崩壊世界への漂着
斗悟が目を覚ましたのは、緑の廃墟だった。
半壊した巨大な建造物の群れが、植物の蔦や葉に覆われて静かに佇んでいる。
周囲に人の気配は一切ない。ただ時折鳥の羽ばたきや鳴き声が聞こえるだけだ。
「……どこだよ……ここ……」
現実感の薄い景色の中、真上から照り付ける日差しだけがやけに鮮明だった。
暑い。それなのに、流れ出る汗は冷たい。
「イリーリス様! いないのか!? イリーリス様……!」
必死に呼びかけても反応はない。やはりあの顎に喰われてしまったのだろうか?
異世界ロイラームに召喚された時から、イリーリスが斗悟の呼びかけに応えないことなどなかった。姿を現すことは少なかったが、大事な時には必ず見守ってくれているという安心感があった。
今は、もうその存在を感じることができない。
斗悟は本当に、一人になってしまった。
孤独感と焦燥感が迫り上がってくる。
「落ち着け……考えろ、一体何が起きたのか……」
自らに言い聞かせ、深呼吸する。
斗悟はイリーリスの導きにより、異世界から現実世界に帰還する途中だった――異なる世界間を繋ぐ「道」を移動中だった。
そこを何かに襲撃されたのだ。女神すら想定していない謎の存在に。その影響で「道」は破壊され、斗悟は異空間に放り出されてしまった。イリーリスが最後の力で守ってくれたようだが、多分、当初の予定通りに現実世界に帰還させることは、できなかったのだろう。ロイラームとは別の異世界に漂着してしまったのだろうか……?
改めて、周囲を見回してみる。
植物に覆われ廃墟と化しているが、立ち並ぶ建造物やアスファルトで舗装された道路などは、現実世界でも見覚えがあった。とすれば、ここは現実世界と同等の技術力を持っていた異世界なのか? しかし、だとしてもこの様子では、文明が今も存続している保証は全くない。
数十年? 数百年? どれだけの年月を放置されれば、人間の世界がここまで荒れ果てるのか見当がつかない――
がたん、と。
不意の物音が斗悟の思考を遮った。
振り返った視界の端に、化物が映り込んでいた。
体長4メートルほどの人型。ただし人間に比べて両腕の比率が異様に大きく、二足歩行ながら四足動物の後脚のように膝関節が後ろに曲がる構造だ。
生物の有機組織と金属質な部品をつぎはぎにしたような、奇妙な質感の体にも生理的な嫌悪感を覚えたが、それ以上に衝撃だったのは、化物の頭部の大半を占領する、巨大すぎる「顎」である。
暴力的な無数の牙が噛み合うその構造が、異次元空間を襲撃したあの「顎」と完全に一致していたのだ。
「追って……来たのか!? ここまで!」
悠長に驚いている暇もなかった。化物の後ろ脚がたわみ、次の瞬間、斗悟めがけて跳躍した。
「うおっ!?」
咄嗟に横に跳ぶ。振りかぶった巨腕が、さっきまで自分が居たアスファルトの地面を粉砕した。斗悟は応戦の構えを取ろうとして――剣がないことに気がついた。
いや、剣どころか、鎧も、ロイラームを旅していたときの勇者の装備が全て失われている。今斗悟が身につけているのは、異世界召喚される前に着ていた学生服のみ。
武器がないのならば、と斗悟は手掌を化物に向け、攻撃魔法の発動を試みる。
「フレイムアロー!」
――その予感はあったが、やはり発動しない。斗悟の叫びが虚しくこだましただけだった。
「魔力が……なくなってやがる……!」
魔力がないのはおそらく斗悟自身だけではない。この世界そのものについてもだ。
ロイラームでは、全ての生物が大なり小なり体内に魔力を持っていたし、大気中にも魔力が漂っていた。だがここにはそれがない。
――唯一、魔力を感じるのは。
この化物からだけだ。
こいつにだけは魔力がある。そのことこそ、この化物が、今いるこの世界にとっても異物――斗悟を追って「外」からやって来たイレギュラーな存在である証左に思えた。
化物がこちらを向く。顔と思われる部位の大半が顎になっており、目に当たる器官は見つけられないが、何らかの方法で斗悟の居場所を知覚しているようだ。
「くそっ!」
武器もなく魔法も使えない今の斗悟は、何の力もないただの男子高校生だ。自分の2倍以上もある化物相手に打つ手などあるわけがなく、一目散に逃げるしかなかった。
すぐ近くに建物が並んでいたことは不幸中の幸いだ。化物はその巨体と、両脚で跳躍する独特な移動法のせいで小回りが効かないらしい。障害物を利用し建物に回り込みながら逃げる斗悟がすぐに追い詰められることはなかった。化物に魔力があるおかげで、集中すれば視界の外でもおおよその位置が把握できることも斗悟には追い風に働いている。
魔力知覚――ロイラームで培った技能だ。装備は持って来られなかったが、異世界で手に入れた技能や鍛えた筋力が失われたわけではないらしい(尤も、魔力を失っているので技能のほとんどは使用できないのだが)。
巨腕を振り回し、廃墟を更に粉砕しながら追ってくる化物には何度も肝を冷やしたが、必死に逃げ続けるといつのまにか化物の気配は遠ざかっていた。
逃げ切ったか、と廃墟の壁を背に斗悟がひとまず安堵したその瞬間。
全身が粟立つような悪寒が走った。怪物から感じる魔力が急激に強まっていく。ほとんど本能的に、寄りかかっていた壁からできるだけ離れる方向に全力疾走した。
直後。
眩い光と熱波を背中に受けて、斗悟は吹き飛ばされた。受け身も取れず数メートル先の地面に転がって、消えそうになる意識を必死に手繰り寄せながら、何が起きたのかを考える。
視界がぐるぐる回って上と下の区別にも難儀する有様だったが、少なくとも景色そのものが一変してしまったことだけは確実だった――さっきまで斗悟が隠れていた廃墟群の大半が消し飛んでいたのだから。
円形をくり抜いたように残された壁の断面が、赤熱し煙を上げている。とてつもない熱量の何かが貫通し、一瞬で溶断されたのだ。支柱を失った廃墟はがらがらと崩れ始めている。
その瓦礫を飛び越えて、化物が斗悟の前に着地した。
「ッ……!」
化物の顎周りに魔力の残滓を感じる。さっきの攻撃はこいつがやったに違いなかった。魔力を口に集中させ、熱線に変えて撃ち放ったのだ。
逃げなければ、と立ちあがろうとするが、体が言うことを聞かない。
化物の巨大な手が斗悟の体を軽々と持ち上げる。
なぜ殴るなり握り潰すなりして殺さないのか――疑問と同時に答えが出た。
この化物は、斗悟を食べるつもりだ。
顎が開き、無数の牙とその奥の深淵が頭上から迫り来る。化物の腕は強靭で、いくらもがいてもびくともしない。
――死ぬのか? オレは。こんなところで。こんな化物に頭から食べられて。
そう実感した瞬間、これまでの人生の記憶が脳内に明滅した。膨大な情報の中に、一際輝きを放つ人物の姿があった。
――桜夜。
最愛の少女の笑顔が。
底知れぬ恐怖と絶望を塗り替えるほどの、生への執着を呼び起こす。
死ねない。もう一度桜夜に逢って、この想いを伝えるまでは。
「死んで……たまるかぁああぁあああ!!」
桜色の閃光が迸り、化物の両腕が斬り飛ばされた。
「――!?」
重金属を擦り合わせたような悲鳴を上げながら、化物が転倒する。
空中で拘束を解かれ尻もちを着いた斗悟の目に映ったのは、少女の後ろ姿だった。
華奢な体躯。艶やかな長い黒髪。両手には淡い桜色の刀身を持つ二刀。
いつのまにか斗悟と化物の間に割り込んでいたその少女は、斗悟を庇うように化物の前に立ち塞がっている。
顔は見えない。だが、あの長い髪は……あのシルエットは。
攻撃を受けたことで怒り狂い、化物の標的は少女に移ったようだ。両腕を失った化物は、上半身に反動を付けて立ち上がると、すぐさま少女に向けて顎を開いた。
化物の口内が光り、魔力が集中する。
「危ない!」
さっきの熱線だ。コンクリートの壁をものともせず融解させる威力を思い出し、咄嗟に少女へ警告しようとしたが、間に合わなかった。
――熱線が発射される前に、化物の首から上が宙を舞っていたのだから。
斗悟は瞬きもせず、少女と化物の動向を注視していたはずだ。
それなのに、少女が間合いを詰めて斬撃を放ち、化物の首を飛ばした瞬間を認識できなかった。
ただの人間とは到底思えない動き。しかし、少女がこちらを振り向いたとき、そんな謎なんてどうでもよくなるほどの衝撃が斗悟の全身を貫いていた。
「ケガはありませんか?」
心配そうに呼びかけるその声も。
大きくて円らな栗色の瞳も。長い睫毛も。
屈む時に少し首を左へ傾げる癖も。それに合わせて流れる艶やかな黒髪も。
冬森桜夜――死の間際にも真っ先に脳裏をよぎるほど焦がれた、最愛の少女の姿が、そこにあったのだから。
「桜……夜……。桜夜っ……!」
気づけば斗悟は、差し伸べられた彼女の手を握って体を引き寄せ、そのまま強く抱きしめていた。
「へっ!? あ、あの、ちょっと……!?」
「会いたかった……ずっと、ずっと……。桜夜…!」
全てが救われた気がした。化物の正体も、ここがどこなのかも、今は全部がどうでもいい。桜夜と生きて再会できた、その一点だけで、何もかも許せる。
たとえこれから先にどんな困難が待ち構えていたとしても関係ない。桜夜を守るためなら必ず打ち破ってみせ――
「どさくさに紛れて何してんだこのスケベぇえぇー!」
怒号とともに斗悟は吹っ飛ばされた。
驚いて顔を上げると、桜夜を含め4人の少女が立っていた――桜夜以外の3人は知らない顔だ。
3人とも不審そうにしていたが、中でも一人、おそらく斗悟を突き飛ばした本人だろうショートカットで吊り目の少女は、顔を真っ赤にしてこちらを睨みつけていた。
「いくら愛理が綺麗だからっていきなり抱きつくなこの変態野郎! 誰だよお前!?」
「だ、誰って……いや、オレは……桜夜の……」
「だーから! まずそのサクヤって誰なんだよ! 知らない奴の自己紹介で知らない名前出されたら余計わけわかんないっての!」
……何を言っているんだ? 話が噛み合わない。この少女達は桜夜と一緒に現れたのだから、彼女と知り合いのはずじゃないか。
「桜夜、この子達は一体……? よければ紹介してもらえないか?」
助け舟を求めて桜夜に問いかける。だが、彼女の反応は思ってもみないものだった。
「その……もし、あなたの言う『サクヤ』が私を指しているのだとすれば、申し訳ないけれど、人違いだと思います。私の名前は夕凪愛理です。サクヤという名に心当たりはありません」
「な……」
なん……だって?
人違い? そんなバカな。
よりにもよって、桜夜を見間違えるはずがない。
自らを愛理と名乗った少女の姿を改めて観察するが、やはり、どう見ても桜夜だ。似ている、などという次元ではなく、本当にそのままの姿なのだ。
「う、……嘘だろ、桜夜。冗談だよな?」
「すみません。本当にわからないんです。あなたに会うのはこれが初めてです」
愛理と名乗った少女が申し訳なさそうに言う。その表情は真剣そのもので、とてもこちらをからかっているようには見えない。
だとすれば、やはり。
「別人……?」
愕然としてへたり込む斗悟。
信じられない。信じたくない。何かないのか。彼女が本当は桜夜であるという可能性は。
目の前に桜夜が現れるという状況を、合理的たらしめる理由は。
縋るような思考が、歓喜で吹き飛んでいた理性を呼び戻す。ただしそれは、斗悟にとって望ましくない疑問と答えを携えてきた。
――日本語、だ。
今更気付く。自分の口から発している言葉も、目の前の少女達が用いている言語も、日本語なのだ。
異世界ロイラームには、当然ながら固有の言語があった。斗悟がそれを理解し、異なる言語を用いる相手とも意思疎通できたのは、女神の力による認識レベルでの翻訳機能が働いていたからだ。音として聞こえる言語が日本語になるわけではなかったが、その意味は慣れ親しんだ母国語のように理解することができた。
今はそうじゃない。
聞こえる音自体が日本語なのだ。女神の翻訳を必要とせずに意味を理解できている。
……つまり、ここは。
「ここは、日本……なのか?」
問い掛けなのか独り言なのか、自分でもよくわからずに呟いていた。
ここが日本なら。斗悟にとっての現実世界ならば。
桜夜がいてもおかしくない。いや、いるに違いない――。
「まあ確かに、『日本』と言えばそうかもしれないけど」
4人の少女のうち、長身で大人びた風貌の少女が、緩くウェーブした茶髪をかき上げてくすりと笑った。
「随分古めかしい表現するのね、キミは」
古めかしい。
その言葉でまたピースが繋がる。完成して欲しくない、無情な正解の形が浮かび上がって来る。
同じ言語。名残ある廃墟。気づかないふりをしていたかった、ある推論。
「教えてくれ……今は、西暦何年なんだ?」
こんな、使い古されたSF映画のような台詞を、大真面目に言うことになるなんて。
少女たちは困惑して顔を見合わせたが、斗悟の迫真の表情でふざけているわけではないとわかってくれたようだ。
愛理と名乗った少女は、真摯に、おそらく彼女らにとっては常識であろうその答えを教えてくれた。
「2125年。今日は、西暦2125年の7月20日です」
それは。
斗悟が異世界ロイラームに旅立ってから、ちょうど100年後の日付だった。