第21話 生まれたばかりの付喪神
陽が沈み、どの店も固く閉ざされ、通りを歩く人は一人もいない。今宵は新月。夜空に無数に輝く星はあっても、その光が地に届くことはない闇夜が広がっている。
月明かりが届かない夜は、絶対に出歩いてはいけない。闇に紛れてうごめく人ならざる者の餌食にされてしまう。幼い頃、そんな話を母から聞き、おどろおどろしい化け物を想像して寝付けず、夜通し泣きべそをかいて母にしがみついていたことが思い出され、6畳一間の窓を静かに閉めた。
円形の小机は部屋の隅に置かれ、中央には押し入れから出した佐吉の布団が敷かれてある。その周りを囲うようにして座っている付喪神たちとクラが、心配と不安が入り混じった表情で美弥を見た。
「お嬢、本当に大丈夫か?」
「あたい不安でならないよ」
「あたしも。鬼みたいな幽霊なんでしょ。怖いよ」
「みや、こわくない?」
美弥はふっと笑みを浮かべて、胸元に手を当てた。気のせいかもしれないが、手の下からじんわりと、首に下げている勾玉と、袂に忍ばせている、クラが長安からもらってきた晴磨の霊力が込められた護符の温もりが感じられ、美弥の心は落ち着いている。
「私は大丈夫です。皆さんを巻き込んでしまったことは心苦しいですが」
「何言ってんだよ。おいらたちはお嬢を守るためにいるんだぜ。巻き込まれたなんて思ってねえよ」
ボタンが大きな口を横に開いて、ニッと明るい笑みを見せた。
「お嬢が気にすることはないさね。けど、若を連れてこないでよかったのかい?」
チョウが眉を下げて美弥を見つめる。美弥は、障子の外側と内側、部屋中に張り巡らされている晴磨の護符を指差して頷いた。
「晴磨様の護符がこんなにもあるんです。きっと大丈夫ですよ。それに、私が勝手に言い出したことなので、晴磨様にご迷惑をおかけするわけにはいきません」
佐吉は、美弥が神部家の長女で、稀代の陰陽師の血筋を引く阿倍野家の若君の婚約者だと知ると、手の平を返したように丁寧な口調と態度になり、ぜひとも幽霊を退治してほしいと懇願してきた。どうやら佐吉の耳には、神部家の長女が、霊力が一切ない役立たずだという話は入っていなかったようだ。初めて頼りにされ、何としてでも自分で解決してみせると意気込んだ美弥は、晴磨に事情を話して幽霊を退治してもらおうという付喪神たちの意見をやんわり拒否した。
晴磨には小箱を直すのに明日まで時間がかかるため、今晩は金厳寺に泊まる旨を、影の道を通ってクラに伝えてもらった。鬼に出くわさないよう金厳寺の外には行かないようにという短い文を携えて戻ってきたが、時すでに遅し。クラは美弥との約束通り、長安に小箱を直してもらう条件として、幽霊騒動を解決することになったことは黙ってくれたようだった。罪悪感を覚えるが、自分の勝手な行動で晴磨に迷惑をかける方が心苦しい。
美弥を信頼しきっている佐吉は、前金の代わりだと美弥と付喪神たちのために飯を炊き、総菜を買い集めて夕餉を振舞うと、今夜は土蔵で寝るから幽霊は任せたと言い、押し入れの奥にしまい込んでいた一組の布団を持って夕刻には寝間を出て行った。
夕餉の間にクラが晴磨と長安のもとに赴き、晴磨からは文を、長安からは寺に保管している晴磨の護符を大量にもらってきたというわけだ。幽霊を迎え撃つため、昨夜と同じく護符を部屋中に貼りつけ、布団を敷いておいた。
「お嬢、若の護符は少し効果があるかもしれないけど、幽霊は退治できないよ。それに、幽霊じゃなくて悪鬼だったらどうするの? 何か策はあるの?」
布団の向かい側に座っていたコハクが、心配のあまり四つん這いになって美弥の方にずんずん近付いてきた。美弥は頬をかいて苦笑を浮かべた。
「えっと、策があるというわけではないのですが、お話ができたらと思っています」
コハクだけでなく、ボタンとチョウも唖然として、クラは口を開けて数回瞬きを繰り返した。
「肝が据わっているというか、呑気というか。さすがお嬢だな」
「まったく、大した度胸だよ。佐吉の話を聞いて幽霊と話したいだなんて誰も思わないよ」
「どうやって、何を話すの?」
チョウの隣に腰を下ろしたコハクが首を傾げる。
「佐吉さんの話だと、幽霊さんは何かを返してほしいと訴えているようなので、返してほしい物が何なのか分かれば、それを渡して立ち去ってくれるのではと思うのですが」
「会話できるほど理性があればいいけどねえ。佐吉の首を絞めたって言うじゃないか」
チョウが自分の首に手を当てて身震いをし、コハクが膝の上で拳を握りしめる。
「お嬢にはそんなことさせない!」
腕にクラがしがみついてきて、口を引き結んで頷いた。
「当たり前だ。お嬢はおいらたちで守ってみせるぜ」
「そりゃそうさ。にしても、返してほしい物って何なんだろうねえ。佐吉に聞いたら何か分かるかね?」
チョウが目を細めて障子を見やる。護符の影響を付喪神たちも受けるようで、触れたら妖力が浄化されてしまうため、護符の貼ってある障子を開けて部屋の外に行くことができない。
晴磨の式神であるクラには影響がないので、美弥はクラと共に部屋を出て、廊下を挟んで向かいにある土蔵の襖の前で、中にいる佐吉に声をかけた。
「佐吉さん、まだ起きていらっしゃいますか?」
しばらく待っても返事がない。襖に耳を近づけるが、いびきや寝息のようなものは聞こえてこない。
「したに、いる」
クラが階段を指差すと、ゴトゴトと何かが動いているような音が微かに聞こえて来た。階段下を覗くと、ぼんやりとした明かりが見える。
暗がりの中、慎重に階段を下りていくと、足音に気づいた佐吉が、質屋佐吉と書かれた卵型の手持ち行灯を階段の方に向けてきて、安堵の息を漏らした。
「ああ、若奥様でしたか」
「佐吉さん、若奥様はやめてください。まだ婚約の段階なので。それよりも、こんな時間にお仕事ですか?」
「まさか。もうすぐあの幽霊が現われるっていうのに、おちおち仕事なんざできませんよ。いやね、さっきから何か音がするもんだから、ネズミか泥棒でも入ったか気になって見に来たところなんですよ。見たところ何もいないし、盗られた物もないんで、俺の気のせいだったみたいです」
佐吉は昔ながらの商人によく見る小銀杏の頭をかいて、力なく笑った。手持ち提灯のほんのりした明かりの下で見る佐吉の顔は、一瞬幽霊と見間違うほどやつれており、他人が思うよりも当人は相当、幽霊騒動に参っているのが分かる。
「佐吉さん、幽霊が返してほしいという物に心当たりはありませんか?」
「何で俺が。あるわけないですよ」
首を振る佐吉に、美弥は重ねて尋ねる。
「では、その幽霊に見覚えはありませんか?」
「見覚えもありませんよ。あんな恐ろしい顔の女、一度見たら忘れられない」
どこからか、微かにゴトゴトと音が聞こえてくる。佐吉は美弥から視線を逸らして、灯りの届いていない店の奥の暗がりに目を向けた。美弥の裾をクラが引っ張り、出入り口の扉の方を指差した。
「あっち、けはいする」
「けはい? 幽霊、ですか?」
美弥は身構えて顔を強張らせるが、クラは首を横に振った。
「つくもがみ、なりかけてる」
「それって、ボタンさんたちが言ってた茶碗ですか?」
「美弥様、何か仰いましたか?」
佐吉に問われ、美弥は作り笑いを浮かべ、扉付近の棚に陳列されている古い茶碗はどのように仕入れたのか聞いてみた。
佐吉は提灯を掲げて扉付近に進んでいき、棚に明かりを向け、件の茶碗を照らした。美弥の片手をめいっぱい広げた程の大きさで、中指程の高さがあり、蛤のような色ときれいな縞模様が特徴的だ。
「これはひと月程前に、30前後の町人風情の男が売りに来た物です。ちと面倒な客だったんでよく覚えてます」
佐吉は顔をしかめて、男が売りに来た時の状況を話してくれた。
目利きには自信があるという佐吉は、最初に妥当な額を提示した。ところが、高値で買い取ると聞いて来たのにこんなものではないだろと男は首を縦に振らなかった。品物の状態が良かったので、もう少し上乗せした額を言うと、価値が分からないのかと突然怒り出したという。店内にいた他の客に聞こえるよう大声で、この店主は買取りの基本がなってないだの、見る目がないだの、店の評判に響くようなことを言い出し、頭にきた佐吉は男を店の外に追い出した。
すると、さっきまでの威勢はどこへ消えたのか、店先で土下座して同情を誘うように涙を流しながらまとまった金が必要なわけを話してきた。どうやら妻が病で寝込んでおり、薬代のために金が必要だという。働けばいいと佐吉が言うが、幼い子どもも病で倒れ、自分ひとりの働きではどうにもやっていけないというのだ。泣き叫びながら事情を話す男の声は通りを歩く人々や、近所の店の者たちを引き寄せ、人だかりができるほどだった。中には男に同情して涙を流す者もいて、このまま放り出してしまえば店の信用に関わりかねないと、佐吉は男の言い値で買い取ることにした。
佐吉は話を区切ると、拳を握りしめて肩を震わせる。佐吉も男に同情して涙を流しているのかと思って美弥が隣に立つ佐吉の顔を見てみると、先日見た悪鬼にも負けず劣らない鬼の形相に、思わず悲鳴が出そうになった。
「あの男、ずる賢くて憎たらしい奴だったんですよ。俺はすっかり騙されちまった」
「え? どういうことですか?」
「後になって、噂好きの客から聞いたんですよ。あいつ、他の質屋でも同じようなこと言って、どこで拾ってきたか盗んできたのか分かんねえ高価な物を、高値で買い取らせていた質の悪い野郎だっていうじゃないですか。しかも、同情を誘うような嘘をついていやがった。確かに病気で寝込んでる妻がいるが、何でも病気になったのは働きもせず飲んだくれて博打にはまって借金ばかりこさえてくるあいつのせいで、借金を返すために無理して働いたのが原因らしいんですよ。しかも子どもは病どころか、長屋近辺では有名な悪ガキでピンピンしてるってんで、俺はもうはらわたが煮えくり返って仕方がねえ」
佐吉は茶碗に背を向けてぎりぎりと奥歯を噛みしめた。その時、美弥の見ている前で茶碗がゴトゴトと左右に揺れ、縞模様の表面に子どものような丸くて大きい真っ黒な瞳が2つ浮き出てきた。更に瞳の下に裂けた口が現われ、口の中から赤くて長い蛇のような舌をちろちろとのぞかせている。
「ひゃっ!」
美弥が短い悲鳴を上げて、慌てて両手で口を覆った。佐吉には聞こえていなかったようで、美弥はふうと息を吐いて落ち着きを取り戻す。クラが、付喪神として誕生したばかりの茶碗に向かって手を振ると、茶碗は何か言いたそうに口をパクパク動かし、ぎょろりと瞳を動かして佐吉の背中を見た。
「他に何か聞きたいことはありますかい? なければ上に戻って、休ませてもらいますよ。幽霊退治、宜しく頼みます」
階段の方に向かおうとする佐吉に、もう少し茶碗を見たいと言って店に置いてある他の手持ち提灯に火を灯してもらう。佐吉は火事と品物には十分気を付けるよう言うと、大きな欠伸をしながら階段を上って行った。
美弥が手持ち提灯の明かりを茶碗とクラに向けると、いつの間にか茶碗に手足が生えていて、棚に腰掛けて生えたばかりの足をぶらぶらと揺らしていた。
「えっと、茶碗、さん?」
「おお、やはり我が見えていなさる。不思議な力を感じるお人だが、こっちの小さな娘っ子とは違って人の子であろう?」
ついさっきまで声を出しにくそうに口をパクパク動かしていたとは思えないほど、流暢に話しかけてくる。口調とは釣り合わない少年のような高い声に戸惑いながら、美弥は頷いた。
「はい。私は美弥と申します。こちらは、クラさん。二階には、付喪神のボタンさん、チョウさん、コハクさんがいます」
「ほう。我の他に付喪神がいるとな。会ってみたい」
会わせてあげたいのは山々だけど、黙って持っていくのは気が引けるわ。でも、ここにボタンさんたちを連れてくることもできないし。それに、この茶碗さん、幽霊騒動と関係しているかもしれないし……。
逡巡する美弥を、舌をちろちろ出し入れしながら丸い瞳で茶碗が見つめてきた。
「だめか?」
小さき者の視線に負けた美弥は、意を決して手持ち提灯をクラに渡すと、茶碗をしっかりと両手で持ち上げ、「佐吉さん、ごめんなさい」と内心で何度も呟きながら、慎重に二階に運んでいった。




