第26話 緊急事態
長屋を出てから美弥は、気がかりなことがひとつあると佐吉に尋ねた。
「与兵衛さんがまた戻ってきたら、おたかさんと与助くんを探しに来たりしないでしょうか?」
「ああ、その心配はないですよ。与兵衛はもうこの世にはいませんから」
さらりと言う佐吉に、美弥は息を呑んだ。付喪神たちは何食わぬ顔で頷いている。
今朝方、隣町との境に架かっている橋の下で、川に浮かんでいる土左衛門が見つかった。どうやらそれが与兵衛だったという噂を、午前中の内に質屋仲間から聞いていたというのだ。だから、茶碗の主がおたかでなければ、主探しに時間がかかっただろうと佐吉は言う。
「例え噂が間違ってて、与兵衛が俺のとこに乗り込んできやがったら、叩きのめしてやりますけどね」
佐吉はニヤリと人の悪い笑みを浮かべた。与兵衛が亡くなっているかもしれないことには驚いたが、佐吉ならおたかと与助を守ってくれるという安心感がある。美弥の耳元で、コハクが笑いながら囁いてきた。
「お嬢、心配しなくても、与兵衛は本当に死んだよ」
「えっ?」
ビクッと肩を震わせる美弥にお構いなく、今度はチョウが囁いてきた。
「あの茶碗、付喪神になったばかりだってのに、見事恨みを晴らしたんだよ」
「ちょ、ちょっと待ってください。どういうことですか?」
チョウの言うことに理解が追い付かず、戸惑う美弥に、ボタンがはっきりと「茶碗が与兵衛を殺したんだ」と言うので美弥の顔は青ざめた。
自分を主から引き離した与兵衛のことを相当恨んでいた茶碗は、美弥が寝ている間に、与兵衛を脅かしてかして川に突き落とし、恨みを晴らしたというのだ。意気揚々と戻ってきた茶碗を皆で褒めたたえたと、付喪神たちは満足気な笑みを浮かべている。恨みを晴らせて主の元に戻れて、幸せな付喪神だと頷くボタンに、チョウとコハクも同調して深く頷いた。人の価値観や倫理観とずれまくっている付喪神たちの考えに、美弥は絶句した。
付喪神が人を殺す? そんなことあり得るの? 生まれたばかりの幼子のように感じたけど、恨みのせいで簡単に人を殺した……。
心配そうな顔で見てくる付喪神たちにどうしたのか聞かれ、美弥は言葉に詰まってしまった。
「お嬢、大丈夫か? 顔色が悪いぜ。まだ疲れてんだろ。おいらが抱えてやるよ」
ひょいとボタンに抱き上げられ、通りを行きかう人々がちらちら視線を向けてくる。
「お、おろしてください! 歩けますから! 大丈夫ですから!」
恥ずかしさのあまり顔を袖で隠して叫ぶが、ボタンは聞こえていないかのように、前を歩く佐吉に続いてスタスタと歩を進める。振り返った佐吉が苦笑を浮かべるが、何も言わずに質屋へと続く道を進んでいった。
結局質屋まで抱えられ、頬を膨らませて俯く美弥に、佐吉が片手で持てる大きさの、長方形の木箱を渡してきた。
「美弥様、この度はありがとうございました。おかげさまで商売に専念できます。お礼にこちらをお持ちください」
美弥が受け取り、ボタンが遠慮なく中身を聞くと1円金貨だと佐吉が答えた。木箱の中を少しだけ開けると、金貨がびっしりときれいに立てて並べられている。
「こんなに頂けません!」
突き返そうとする美弥の手を、チョウとコハクが抑え、ボタンがひょいと手に取る。
「お嬢、これは正当な報酬だよ」
「そうだよ、お嬢。もらっておこうよ」
「商人が一度出したもんを突き返すのは失礼だぜ。なあ、佐吉さんよう」
ボタンが口の端を上げてニヤリと笑うと、佐吉はその通りと頷いた。
これで一件落着、あとは長安の所に戻って解決したことを報告しようと、ほくほくした顔で話す付喪神たちに、佐吉は長安にもいずれ礼と謝罪をしに行くと伝えてくれと頼んだ。
佐吉と別れ、長安のいる金厳寺に戻るため歩いていくと、先日蛛鬼が現われた橋にさしかかった。蛛鬼と対峙した際に開いた穴は、既に新しい板でふさがっている。今朝方、遺体が発見されたというのに、何事もなかったように多くの人々が往来していた。
与兵衛さん、成仏してください。
心の中で祈りながら橋を渡り終え、金厳寺のある町に入ってすぐ、クラと付喪神たちが一斉に振り返り、美弥を庇うように両手を広げた。
ぞくっと背筋が凍る感覚がした美弥は、一歩遅れて振り返った。
たくさんの人々が行きかう中、すらりと背が高く、人間離れした美形の男が道の真ん中に立ってうっすらと笑みを浮かべてこちらを見ている。晴磨と同年代に見えるが、散切り頭の髪は真っ白で、対照的に着崩した着物は血のように真っ赤に染められている。
一歩、一歩、男は近づいてきた。よく見ると額の中央に皮膚が盛り上がったようなこぶがあり、そこから赤黒い角が生えている。笑みの形をした整った口から、二本の鋭い牙を覗かせ、深紅の瞳で美弥をじっと見つめて足を止めた。
「お、鬼……!」
息を呑む美弥の前に、大きな背中を広げて立っているボタンが、声を張り上げた。
「てめえ、それ以上近づくんじゃねえ!」
通りを歩く人々が何事かと振り返る。鬼がいるというのに、誰も逃げようとせず、ボタンを怪訝な顔で見て通り過ぎて行く。
どうして? 前に会った蜘蛛の鬼は他の人にも見えていたのに。それに、この鬼、蜘蛛の鬼とは違う恐さがある。足元から頭の先まで寒気が走って、震えが止まらないわ。
自分でもどうしようもない体の震えを抑えることができない美弥の手を、クラがぎゅっと握りしめる。その手は汗をかいていて、表情も固い。
「みや、ぜったい、まもる」
「クラさん……」
クラも怖いのかもしれない。それでも守ろうとしてくれている。付喪神たちも、背中越しでも分かるほど緊張している。美弥は着物の上から勾玉を押さえて目を閉じ、ふーっと息を吐いて震えを止めた。
目を見開き、数歩先にいる鬼を見据える。深紅の瞳をすっと細めてにんまりと不敵な笑みを浮かべた鬼は、掌を上にして右手を伸ばしてきた。
「やっと会えたね、巫女の生まれ変わり。美弥って言うんだっけ? さあ、こっちにおいで。鬼羅様のところに行こう」
「お嬢を渡すわけねえだろ!」
「絶対に連れて行かせないよ!」
「お嬢が行くわけないでしょ!」
美弥の前に立って両腕を広げたボタン、チョウ、コハクが慄きながらも口々に叫んだ。
「うるさいなあ」
鬼が虫を追い払うように右手を払うと、付喪神たちは一瞬にして美弥の前から姿を消し、通りに並んでいる小間物屋の方へ吹き飛んだ。砂埃が舞い、人々の悲鳴が上がる。
「ボタンさん、チョウさん、コハクさん!」
美弥が3人のもとへ駆け寄ろうとすると、いつの間にか目の前に鬼が立っていて、美弥の腕を掴もうとした。クラが鬼の前に両手を掲げると、透明な幕がクラと美弥を包み込み、鬼の手が弾かれた。
「イヤな感じの結界だ。妖怪だけの力じゃないね。ああ、あのぼっちゃんの式神かな? 少しはやるようだけど、君みたいな雑魚妖怪を式神にしてるようじゃあ、当主のじいさんどころか、闘鬼丸様を封印した父親にも及ばないねえ」
くっくっと含み笑いをする鬼に、クラは何も言わずピクッと肩を震わせる。美弥はクラの肩に手を置いて、鬼を睨みつけた。
「失礼なこと言わないでください! 晴磨様の力は凄いんです。蜘蛛の鬼も退治したんですから!」
「あはは、蛛鬼のことか。あいつは油断するからいけない。昼間から人に鬼の姿見せちゃうし。その点俺は霊力のある人にしか見られないよう、妖力を調整できる」
威張るように胸を張り、得意気に口角を上げた。
「まあ、蛛鬼は完全に祓われる前に逃げ帰ってきたけどさ。ぼっちゃんの力じゃなくて、君の中にある巫女の霊力を使って、祓おうとしたらしいじゃん。せっかくだからその力見たいな。あ、ちなみに俺は諜鬼。よろしくね」
諜鬼が片目をつぶって、指を鳴らした。すると、与助の半分ほどの背丈で、二本角を生やした、赤茶色の恐ろしい顔をした小鬼がわらわらと大勢現われ、美弥たちを取り囲んだ。
諜鬼は、小鬼たちを使って情報収集をしたり、人間の心の闇につけこんで、小鬼がとりついた人間を操って人を殺させ、鬼羅に貢いでいると、自慢気に話してきた。美弥に指を突きつけ、鬼と知らなければ男女区別なく惚れてしまいそうな、妖艶で美しい笑みを浮かべた。
「この間とりつかせた人間の近くに、巫女の霊力を感じたって小鬼が言うもんだから来てみたら、本当にいるんだもんねえ」
おそらく、おたかの心の闇につけいって恨みを募らせ、生霊となったおたかを操って鬼のような姿に変えたのは、諜鬼の手下の小鬼なのだろう。あの時のおたかの顔と小鬼の顔がよく似ている。
美弥とクラの周りを囲んでいる小鬼たちが、獣のような唸り声を上げ、赤い瞳を光らせて、口から覗く刃をガチガチ鳴らし、恐怖を煽って来る。
「ていうか、力の弱い付喪神と、こんな雑魚式神しか連れてないとか、俺が言うのもなんだけど、美弥ちゃんもぼっちゃんも、危機感なさすぎだよね」
諜鬼がふふっと馬鹿にしたように笑うと、先ほど弾かれたクラの結界に手を伸ばしてきた。深紅の瞳をカッと見開き、美形の顔に筋を立てる。白い髪が逆立ち、バチバチと火花を弾かせながら、結界に手を突っ込んできた。恐怖で慄きながら勾玉を取り出して首からはずそうとした時、クラが護符を取り出して破き、高い声を響かせた。
「はるまっ!」
ふいに背後から、美弥の名を呼ぶ低く心地よい声が聞こえた。




