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第7話:封印された味覚と、歪んだ食文化 前編 ~封印された味覚の夜~

第7話:封印された味覚と、歪んだ食文化


― 大阪・天王寺、午後10時 ―


 雨上がりの夜は、アスファルトの匂いがどこか重く、蒸し暑い空気と混じり合っていた。遠くから聞こえる電車の音が、ゴトン、ゴトンと規則正しく響く。その音だけが、今の俺――工藤創司の心にじんわりと染み込んでくる。日中の喧騒が嘘のように静まり返った路地裏を、黒いビジネスバッグを片手に歩く。


 天王寺の一角。地下へと続く階段の先に、看板も出ていない一軒のバーがある。「トキカサネ」――時間の流れから切り離された、知る人ぞ知る秘密基地のような場所だ。


 俺は、いつものように重い足取りでその階段を下りていく。心には、新商品開発の行き詰まりと、部下とのすれ違いがこびりついていた。特に、今回の企画で求められている「味の言語化」がどうにも腑に落ちない、頭の中には理想があるのに、言葉も、形も、まるで掴めない。


「……ジャック、ロックで」


 ドアベルの音がカランと鳴る。微かに木の香りがする静かな空間に、その音が染み込んでいった。カウンター席に腰を下ろすと、店主・時重が無言で頷き、琥珀色の液体をグラスに注いでくれる。控えめな照明と、彼の寡黙な佇まいが、このバーをより一層、時間の外にあるように感じさせた。


 グラスを手に取る。ジャックダニエル特有の甘くスモーキーな香りが、鼻腔を優しくくすぐる。俺は、その香りを静かに嗅ぎながら、今日の悩みを反芻していた。


 やがて、いつもの連中がぞろぞろと姿を現す。


「おう、工藤はん。また先にやってんな!」


 豪快な声とともに現れたのは、現場一筋の熱血男・石田だ。顔には、今日も全力で働ききった疲労と満足感が滲んでいる。


「しゃあないわ! 熱意が足りひんのちゃうか!」彼はいつもの口癖で、俺の悩みを笑い飛ばす。


 黒霧島のお湯割りを豪快に煽りながら、こう続けた。


「ワシかてな、ついこの前や。娘の声、消えかけとった記憶と向き合うてな……。味覚も絆と一緒や。心で感じるもんやで」


 ああ――彼には、確かに“声”と“感情”を巡って闘った経験がある。あの夜のカラオケ大会、歌声で娘との絆を守り抜いた、あの姿を思い出す。


 続いて、弁野が静かに扉を開けて入ってきた。


「工藤さん。感情論では何も解決しませんよ。論理的に、何が足りないのか、きちんと分析すべきです」


 山崎をストレートで口に含みながら、彼はいつもの冷静な口調で言う。正論である――けれど、その理屈が今は、どこか心を閉ざす。


「……とはいえ」


 弁野はふと目線をグラスに落とし、静かに続けた。


「感情の“ノイズ”が、時に真実を導く。ミラ=ミラとのあのやり取りで、そう痛感したこともあったな……」


 彼がAIに“正義”を問われた夜の記憶が、今も彼の中に残っているのだろう。そして、店内の空気が一気に芝居がかった熱を帯びる。


「いざ、表現の舞台や! 味が伝わらんのは、演出不足やないかい!」


 中央に陣取った舞鶴が、カクテルグラスを高く掲げながら叫んだ。カルーアミルクを軽く揺らし、その声にはどこか高揚感が滲んでいる。


「工藤はんの創造性は、社内随一やて聞いとるで!なら、その妄想力、遠慮なく舞台にぶち撒けたれや!」


 自分が信じる“表現の力”それを貫いた孤独な一人芝居が、今の彼の原動力になっている。カウンターには、それぞれの酒と、それぞれの想いが並ぶ。静かに響くグラスの音が、悩みの底に小さな波紋をつくった――。


「そない言うてもなあ……最近、企画してる新商品の味が、なかなか理想通りにいかへんのや。部下とも、なんかこう、噛み合わんくてな……どうしても、俺のイメージする“深み”が、言葉でも、試作品でも、伝わらへんのや。俺の中の『封印された調味料』が、解放できへんような気がして…」


 俺はジャックダニエルを傾けながら、彼らにぼやいた。それぞれの言葉は、耳には届いているはずなのに、心には響かない。どこか「そない言うてもなあ…」と、また口癖がこぼれた。


 新商品開発課課長として、常に新しい「味」を創造する立場でありながら、自分自身の味覚の限界と、それを他者に伝える難しさに直面していた。


 その時だった。


「カチ、カチ、カチ……カチャリィィィンッ!!」


 耳をつんざくような異音が、店の奥の時計から響いた。通常の時計の針とは異なる、オブジェのようなその時計が10時10分を指した瞬間、空間全体がブルブルと震え出し、グラスの表面には波紋が広がる。照明がチカチカと点滅し、まるでスマホがバイブレーションモードに入ったように、店のすべてが不穏な振動に包まれた。


 時重がカウンターの奥から一歩前に出た。


「……来るぞ」その低い声が、空間の隙間に滑り込むように響いた。


 寡黙な彼の、珍しく緊迫した声に、おっさんたちの顔から笑顔が消える。


 グラスを握る手に、自然と力が入っていた。


 普段は開かずの扉である奥の非常口が、「ドォォォォンッ!!」と地響きを立てて開き、そこからモクモクと煙が立ち上る。


 冷たい風が店内に流れ込み、酒の香りと混じり合った。煙の中から現れたのは、白いコートを羽織った青年――†クロノ・ヴァイス†。


 そして、無表情な美貌の女性、ミラ=ミラ。


 彼らの姿は、まるで“時間”そのものが具現化したような異質な存在感を放っていた。


「時の歯車に囚われし亡者たちよ……。今宵、再び、その無意味な時間軸を歪めに来たぞ!」


 クロノ・ヴァイスが懐中時計を掲げてポーズを決めるたびに、バーの空気が冷たくなる。まさに「スモーキー中二病」だ。


「出たな、ラフロイグの中二病王子!毎日毎日、ようそんなポエム思いつくな!」


 石田が即座にツッコミを入れる。もはや完全に常連同士の会話だ。


 ミラ=ミラが、まるでスーパーの特売品を紹介するかのように、淡々と宣言する。


「工藤創司。未来の味覚は効率化され、感情的な調味料は排除されました。あなたの悩む新商品のコンセプトは、未来では『非効率的な感情ノイズ』として削除対象と判断されました」


 さらに続ける。


「あなたの新商品は、未来の食文化の生産性を阻害する要因となる。その『不確かな味覚』は、我々の効率的な未来には不要です。人間の複雑な感情に依存する味覚は、生産性と供給の安定性を損なう“バグ”に他なりません。我々の未来では、栄養素と機能性こそが“味”の定義なのです」


「また人の味覚に口出ししてきよったな!」


 石田が激怒し、拳を握りしめる。彼の「破壊神の契約者グランド・デモリッション」としての熱血漢の気質が、「未来の墓場」の理不尽な主張に反応する。


「しゃあないわ! 感情こそが味覚の醍醐味やろがい!それをノイズとは、味音痴にも程があるぞ!」


 クロノ・ヴァイスは、工藤の新商品コンセプトを冷たく見下ろしながら、どこか個人的な感情を揺るがせるように呟いた。


「……過去に、味覚の歯車を狂わせた者がいた。そのせいで、未来では多くの美味が失われたのだ……。私自身も、その“歪んだ味覚”によって、未来で“落ちこぼれ”という烙印を押された一人だ。その失敗の記憶は、今も燻っている……。効率を追求した結果、失ったものがある……」


 舞鶴がカクテルグラスを高く掲げ、マイクを握るように叫ぶ。


「いざ、味覚の決戦や! ワシらの舌で、未来の理不尽、ぶち壊したるわ!感情という名の調味料、ぶち込んだるでえ!最高の演出で、その歪んだ味覚を矯正したる!」


 弁野が冷静に口を開く。


「感情が味覚のノイズだと? 『絶対法典レギス・エターナ』をもってしても、その判断は論理的に破綻している。人間の五感は、効率だけでは計れない深みを持つ。それは“バグだが、必須のシステム”と言える」


 AIであるミラ=ミラの論理を批判するように、彼は続ける。


「なぜ、未来は感情をそこまで排除しようとするのか? 論理的に説明を求める!」


 クロノ・ヴァイスは、工藤をまっすぐ見据え、懐中時計をゆっくりと閉じた。


「ならば、工藤創司。その『封印された調味料グラトニック・フォーミュラ』に宿る真の価値を、このトキカサネで示せ!勝負形式は――『未来式味覚プレゼン対決』だ!」


 俺は、耳慣れないはずのその言葉に、なぜか覚えがあるような錯覚に陥った。


 まさか……。こいつらが俺の“そこ”を知っているとは……。社内で温めている、誰にも話していない新商品のアイデア。


 それは、特定の味覚が「封印」されているという妄想に基づいていた。それをなぜ、この未来から来た組織が知っているのか。背筋に、冷たいものが走った。


「なんでお前が、その名前を……!?」


 俺の驚きの声に、クロノ・ヴァイスは不敵な笑みを浮かべた。

 


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