第9話 付喪神との対面
翌朝、朝食の支度で女中達が忙しくしているなか、小箱が入っている風呂敷を抱えた美弥は、1人で静かに門の外に出た。東の空は、藍色から橙色に色づきつつあり、一日の始まりを告げる朝日が顔を覗かせている。いつもと同じお天道様のはずなのに、今日は一段と眩しく輝いて見える。まるで美弥の寂しさや不安を拭い去って、活力を与えてくれているようだ。ぎゅっと目を閉じ、祈るように両手を合わせた。
お天道様、今日から神部家を出て、阿倍野様のお邸に移ります。どうかお空のお母様と一緒に見守っていてください。
目を開け、深呼吸をして朝の清々しい空気を肺に取り入れる。ふーっと息を吐きだすと、いつの間にか門の外に来ていたおまつに呼び止められた。振り向くと、眉を八の字にしながらも無理矢理笑顔を作っているおまつが立っていた。
「あたし1人ぐらいは見送りしてあげようと思ってね」
「おまつさん!」
美弥は込み上げてくる思いを呑み込み、唇を噛みしめた。
「そんな顔で嫁ぐもんじゃないよ」
「すみません……」
目の端に溢れてきた涙を、おまつが鼻をすすりながら前かけで拭った。
「泣くんじゃないよ。ほら、迎えの馬車が来たんじゃないかい?」
蹄の音が築地米の向こうから聞こえて来た。大きな車輪に屋根が付いて窓もある馬車がだんだん近づいてきて、門の前にピタッと止まった。立派な馬車に目を丸くしていると、黒い外套に身を包み、つばの広い背高帽子を被った御者が下りてきた。美弥の前で恭しく頭を下げ、扉を開けてくれる。おまつに急かされるように背中を押されるが、美弥はおまつに向き合い、深々と頭を下げた。
「おまつさん、本当にお世話になりました」
「……幸せになるんだよ」
目尻を拭うおまつに、涙を堪えて微笑み、馬車に乗り込んだ。扉が閉められ、窓から手を振ると、おまつは背一杯の笑顔で大きく手を振り返してくれた。
馬車はゆっくりと動き出す。おまつが見えなくなるまで、美弥も笑顔で手を振り続けた。
窓から顔を離して前を向き、震える唇を噛みしめて嗚咽を押し殺す。目を閉じるとこぼれてきそうな涙を、着物の袖でぐいっと拭い、ふうと息を吐き出した。実感はなくとも、晴磨に嫁ぎにいくようなものなのだから、泣き顔で出向くわけにはいかない。パチンと両頬を叩くと、よしっと気合を入れ、阿倍野邸での暮らしを想像してみる。
江戸よりもずっと前、平安の時代からこの国を悪鬼や妖怪から守ってきた阿倍野家は、庶民から貴族、そして国の中枢を担うお上からも祓いの依頼を受けていると聞いている。おそらく霊力も立場も神部家より上なのだろう。暮らし向きも阿倍野家の豊かなのかもしれない。大きなお邸、大勢の女中、書生のような見習いなど、たくさんの人が住んでいるのだろうか。神部家の中しか知らない美弥にとっては、未知数すぎてこれ以上想像が膨らまない。霊力や祓いの修業を積んできた桃華の方が、今後の阿倍野家を背負って立つ若君の晴磨の嫁にふさわしいと思えてしまう。晴磨は、桃華や父よりも強い霊力があるが故に婚約者にすると言っていたが、全く実感がない。
胸元の勾玉を取り出し、掌の上に乗せて見つめた。本当にこれが、霊力を封じているというのだろうか。つるんとした滑らかな触り心地の表面に、窓から差し込む朝日が反射してきらっと輝く。
ところが次の瞬間、突然夜が訪れたかのように一切の日差しが遮られた。窓の外を見ると新月の闇夜のような暗がりが広がっている。窓に顔を近づけて目をこらすが、何も見えない。いきなり夜になるなんてことがあるはずがない。暗い場所を通っているにしては闇が深すぎる。窓に顔を近づけて目をこらすが、何も見えない。本当に阿倍野家に向かっているのか。不安が押し寄せてくる。
一昨日のこと怒っていらしてどこか恐ろしい所に連れていかれるとか?
でも、怒っているからって私を婚約者にするなんてさすがにおかしいわ。
じゃあ、何でこんな真っ暗な所を走っているの?
私、どうなっちゃうの?!
美弥の不安をよそに、馬車は止まることなく暗闇の中を疾走していく。
恐怖に苛まれ、心臓がバクバクと早鐘を打つ。美弥は勾玉を握りしめ、ぎゅっと目を瞑った。
東の都から西の都に行くには馬車でも何日もかかるから、最近は列車っていうものに乗って1日あれば行けるっておまつさんから聞いたことあるわ。どこかで馬車を降りて列車に乗り換えるかもしれない。隣町に大きな駅があったから、そこまで行くのかしら。でも、こんなに暗い道なんてなかったはずだし、一体この馬車はどこを走っているのよ~。
しばらくして馬車は速度を落とし、窓から陽光が差し込んできた。明るい日差しにほっとして目を開け、おそるおそる窓の外を覗いた。築地塀が続いており、神部家よりも大きく立派な門がある。門の右端には「阿倍野」と書かれた大きな表札が目立っている。
えっ?! 阿倍野様のお屋敷? 本当に? 列車にも乗っていないし、暗い道を走っていただけなのに。しかもお日様がまだ高い位置にあるのにもう着いたの?
頭の中が疑問符だらけの美弥が首を傾げている間にも、馬車は止まらず門を通り過ぎていく。窓に顔を近づけて不安な表情を浮かべている美弥にお構いなく、馬車は走り続ける。長々と続いている築地塀の角を曲がり、塀に沿って進んでいくと、勝手口のようなこぢんまりとした門が見えた。その前でようやく馬車は止まった。御者が扉を開け、外套に包まれた腕を伸ばして掌を上に向けてきた。
逃げるなら今だ。だが、果たして逃げていいものか。逃げたとしても行く当てなどない。風呂敷を抱えて逡巡していたが、じっと動かず手を差し出している御者に申し訳なくなり、大人しく手を取って降りることにした。御者は門を開けて頭を下げると、門の向こう側に腕を伸ばし、先に進むよう促してきた。
こうなったら、行くしかない。
ごくっと唾を飲み込み、御者に一礼すると、美弥は意を決して門の中に一歩足を踏み入れた。
赤いツツジの低木が両脇に並び、等間隔に並んでいる飛び石の上を歩いていくと、縁側の前に出た。
日が差し込む縁側に、浅葱色の縦縞模様の着物姿で座って左右を見ている晴麿がいる。風がさあーっと吹き込み、晴磨の前髪をかきあげる。昨日とは違う柔らかい印象の整った顔立ちを向けられ、美弥の胸はトクンと跳ねた。
「着いたか」
「お、お邪魔します」
美弥はさっと頭を下げてから、おそるおそる頭を上げて尋ねた。
「ここは本当に、阿倍野様のお屋敷なのですよね?」
「そうだが、俺は母屋ではなく、この離れで生活している。離れの出入り口は裏門だ。今後も出入りは裏門を使ってくれ」
「そう、なんですね。あの、一昨日のことは怒っていらっしゃらないですよね?」
「怒る? 俺が? 何故?」
「ぶつかってしまったし、助けて頂いたのにお礼もできていないし、書生さんだと勘違いしてしまったし。それに、馬車が暗い道を通ってあっという間に阿倍野様のお屋敷の前に着いて、正門の前を通り過ぎてしまうし。もしかしたら怒っていらして、どこかに連れていかれるんじゃないかと思って……」
晴磨は美弥に一歩近づき、腕組をして首を傾げた。
「一昨日の事は俺の方が美弥に助けられたんだ。それに、そんなことで怒るわけないだろう。馬車のことは事前に説明しておくべきだったな。普通の人間が使う道では、列車を使っても1日かかってしまう。妖怪が使う、人には見えない影の道を神部家から阿倍野家まで繋げて、そこを通って来てもらったんだ」
妖怪用の影の道という聞き慣れない言葉に首を傾げる美弥に、晴磨はさも当然のごとく頷いた。
「ここには、俺が使役している妖怪や、式神がいる。使用人の仕事も妖怪に任せている。人間は俺と美弥だけだ」
「えっ? ほ、本当に?」
晴磨の袖が何かに引っ張られているようにくいくいと動く。晴磨はやれやれと肩をすくめた。
「手を出せ」
「手、ですか?」
美弥は目を丸くして、自分の手と晴磨を交互に見ておずおずと右手を差し出した。
「勾玉をはずしておくわけにはいかないだろう。簡易的だが、式神や妖怪が見えるよう俺の力を込めた札を渡すから、これを身につけておくと良い」
晴麿は袂から、何やら達筆すぎる文字が書かれている紙の札を取り出し、美弥に手渡す。受け取ると、ドクンと心臓が跳ね、力が流れ込んでくる感覚がした。瞬きをすると、目の前に3人の男女の顔があり、驚きのあまり仰け反って倒れそうになった。
「あっ!」
「危ない!」
「お嬢!」
手を伸ばした3人の声が重なる。砂利の敷き詰められた地面に美弥が倒れる前に、晴麿が背中を支えてくれた。
「大丈夫か?」
「はっ、はいっ! す、すみません!」
美弥は顔を赤くし、さっと体勢を整えると頭を下げて謝った。
「あんたたちの、せい。みや、あぶなかった」
いつの間にか晴麿の隣にあらわれたクラが3人の男女を指差した。3人はギクッと肩を震わせて美弥に頭を下げた。
1人は牡丹が描かれた栗色の着物を着た屈強な男で、楕円の輪郭に太い眉、目力のある焦げ茶色の瞳に、鷲鼻が印象的で全体的に顔が濃い。
男性の右側の女性は、蝶の舞う紫紺色の着物とそれに合う漆塗りの櫛を丸髷にさしており、面長の輪郭できりっとした細い眉に横長の黒い瞳、すっと通った鼻筋に細い唇がバランスが良い。
もう1人の女性は大判の梅の花が描かれた白色の着物に金茶色の袴を着ており、三つ編みをひとつに束ねたイギリス結びに琥珀色の簪をさしている。美弥とさほど年齢が変わらない女学生のような幼さの残る丸顔で、明るい茶色の目も丸くぱっちりしている。
「すまねえ、お嬢」
「ごめんよ。会えたのが嬉しくて」
「ごめんね、お嬢。びっくりさせちゃった?」
「えっと、どちらさまですか?」
問いかけると、3人は目を潤ませ、今にも泣きだしそうな顔で美弥の顔を見つめてきた。もしや会ったことがあったのに忘れてしまっていたのかと申し訳なくなり、謝罪しようとしたが、泣き顔から笑顔に一変し、美弥は戸惑ってしまった。
「お嬢がおいらたちのこと見てるぜ」
「確かに目が合ってるよぅ。嬉しいねえ」
「会いたかったよー!」
丸顔の少女が感極まって美弥に飛びついてくると、他の2人も抱きついてきて、もみくちゃにされてしまう。
「お前ら、やめろ。美弥が困っているだろう」
晴磨が美弥から3人を引きはがすと、唇を尖らせてぶつぶつ文句を言った。
「せっかくの再会なのによお」
「そうだよ。このいけず」
「若、ひどい」
晴磨は3人を気にする様子もなく、美弥が3人に投げかけた質問に代わりに応えた。
「こいつらは付喪神だ」
「付喪神? 本当にいたんですね!」
目を輝かせる美弥に3人は詰めより、男は懐から牡丹が彫られた木製の手鏡を取り出し、紫紺色の着物の女性は頭にさしている漆塗りの櫛を抜き、女学生風の女性は頭に着けている琥珀色の簪を取って見せた。目を見開く美弥の両掌の上に、3人はそれぞれ手に持っている物を乗せた。
「これ、お母様からもらった嫁入り道具の! じゃあ、あなたたちは」
息を呑む美弥に、3人は笑顔を浮かべつつぼろぼろ涙を流した。
「良かった……。本当に良かったわ」
込み上げてくる思いが涙となって溢れていく。3人は号泣しながら美弥を取り囲み、抱き着いて来た。
「お嬢! 会いたかったぜ!」
「今まで会いに行けなくてごめんよぅ」
「一人にしちゃってごめんね、お嬢!」
「私の方こそ、探してあげられなくてごめんなさい。付喪神として再会できるなんて、とっても嬉しいです」
3人は鼻をすすりながら、お嬢が謝る必要はない、悪いのは桃華だと眉をしかめた。小箱が壊され、手鏡、櫛、簪が行方不明になったあの時。腹が立った付喪神たちは、桃華を脅かして報復しようとしたところ、桃華の霊力のせいか、妖力が浄化されてしまったというのだ。本体が傷つき、動きがとれなくなったせいで3人は意識を失い、元通りになるまで長い時間を要した。そのせいで美弥に会いに行きたくとも行けず、10年の月日が経ってしまったのだ。それでも無事でいてくれて良かったと美弥が言うと、3人はおいおい声を上げて泣きじゃくった。
「おまえたち、美弥を早く部屋に案内して休ませてやれ。クラ、頼んだぞ」
3人はぴたっと泣き止むと、ニカッと明るい笑顔を浮かべた。
「おう、そうだな」
「お嬢、部屋に行こう」
「お部屋で休んで、いっぱい話そうね」
「あっ、はい」
切り替えの早い付喪神たちに圧倒された美弥は、目尻の涙をさっと拭って頷いた。
「みやのにもつ、もて」
美弥が持っている風呂敷をクラが指差すと、男が片手でひょいと持ち上げた。
「おいらが持ってくぜ」
「そんな、悪いです。私のなのに」
「気にすんな」
恐縮する美弥の袖をクラが引いて縁側を指差した。
「こっち」
「あ、はい」
「また後で」
晴磨は縁側に上がってひらひらと手を振り、廊下の奥へ去っていく。美弥は会釈をし、クラに袖を引っ張られながら縁側へ上り、室内に足を踏み入れた。




