授も「いやあ、君は僕の話をきちんと聞いていたんだね。えらいね。じゃあちょっと助手にしてあげようかね」なんて思ってくれるかもしれない。


 そんな 下心100%で、ジェイはこの夏、山でキャンプをするわけでもなく、家に引きこもってゲーム三昧をするわけでもなく、ビーチでパーリーナイツをするわけでもなく、高いチケット代を自腹で払ってこの国に降り立った。

 この話を聞いて、「まじウケる。そして不憫」と腹を抱えて笑った親友のロベルトが、面白がって一緒について来てくれることになった。

 そしてなぜかその話を聞いていた同じゼミ生のクリスも参加することになった。フィールドワークとはほど遠いほどインドア派であるクリスが、なぜわざわざこんなマイナーなところに来ようこうと思ったのかわからない。おそらくジェイと同じような動機ではないかとジェイは思っている。

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