第23話 鬼のような幽霊女
分厚い雲に覆われた夜空は、星すらも仰ぎ見ることが難しい。その上、新月ということもあり、刻々と時が過ぎていくにつれ、窓の外の闇が一層塗り重ねられていくようだ。
幽霊女を迎えうつため、佐吉の身代わりにボタンが布団に潜った。その脇に置いてある行灯のぼんやりとした光が、こんもりと膨らんでいる布団を暗闇に浮かび上がらせている。その他の者は茶碗と共に押し入れの中に入って様子を窺うことにした。
「ボタンのやつ大丈夫かね?」
ほんの少し開けた押し入れの隙間から部屋内を覗いていたチョウが、布団の方を不安気に見つめた。
「佐吉じゃないってすぐにばれちゃうよね。怖いけど、襲われそうになったら助けにいかないと」
「その時は私も」
声を震わすコハクに名乗りを上げる美弥に、チョウとコハクが声を揃えてダメだと制し、クラが頷いた。
ガタガタ、ガタガタ。
廊下の外から小さな音が聞こえてくる。ピリリと空気が張り詰め、ひんやりとした悪寒に包まれていく。チョウとコハク、クラが顔をひきしめ、障子に目を向けた。
「きやがったな」
布団から顔を出したボタンが、緊張の面持ちで障子を見つめた。
ガタガタッ、ガタガタッ!
徐々に音が大きくなり、障子がはずれそうなほど激しく動き出す。ぼうっと青白い光が障子に映り、人影が浮かび上がった。
その途端、光が炎のように広がって障子全体を覆い、貼りつけていた護符が全て燃えつきた。勢いよく障子が開かれ、白い着物に腰までの長い黒髪を垂らし、やせ細って頬がこけている幽霊女が現われた。
顔の前に垂れさがっている髪の間から覗く窪んだ眼が、ぎょろりと布団に向けられた。布団の上に起き上ったボタンを見ると、幽霊女の頭から、先が鋭利な黒々とした角が二本生え、口が裂けて獣のような牙を覗かせた。
「返せ、返せ!」
枝のように細い骨ばった手をボタンに向けて伸ばすと、人魂が部屋内を駆け巡り、次々と護符を燃やしていく。
「おいおい、嘘だろ。こんな簡単に燃やされるのかよ」
その様子を唖然と見ていたボタンがぼやいている間に、幽霊女は風のような速さで布団の上に馬乗りになり、ボタンを押し倒した。今にも折れそうな腕のどこにこれほどの力があるのか、力勝負なら自信のあるボタンが全く動くことができない。
「こ、このやろう!」
「返せ、私の大切な物、返せ!」
ボタンの首に手をかけ、締め上げてくる。喉が締め付けられ呼吸がままならない。
「「ボタン!」」
押し入れから飛び出て来たチョウとコハクが幽霊女に体当たりをし、虚を突かれた幽霊女は布団の上から転がっていった。
「た、助かったぜ」
青ざめた顔のボタンが、くっきりと手の跡がついた喉を押さえて息を吐き出す。
幽霊女はさっと起き上がると、髪を振り乱し、牙をむいて3人を睨みつけた。
「ボタンさん、チョウさん、コハクさん!」
美弥が押し入れから飛び出してきて、付喪神たちに手を伸ばした。
「お嬢、来るな!」
「あたいらはいいから!」
「隠れてて!」
3人が美弥に目を向けた隙に、幽霊女は飛びかかっていく。付喪神たちの言うことを聞かず、幽霊女と付喪神たちの間に入ろうとする美弥にくっついていたクラが、片手を幽霊女の方に伸ばした。
「とまれ」
「くっ!」
うめき声を上げた幽霊女は体を動かすことができず、窪んだ目でクラを睨みつけた。ほっと息をついて美弥がクラに礼を述べた時、悲鳴混じりの甲高い茶碗の声が足元からした。
「ひいぃぃぃ! おそろしや。我の主はこのような鬼ではないぞ!」
足を震わせながら茶碗は美弥の着物の裾に隠れてしまう。
「私の、私の!」
幽霊女は茶碗のいた所を凝視し、声を張り上げた。体をよじってクラの見えない束縛から逃れようと手を伸ばしてくる。クラから小さな呻き声が漏れ聞こえた。
「邪魔を、するな!」
叫び声と共に動けなかったはずの幽霊女はクラに飛びかかっていき、小柄なクラの体を思いっきり張り倒した。
「クラさん!」
畳に打ち付けられたクラは、まるで毬が跳ねるように弾んでから押し入れの襖にぶつかり、その衝撃で襖が外れてクラの姿は見えなくなった。
「「「お嬢!」」」
クラを助けに行こうとした美弥の耳に、必死の声で呼ぶ付喪神たちの声が重なって聞こえてきた。はっとして前を見た時には、鬼にしか見えない幽霊女が、すぐ目の前まで迫ってきていた。
美弥は咄嗟に勾玉を首から外して畳の上に転がし、右手首に浮き出て来たあざを左手で押さえて、硬く目を閉じて懇願した。
皆さんを守って! お願い!
目を閉じていても分かるほど昼間の日差しのように眩しい光を感じ、おそるおそる目を開けると、幽霊女がキラキラ輝く光に包まれていた。
少しずつ光が弱まっていくと、先程までの恐ろしい姿はなく、髪の長いやせこけた女が立っていた。ただ、向こう側の壁が透けて見え、生身の人ではないことが分かる。
「な、なんと! 主!」
美弥の着物の裾から飛び出してきた茶碗が女を見上げ、大きな瞳を更に見開いて驚愕した。
「ああ、私の大切なお茶碗。やっぱりここにいたのね」
女の目から一筋涙がこぼれていく。しゃがんで茶碗に手を伸ばすが、すり抜けて触れることができない。
「何故だ、何故触れてくれぬ!」
茶碗は黒い瞳を潤ませて女のもとに駆け寄る。女は目を伏せて、骨に薄い皮膚が付いたような指を組んで、胸の前で握りしめた。
「必ずまた私の所に戻って来ますように」
祈りのような呟きを残し、光と共に消えていった。
再び訪れた静寂な夜に、親に置いてけぼりをくらった迷子の子どものようなむせび泣く声が響き渡った。




