第5話:記録された家族音声と、誰かの声 前編 ~記憶の声――消えゆく父の響き~
第5話:記録された家族音声と、誰かの声
― 天王寺、午後10時半 ―
雨上がりの夜は、アスファルトの濡れた匂いが、どこか湿った記憶の層を呼び起こすようだった。遠くを走る電車の音がゴトンと響くたびに、石田現吾は握りしめたスマホの画面をもう一度見返す。そこには、数分前に入った娘からのメッセージ通知がまだ残っていた。
娘からのメッセージ:「娘の部屋から、“変な音”が聞こえる言うてる。しかも、“昔の自分の声”みたいやって……」
「……なんや、またワシが消えるんか」石田は口の中で呟いた。
以前、家族写真から自分の姿が薄れていく、そんな経験をしたばかりだ。今回は「声」。「昔の自分の声」だと?娘が覚えている「昔の自分」は、仕事に追われ、家庭を顧みなかった頃の、ぎこちない父親の声だろうか。
胸の奥がチクリと痛む。
天王寺の路地裏にひっそりと佇む地下のバー「トキカサネ」へと続く階段を、重い足取りで下りていく。今夜はいつものように、仲間とバカ話をする気分ではなかった。ただ、この場所で、「この店と、この一杯が、俺らを守る!」と舞鶴が言った言葉が、やけに心に響いた。
「カラン」
ドアベルの音が、微かに木の香りがする静かな空間に響く。照明は控えめで、カウンターの奥では店主・時重が、いつものように無言でグラスを磨いている。
「……黒霧、お湯割りで。濃いめで頼むわ、時重さん」
石田はカウンター席に座り、深く息を吐いた。
「おう、石田はん! 千秋楽の余韻に浸っとるか?」
隣から聞こえるのは、すでにジャックダニエルを傾けている工藤創司と、その隣で山崎をストレートで飲みながら腕を組む弁野正義、そしてカルーアミルク片手に上機嫌な舞鶴尚也の声だった。
舞鶴は昨夜の「存在証明の一人芝居」を終えたばかりで、まだその高揚感が残っているようだった。
「それどころちゃうねん、舞鶴はん。娘がな……」
石田は、娘からのメッセージ内容を二人に伝えた。
「昔の声…? そない言うてもなあ、記憶ならわかるけど、音声かあ……」工藤がグラスを揺らしながら首を傾げる。
「論理的に説明がつかんな。過去の音声記録が、なぜ現代に、しかも個人的な形で影響を及ぼすというのか」弁野は冷静な口調で分析しようとする。
「いざ、声の決戦や! ワシらの声は、未来に響く舞台の台詞や!」舞鶴はすでに次の「舞台」の幕開けを感じ取っているようだった。
その時だった。
「カチ、カチ、カチ……カチャリ」
店の奥の時計が異音を立て、長い針が“12”の位置を指した瞬間、空間がわずかに震え始めた。グラスの表面に、ひと筋の波紋が広がっていく。
時重がカウンターの奥から一歩、前に出た。彼の寡黙な表情に、微かな緊張が走る。
「……来るぞ」その低い声が、空間の隙間に滑り込むように漏れる。
そして、店の奥の非常口――普段は開かずの扉――が、勝手に開いた。
そこから現れたのは、感情の欠片もない表情の女と、クールなスーツ姿の男だった。
「家族構造異常検出。対象:石田現吾。今回は『過去音声記録の効率化』を目的とします」
すました顔で、光の中から女が現れた。「未来の墓場」の虚構情報部顧問、ミラ=ミラだ。続けて、黒いスーツに身を包んだ中二病全開の男も出てくる。時間制御部隊長、†クロノ・ヴァイス†。
「無駄な残響は、未来のコミュニケーションを阻害する。時の歯車は、淀んだ声には容赦しないのだ」
クロノ・ヴァイスが懐中時計を掲げてポーズを決めた。
「やっぱりお前らかい……ええかげん、週一で来るのやめえや」
石田は大きくため息をついた。
「今回は、“現代型父性の削除”の一環として、過去の不要な音声記録を整理します」
ミラ=ミラは宙にホログラムを展開し、「非効率な家族関係」「感情による意思決定の乱れ」といったキーワードを並べた。
「君のような“口数は多いが成果は曖昧な父親像”が残した感情的な音声記録は、未来の家族構造にとってノイズでしかありません」
「誰が口数多いねん。成果は……まあ……うん」石田は目をそらす。
“昔の自分の声”と娘が言った。
“昔の自分”は、仕事一筋で家庭を犠牲にしがちだった自分だ。
その頃の、娘とのわずかな「声の繋がり」が、ノイズだと?
「……娘は、まだ覚えてくれとるんや。それを、お前ら、ノイズ言うんかい!」
石田は立ち上がった。彼の怒りが、黒霧島の熱湯割りのように、静かに、しかし確実に立ち昇る。
「さあ、音声記録の改変は始まっている。娘の記憶から消えるということは、未来の家族との絆から抹消される兆候!」
クロノ・ヴァイスが懐中時計を掲げてポーズを決めた。
「兆候て……お前な、もっとこう、段階踏んでから脅せや!」
「では段階を用意しよう。“声が薄くなる → 娘に呼びかけても聞こえない → 家族の会話から自分の声だけが消える → 存在抹消”」ミラ=ミラが淡々と告げる。
「どんどん現実味を帯びてくるからやめろォ!」石田は叫んだ。
ミラ=ミラがグラスを持ち上げ、控えめに言った。
「今宵の勝負は、『時間軸共振音声記録の感情値・再現性評価試験』。通称、『エコー・クイズ』です」
「うわ、出た出た。また無駄に長いやつや! もう『声のクイズ』でええやろ!」石田は即ツッコミを入れた。
「ルールはシンプル。“本当に価値のある家族の音声記憶”を答えられるか。答えられなければ――対象の音声記録は、娘さんの記憶からも、そしてあなた自身の記憶からも完全に削除されます」
石田は深く息を吸って、黒霧を一口。その手には、湯気立つグラスと、今にも消え入りそうな「昔の自分の声」の幻影が残っていた。
「しゃあないわ! 消されてたまるかい、俺の声は!」
石田はグラスをカウンターに叩きつけるように置いた。
「いざ、声の決戦や!」舞鶴が叫ぶ。
「そない言うてもなあ、今回もややこしそうやで……」工藤が心配そうに言う。
弁野は静かに、そして興味深そうにミラ=ミラを見つめた。
「感情と音声の関連性か……。論理的ではないが、人間にはそういった側面もある。興味深いな」
「……ワシの答えが、未来の役に立たんでもええ。けどな、娘が笑った声は、俺の中では世界の中心なんや」
石田の静かな熱が、グラスの底から立ち昇った。
バー「トキカサネ」の空間は、時間と空間が歪む交差点へと変貌していた。




