立ち上がる理由
いつから桜夜のことを好きだったのか、正確には覚えていない。
家が近所の幼馴染で、物心ついた頃からもう仲が良かったし、優しくて明るくて可愛らしい桜夜とは、一緒にいていつも楽しかった。そう感じていたときには既に、無自覚なだけで十分惚れ込んでいたのかもしれない。
だけど、「桜夜のことが好きだ」と明確に自覚した瞬間のことは、今でも鮮明に思い出せる。
4年前。中学1年生のときのことだ。
「……ごめん。せっかくの発表会だったのに、間に合わなくて」
その日は市が主催する音楽コンサートで、桜夜はピアノの独奏を披露することになっていた。
毎年恒例の催し物だったが、そこで中学生がピアノを独奏するというのは滅多にあることではなかった。桜夜の演奏の非凡さが認められた栄誉を、斗悟も彼女と一緒に喜び、必ず観に行くと約束したのだ。
それなのに。
「何があったの? こんなにびしょ濡れで」
桜夜の白い指先が頬に触れた。桜夜の言葉に責めるような響きは一切なく、ただ心配した様子でこちらを見つめている。
いつもと違う、薄桃色を基調としたドレス姿の桜夜は本当に綺麗で、数分前まで壇上に輝いていたであろうその姿をこの目で見られなかったのはあまりにも残念だ。そしてそれ以上に申し訳なかった。
「教えて欲しいな」
桜夜が穏やかに言う。今更何を言っても言い訳にしかならないし、本音を言えば話したくなかったけれど、遅刻の理由も言わずにただ謝るだけの方が不誠実だと思って、斗悟は重い口を開いた。
「迷子がいたんだ。5歳くらいの男の子が雨の中で泣いてたから、放っておけなくて……」
不運が重なったのは確かだろう。妹の優衣が熱を出し、この日に限って両親ともに仕事で不在。ギリギリまで看病をして、落ち着いたのを確認してから急いで家を出て、近道のために突っ切ろうとした公園で――迷子に遭遇した。
「……その子のお母さんを探すのを手伝ってたら、遅れてしまった」
きっと桜夜は許してくれるだろう。だから話したくなかった。優しい桜夜に許すことを強いるような理由だから。
それなら仕方ないね、と寂しげに笑うだろう彼女を見たくなくて斗悟は俯いた――が。
滑らかな手が両頬を包んだかと思うと、そのままぐい、と顔を上げさせられる。そうして視界に飛び込んできたのは、桜夜の満開の笑顔だった。
「斗悟はかっこいいね!」
思いも寄らぬ表情と言葉に戸惑う。
「斗悟は、その子とその子のお母さんのヒーローだよ」
確かに、あの親子の助けにはなれたかもしれない。だけど。
「雨だったけど、全く人通りがないわけじゃなかった。男の子は傘差してたし、濡れてたわけじゃなかった。……だから、あのとき、オレが助けなくてもよかったかもしれない。助けるのがオレじゃなくても……よかったかもしれない」
きっと斗悟が過ぎ去った後、誰かが通りかかってあの子を助けてあげたはずだ。
そうわかっていたのに、斗悟は自分で助けることを選んだ。そうしたら桜夜の演奏に間に合わないと承知の上で。
桜夜が首を振る。
「斗悟が助けてあげたから、その子が悲しむ時間がその時までで済んだんだよ。それってすごく大事なことだと思う。斗悟もそう思ったから、助けてあげなきゃって思ったんでしょ?」
「……それは」
そう、だ。
ここで見て見ぬ振りをしたら、「助けてもらえなかった」という事実が、その時間が続いた分だけ、深く鋭い傷となってあの子を苛み続けるんじゃないかと――そう思ったから。
「斗悟がそういう人で――目の前で悲しんでいる子に真っ先に声をかける優しい人で、私はとっても嬉しい」
少しの屈託もない桜夜の笑顔と言葉が、胸に沁み込んでくる。
「私の演奏はお母さんが録画してくれてるから大丈夫。これから私はきっと、今日の動画を見返すたびに、『あの日の斗悟かっこよかったな』って思い出して嬉しい気持ちになるよ。……だから、泣かないで。ね? 後で一緒に見よう?」
――ああ。
この時だ。
どうしようもなく桜夜のことが好きなのだと、思い知らされたのは。
桜夜に「かっこいい」と言ってもらえる自分であり続けなければならないと誓ったのは。
瞬きのような追憶の時間が終わり、悪夢の如き現実が斗悟の眼前に映し出される。
そこにはボロボロになりながら化け物と戦い続ける4人の少女の姿があった。
――バカか、オレは。
自分を助けるために命をかける少女たちがいるのに、こんなところで寝ている場合か。
こんなかっこ悪い姿を、桜夜に見せられるわけがない。
「そうだよな……桜夜……」
……もしも。
もしも、もう二度と桜夜に会うことができなかったとしても。
それがあの日の誓いを破っていい理由にはならない。
桜夜に誇れる自分であることを、諦めていい理由には――ならない!