第7話 母から受け継いだ嫁入り道具
晴麿が帰った後、美弥は政伸から絶縁を言い渡され、二度と顔を見せるなと部屋から追い出された。
窓もない狭い部屋に戻った美弥は、畳の上に座り込んでふうっと溜め息をついた。
一体、何が起きたの? 晴磨様が私を婚約者に選んで、お父様から絶縁されて、明日にはこの家を出て行くことになるなんて……。お母様が亡くなってから楽しい思い出はあまりないけど、お母様と過ごしたこの家を出て行くのは、寂しいわ。
美弥は部屋の隅にある行李の蓋を開け、慎重に深緑色の風呂敷を取り出す。畳の上で風呂敷を広げ、ボロボロになっている螺鈿の小箱を見つめた。
朱色を基調にした表面は所々ひびが入っていて、左側の角は欠けて土台の足が折れている。蝶番が外れている蓋をそっと持ち上げて横に置いた。
内側は黒い漆塗りが施されており、桜模様のちりめんの巾着袋がひとつだけ入っている。その中には、小箱の細かい破片と足の土台、蓋の蝶番などがある。
美弥は巾着の中身を確認してから紐を結んで小物入れにしまい、蓋を被せた。螺鈿で描かれた美しい桜の木と桜の花びらを指で撫でながら、小さく呟いた。
「ごめんね。直してあげられなくて」
この小箱は母の綾音が代々受け継いできた嫁入り道具で、唯一残っている遺品だ。綾音の着物や使っていた布団、机、箪笥などは全て佳江に処分されてしまった。泣きながらやめてくれとしがみついたけれど、7歳の子どもが大人の力に適うわけもなく、次々と運び出されていく母の思い出の品を、美弥は涙を流しながら見ていることしかできなかった。小物入れだけは自分の荷物がまとめられている風呂敷の中にしまい込んでいたおかげで、処分されずにすんだのだった。
思い出の中の母はほとんど布団の上にいて、青白い顔で咳き込んでいたが、常に優しい笑みを浮かべていた。綾音はよく美弥に小箱を見せてくれた。陽の光を受けてキラキラと虹色に光る螺鈿の桜に目が奪われた。蓋を開けると、飴色の玉のように丸い琥珀がついた簪と、蝶が舞う金蒔絵が施された漆塗りの櫛、牡丹の花が彫られた木製の手鏡があった。美弥は綾音の膝の上でひとつひとつじっくり眺めながら話す時間が何よりも好きだった。
目を閉じると、あの時の会話が鮮明に思い出される。
「これはね、お母様の、お母様やおばあ様、そのもっと前から、お嫁に行く娘に受け継がれてきた大切な嫁入り道具なの」
「そんなに前から?」
「ふふっ。そうよ。大切にされてきたから長く生きられるの。人から長い間大切にされてきた物には命が宿って、付喪神になるのよ」
「付喪神? この子たちも付喪神なの? 生きてるの?」
「そうよ。私たちのことをそばでいつも見守ってくれているわ」
「すごーい! どこにいるの? お母様の隣? それとも私の後ろ?」
振り返ったり、部屋の中をぐるぐる回ったりして付喪神を探す美弥を、綾音は静かに微笑んで見ていた。美弥は綾音の隣に座り、両手を合わせて目を閉じた。
「付喪神様、どうかお母様が元気になるようにしてください。一緒にきれいな桜を見に行きたいです。お祭りにも行きたいです。お母様とずっと、ずっと、一緒にいたいです。お願いします」ん
「美弥……」
綾音は目を潤ませ、美弥の頭を優しく撫でた。
「小箱は、美弥に渡しておくわ。毎日話しかけてあげて。きっと美弥と一緒にいたら付喪神たちも喜ぶわ」
「私が持ってていいの? じゃあ、毎日お母様が元気になれるように付喪神様にお願いするわ」
綾音は涙をこらえて微笑むと、枕の下から翡翠色の勾玉を取り出し、美弥の首にかけた。
「お母様が作った首飾りも渡しておくわね。美弥、手首のリボンをはずしてみて」
美弥が言われた通り、生まれた時からずっと右手首に巻いている赤いリボンを外してみると、あざが消えていた。驚いて目を丸くする美弥に、綾音は真剣な表情で言い聞かせた。
「この勾玉はあざを隠してくれるの。絶対に首から外してはだめよ。湯浴みの時も、寝る時も、いつも首にかけておくと約束してちょうだい」
美弥は幼いながらも、いつもとは違う母の様子を感じ取り、この約束は絶対に守らねばと力強く頷いた。
「うん。約束するわ」
「ありがとう。このリボンは、髪に結んでおくわね」
美弥の細い黒髪を三つ編みにして、リボンで結び、小箱に入っている鏡を美弥に見せた。
「うわあ、かわいい~! ありがとう、お母様!」
美弥は嬉しさのあまりピョンピョン飛び跳ね、綾音に抱き着いた。美弥が母のぬくもりを感じたのはこれが最後だった。
それからすぐに別れが訪れた。7歳で行う霊力を計測する儀式で、霊力が一切無いことが分かったその日、母は息を引き取った。
「この役立たずめ。これからは親子だと思うな。お前は女中として暮らせ。売りに出されないだけましだと思え」
当主である政伸の言うことは絶対。幼い美弥は否応なく女中として働くこととなったのだった。ついこの間まで令嬢だった美弥が、仕える側になったことに、他の女中たちは憐れみと同情心を向け、優しく仕事を教えてよく面倒を見てくれた。
ところが、綾音の死から数カ月後、政伸は霊力を継ぐ綾音の親戚筋で、妾として囲っていた佳江と、美弥のひとつ下の娘の桃華を屋敷に連れてきて住まわせた。綾音と美弥に仕えていた女中は全員解雇され、佳江が連れて来た女中だけとなり、元令嬢で仕事覚えも悪い美弥は、どんくさいと嘲笑われ、役立たずの厄介者として扱われるようになった。
ただ、おまつだけは違った。佳江が連れて来た女中頭だったが、美弥の境遇を不憫に思って根気よく仕事を教えてくれ、面倒を見てくれた。口調は荒いが、美弥のためを思って厳しく叱ってくれるおまつは、この家でたった一人の味方となったのだ。
翌年、7歳になった桃華が行った霊力計測の儀式で霊力があることが分かり、桃華は後継ぎとして教養を身に着け、霊力を引き出す修業を行ってきた。桃華は霊力が何もない美弥のことを馬鹿にして見下していた。美弥は、辛い修業で溜まった苛立ちのはけ口として扇子で叩かれ、暴言を吐かれ、日常的に虐げられてきたのだった。
その次の年、母の三回忌で、野花と小箱を持って1人で墓参りに行ってきた帰り、ある事件が起きた。
「桃華さん?」
美弥は、庭の大きな岩に隠れている桃華と鉢合わせ、声をかけた。
「しーっ。隠れてるのが分からないの?」
「どうしたんですか?」
「修業したくないから、お父様から逃げてきたの。修業なんてしなくても、今の霊力で鬼ぐらい簡単に祓えるわよ。霊力が全くないあんたには分からないだろうけど。それより、仕事中でしょ? さぼってるの?」
「おまつさんに許可をもらって、お墓参りに行ってきたんです」
桃華は美弥が抱えている小箱をじーっと覗き込んだ。
「これ、きれいね。見せて」
「でも、大事な物で」
「見るだけならいいじゃない」
「あっ!」
桃華が強引に小箱を引っ張った拍子に蓋が開き、櫛と手鏡と簪が飛び出した。小箱を手に持っている桃華が、地面に散らばったそれらを見て鼻を鳴らし、草履で蹴飛ばした。
「ふん。何よ、大した物じゃないわね。あら、その首に下げている勾玉もいいわね。あんたより私の方が絶対似合うわ。それちょうだい」
「だ、ダメです!」
お墓参りの時に着物の外に出しっぱなしにして中にしまうのを忘れていたのだ。美弥は慌てて勾玉を両手で包み込んで隠した。
「何よ、生意気! 寄こしなさいよ!」
桃華が腕を伸ばしてきて強引に紐を引っ張り、美弥は必死になって勾玉を握りしめる。
「もう!」
桃華が手に持っていた小箱を放り投げ、両手で引っ張ってきた。小箱は大岩にぶつかり、蝶番が外れ、土台の足が粉々になってしまった。
「あっ、小箱が!」
美弥が小箱に目を向けて勾玉を握る力が弱くなった瞬間、桃華が力任せに引っ張り、紐がちぎれてしまった。
「お母様からもらった大事な物なのに……」
小箱が壊され、中に入っていた簪、櫛、鏡は草むらの中に消え、勾玉も紐がちぎられ見失ってしまった。右手首に柊の葉のあざが浮かんできたと思った次の瞬間、美弥の目の前は真っ白になった。
気づいたら自分の煎餅布団の上に横になっていて、傍にはほっとした顔のおまつがいた。不思議なことに、ちぎれていたはずの紐が結び直されて、元通り勾玉が首にかけられて、右手首のあざも消えていた。さっきのことは夢だったのかと胸を撫で下ろしたが、早口で説明するおまつの言葉に、現実を突きつけられた。
おまつが言うには、雷が落ちたような音と光が庭から聞こえ、政伸と佳江、おまつと数人の女中が駆け付けた時には、桃華と美弥が倒れていたらしい。政伸は桃華だけ部屋に運ぶよう指示し、美弥は放っておくよう言われたが、おまつはこっそり美弥を部屋まで運んだ。美弥が墓参りに行く際に手に持っていた小箱と、その破片が辺りに散らばっていたので、おまつはそれらを集め、破片は巾着袋に、小箱は風呂敷に包んでおいてくれたのだった。
何が起きたのかはっきりと分からないまま、母からもらった大切な嫁入り道具の小箱が壊れ、手鏡、櫛、簪はいくら探しても見つけることができず、美弥はしばらく立ち直ることができなかった。




