BAR トキカサネ 特別篇 ―未来からの手紙―
夜更けのBARには、工藤とマスターしかいなかった。
工藤はジャック・ダニエルのロックを無言で傾け、マスターはカウンター越しにグラスを拭いている。
氷の溶ける音と、布がガラスをなでる音だけが、店の奥で淡々と時を刻んでいた。
マスターはふと視線を上げ、ドアの隙間に白い封筒が落ちているのに気づいた。
「……なんやこれ。請求書か?」
苦笑しながら拾い上げる。宛名はなく、ただ表に『未来より』とだけ記されていた。
「また妙なもん拾いよったな」
工藤が氷を鳴らしてつぶやく。
「ほんまやな。……まあ開けてみるか」
マスターは肩をすくめ、封を切った。
便箋が二通入っていた。マスターはそのうちの一枚を取り出して、目を走らせる。
『一通目の手紙』
「あの夜、私は救われた。
酒でも人でもなく、“時”そのものに。
一瞬の揺らぎが、確かに未来を変えた。
あれがなければ、私は今を続けてはいなかっただろう」
マスターは眉をひそめる。文面は淡々としているが、重みがあった。
「……思い当たる顔があるような気もするな」
工藤は無言のまま、グラスの氷を揺らした。
マスターの脳裏に、一人の客の姿が浮かぶ。
――あの夜、カウンターに座った、少し疲れた表情の男。
数か月前のことだった。
店に現れたのは、四十代半ばほどに見える男だった。
ネクタイは緩められ、肩には重たい鞄。背広の皺が一日の長さを物語っていた。
「ブランデーを」
声は弱々しく、けれどどこか丁寧さを残していた。
マスターは無言で琥珀色の液体をグラスに注ぐ。
男は一口含み、沈黙を落とす。やがて、ぽつりぽつりと話しはじめた。
「職場のことなんです。部下のことも……いや、家のことも、かもしれない」
途切れ途切れの言葉。
工藤がちらりと視線を向け、ロックを一口飲んで短く返す。
「分かるわ。俺も似たようなもんや」
男は苦笑した。
「課長というのは、どうしてこう、板挟みばかりなんでしょうね」
その笑みはすぐに消え、再び沈黙が訪れる。
氷の音だけが、グラスの底で小さく鳴った。
そのときだった。
「カチ、カチ、カチ……」
店の奥の時計が、普段よりも早く刻むように響く。
男は耳を澄ませ、不思議そうに眉をひそめた。
「……なんだか、変な音ですね」
マスターはグラスを拭きながら、静かに笑った。
「時計もたまに息抜きするんやろ。時を急いでみたり、足踏みしてみたりな」
男はしばらく耳を傾け、それからふっと息をついた。
「不思議ですね。話しただけなのに、気分が軽くなりました」
マスターは拭いていたグラスを持ち直し、言葉を置いた。
「人に話すいうんは、存外にリフレッシュになるもんや。本質的な解決やなくてもな。整理して吐き出せた時点で、自分の中でも整理されとる。そこから“じゃあどうするか”のスタートに立てるんや」
男は目を伏せ、それから顔を上げた。
ほんの少し、未来を見られるような表情だった。
「……ありがとうございます」
グラスの底を覗き込み、最後の一口を飲み干す。
その夜、彼の背筋は、来たときよりも幾分まっすぐに見えた。
マスターは視線を落とした。指先の下には、まだ開いていない便箋が残っている。
彼はそっと、もう一枚を取り出した。
『二通目の手紙』
「次に私を待っていたのは、冷たさではなく温もりだった。
酒の苦みではなく、黒い一杯の余韻。
氷の音ではなく、湯気の立ちのぼる場所で。
そこでまた、新しい“トキカサネ”と出会った」
読み終えると、マスターは鼻をひくつかせた。
……コーヒーの香り?
「いやいや、掃除のときに豆こぼしただけやろ」
苦笑しつつ、拭いていたグラスを置いた。
工藤は黙ったまま、ジャックのロックを見つめている。
「カチ、カチ、カチ……カチャリ」
店の奥の時計が、普段とは違う音を立てた。
長針『12』を指した瞬間、空気がわずかに震える。
工藤はジャックのロックを置き、低く呟いた。
「……あかん。来よるぞ」
マスターの手が止まる。
その声が落ちたと同時に、開かずの扉が静かに音を立てて開いた。
──To be continued in 喫茶 トキカサネ。
「BAR トキカサネ」特別編をお読みいただき、ありがとうございます。
で……来週からは、「トキカサネ」シリーズの次回作をお届けしてみますね。
次は“喫茶”。
BARとはまた違う空気になると思いますが、根っこのテーマは似たりよったりです(笑)
よかったら、また覗いていただけると嬉しいです。
※次回作も「Kindle Direct Publishing」にて、地味に電子書籍してます。