第4話:黒の幕と、もう一人の演出家 前編 ~冷徹の幕開け~
第4話:黒の幕と、もう一人の演出家
― 天王寺、午後10時半 ―
雨上がりの夜は、アスファルトの濡れた匂いがどこか舞台の幕開け前の静けさを感じさせる。遠くを走る電車の音が、まるで劇のBGMのように響く。天王寺の裏路地、その奥にひっそりと佇む地下のバー「トキカサネ」へと続く階段を、舞鶴 尚也はいつになく重い足取りで下りていた。
普段ならば、店の扉を開ける前から「いざ、決戦や!」と叫んでいそうなものだが、今夜は違った。彼の表情には、微かな焦りと、言いようのない疲弊が滲んでいた。まるで、彼の内側で演じられている芝居の幕が、今にも落ちてしまいそうな気配が漂っているようだった。
「カラン」
ドアベルの音が、微かに木の香りがする静かな空間に響く。照明は控えめで、カウンターの奥では店主・時重が、いつものように無言でグラスを磨いている。時重は年齢も本名も不明な寡黙な中年だが、この店の主であり、誰よりも事態を把握しているものの多くは語らない。
舞鶴はカウンター席にすとんと座り、顔に張り付いた笑顔を剥がすように呟いた。
「……時重さん。今夜は……ギムレットを」
彼の声は、芝居がかっているのはいつものことだが、今日はその奥に、隠しきれない真剣な響きがあった。ギムレットは、数々の名言や物語を生んだカクテルと聞く。今の彼には、言葉を紡ぐような、しかし鋭い一杯が必要だった。
時重は無言で頷き、ジンとライムジュースがグラスの中で混じり合う音だけが、静かに響く。
「おや、舞鶴はん。めずらしく覇気がないねえ」
隣に座っていたのは、既にジャックダニエルを傾けていた工藤 創司だった。そのまた隣で、山崎をストレートで飲みながら弁野 正義が小さくため息をついている。
「舞台役者が覇気をなくすなんて、珍しいこともあるもんやな」
弁野が皮肉っぽく言うと、舞鶴はグラスを手に取り、大きく一口煽った。
ギムレットのキリっとした口当たりが、張り詰めた心に微かな刺激を与える。
「そない言うてもなあ……最近、稽古場でな、妙なことがあんねん」
舞鶴の声は、どこか芝居がかってはいるものの、いつもの高揚感がない。工藤の口癖が自然とこぼれる。
「なんや、また幽霊でも見たんか?」
工藤が冗談めかして言う。
「ちゃうねん。誰かが勝手に台本を書き換えとるみたいな気配があんねん。俺のセリフが、他の役者の口から、まるで盗まれたみたいに聞こえる時があんねん」
舞鶴はギムレットを回し、視線を宙に彷徨わせながら、言葉を続けた。
「極めつけに、昔の共演者との記憶も、なんか曖昧になってきてな……。まるで、誰かが俺の“表現”を「書き換え」てるような気がしてな……」
彼の言葉に、工藤と弁野の表情にも陰りが差す。
「それは、気味が悪いな。舞台役者にとって、記憶も表現も命やろ」
弁野がグラスを回しながら真剣な声で言った。彼の普段の皮肉っぽさは影を潜めていた。
「そうや。それやのに、まるで俺の“存在”そのものが、何者かに塗り潰されようとしてるみたいで……」
舞鶴は両手で顔を覆い、深く息を吐いた。
そのときだった。
店の奥の時計が「カチ、カチ、カチ……カチャリ」と異音を立て、長い針が“12”の位置を指した瞬間、空間がわずかに震え始めた。
グラスの表面に、ひと筋の波紋が広がっていく。
時重がカウンターの奥から一歩、前に出た。彼の寡黙な表情に、微かな緊張が走る。
「……来るぞ」
その低い声が、空間の隙間に滑り込むように漏れる。そして、店の奥の非常口――普段は開かずの扉――が、勝手に開いた。
そこから現れたのは、淡い色のスーツをまとい、どこか無表情な男だった。その目の奥には、劇的なものを嫌う冷徹な光が宿っている。彼の姿は、まるで舞台裏の厳格な監督のようだった。
「記録の監査官、グロームだ。本日は“冷徹人格”にて、粛々と職務を遂行する」
「舞鶴 尚也。未来において、あなたの演技は“記録抹消対象”とされました」
静かで、感情のない声がバーに響き渡る。
「未来の墓場」の幹部、グローム所長だ。
「理由:非再現性・感情過多・定義不能の演技構造。よって、全記録より削除されます」
グローム所長は、静かに言い放った。
「記録されぬものに価値はない」。
舞鶴は、顔色を変えずにカウンターにギムレットのグラスを置いた。彼の瞳の奥に、かつての芝居への情熱と、それが脅かされることへの怒りが燃え上がっているのが見て取れた。
そして、ゆっくりと立ち上がる。いつもは芝居がかった身のこなしも、今夜は、内側から湧き上がる怒りによって、本物の気迫を帯びていた。
「……ほな、消したらええやん」舞鶴の声が、静かに、しかし明確に響いた。




