星の音階を紡ぐ
蓮を中心として、広範囲に半球状の結界が拡がった。
それは夜空を映した巨大な天球だった。
天球の内側では、荒れ狂う暴風雪がピタリと止み、舞い飛んでいた雪の粒はハラハラと地面に落ちていく。
そして響き渡る、蓮の歌声――『星の音階』。
蓮の歌声が響く天球内は、彼女の桜力に満ちている。吹雪が止まったのもそれ故だろう。雪を操作した吹雪を維持していたウェンディゴ・メナスの魔力の働きを、蓮の歌が阻害しているのだ。
同時に、温かい力が体の奥底から湧き上がってくる。
これが蓮の『開花形態』の能力か。
桜色に変化した髪と虹彩。瞳の中に現れた花弁の模様。そして驚異的な桜力の上昇と、桜花武装の変貌。
誰もが予想だにしていなかった、蓮の覚醒。
適合率が80%を超えなければ発動できないはずの、『開花形態』を、適合率50%程度に過ぎなかった蓮が発動させているという異常事態だ。
だが、それすらどうでも良くなるほどに、斗悟はこの光景に目を奪われていた。
――なんて、美しい。
天球には等間隔に五本の光の線が走っており、そこに浮かぶ満点の星が蓮の歌声に合わせて瞬きを繰り返している。
まるで、譜面に見立てた夜空の上を、星の音符が躍っているような幻想的な光景だった。
『みんな、聞いて!』
蓮の呼びかけが頭に響いて、我に返る。彼女の歌は続いているが、スタースケールの力で歌いながら念話を送っているようだ。
『この天球の中では、敵は弱体化してみんなは強くなる。でもその効果は、あたしがこの歌を歌っている間しか続かない。歌い終わるまで4分……その間に、絶対アイツを倒して!』
「……ありがとう、蓮。4分もあれば長すぎるくらいだ。やるぞ、みんな!」
「ああ!」
スタースケールから届く愛理の声に全員が応える。
『あいつの位置は……ここ! バラバラになっても、もう逃さない!』
蓮の声と共に、天球内に散らばるいくつかの雪のまとまりが、目印のように光を発した。強化されたスタースケールのスキャンが、分裂し潜伏していたウェンディゴ・メナスの位置を看破し、さらにマーキングを付与してくれたのだ。
「そのサポートは最高だ、蓮!」
すかさず愛理が突撃し、光翼を羽ばたかせて分裂体の一部を消し飛ばした。
ウェンディゴ・メナスの何が桜花戦士達を苦しめていたかと言えば、それは吹雪と分裂能力を組み合わせたステルス戦法だ。それを封じた今、奴の優位は完全に失われ、形勢は逆転した。
「すごいよ蓮ちゃん! あたしの桜力が回復してる! これならまだ戦える!」
「ソーンクラウンの、対イーターへの攻撃力も上がっている。これなら私も防御だけじゃなく、攻撃にも参加できる」
「よし……! みんな総攻撃だ! このまま奴を削り切るぞ!」
潜伏手段を失ったウェンディゴ・メナスの分裂体を、愛理と斗悟の刃が、比奈子の銃撃が、ノルファの鎖が、次々に葬っていく。
雪粒に分裂したままでは防ぐことも逃げることもできないと悟ったウェンディゴ・メナスが、苦し紛れに集合して魔獣の姿を形造った。だがそこに、『開花形態』で強化された愛理の斬撃が振り下ろされる。
辛うじて狼の顎で花篝を受け止めるウェンディゴ・メナス。しかし愛理の刃を完全に防ぐには至らず、徐々に牙が砕かれていく。
「ここまでだな……イーター!」
ついに愛理の斬撃が狼の顎を砕き、本体を貫かんとした――その時。
「⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎―――――!!!!」
再び、ウェンディゴ・メナスが咆哮した。
その響きに込められた意図は、弱者への嘲笑を含んだ先のものとはまるで異なっている。
これは――憤怒と憎悪だ。
追い詰められた獣が、全てをかなぐり捨てて最後の賭けに出ようとする時の覚悟の叫び。しかし自然界の獣と異なるのは、この期に及んで奴が目的に据えたのは、自身の生存ではなく敵対者の殲滅であるということ。
ウェンディゴ・メナスの咆哮に合わせて、全ての雪が吸い込まれるように奴の元に殺到した。その風圧で愛理が吹き飛ばされる。
「くっ! まだあんな力が――!」
『みんな気をつけて! スタースケールの影響下でも雪の操作を制限できない! あいつ、次の攻撃に全てを注ぎ込むつもりだ!』
天球内の弱体化に抗って雪を集めているのか。それは口を縛られたホースに大量の水を勢いよく流し込んで、無理矢理口をこじ開けるようなものだ。反動でウェンディゴ・メナス本体にもダメージが出て、体が崩壊し始めているが、それに躊躇する様子は一切ない。
――同じだ。あの時と。
斗悟は直観した。この世界で初めてイーターと戦った時――追い詰められたイーターの群れが時限爆弾を生み出した時のことを。
ウェンディゴ・メナスは、集めた雪を胸の前で凝縮させる。極限に圧縮された氷属性の魔力が青白い光を放ち、冷気の余波が周囲を凍結させていく。
奴の、形だけ人を真似た異形の口が、三日月型に歪んで見えた。
「⬛︎⬛︎――⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎――――――!!!!!」
怨嗟を絞り出すような絶叫と共に、ウェンディゴ・メナスは収束させた魔力を衝撃波に変えて撃ち放った。
絶対零度の魔力砲が、扇形の射程範囲全てを凍結させる極寒の津波を伴って、愛理達を呑み込もうと押し寄せる。ウェンディゴ・メナスの全魔力を費やした、まさに最後の切り札だった。
――そして。
斗悟はこの時を待っていた。
こちらにも切り札がある。
敵の大技に対する最大のカウンター……切り札に対する切り札が。
斗悟は皆を庇うように、迫り来る魔力砲の前に躍り出る。花篝の二刀を頭上に掲げて重ね合わせ、一本の剣へと融合させる。
――イリーリス様。オレが戦う理由はもう、「勇者の使命を果たすため」じゃない。今のオレは勇者として失格なのかもしれない。
だけど……オレ自身が生きるために、この世界の未来を守りたいんだ。
だから、まだオレにこの力を使わせてくれ――!
「〈絶望の未来を……! 壊す剣ァァアアアーー!!〉」
未来を覆す一閃が、絶対零度の魔力砲を切り裂いた。
「うおおおおおおおおッ!」
斗悟は花篝による翼の推力を全開にして、魔力の波を割りながら猛進し、ウェンディゴ・メナスの懐に飛び込む。
「お前が齎す絶望の未来は……! ここで終わりだぁ―ッ!」
振り抜いた勇者の剣が、ウェンディゴ・メナスを上下真っ二つに両断した。
――静寂。そして。
無数に砕け散った破片が、淡い光となって音もなく消えていく。
異次元の力を宿した氷結魔獣が、ここに完全消滅した。
「勝てた……のか……」
呟く斗悟に、早速〈絶望の未来を壊す剣〉の反動が来た。ふらついてその場で倒れ込んでしまう。
……凄まじい強敵だった。
土壇場で蓮が『開花形態』に目覚めるという奇跡がなければ、勝つことはできなかっただろう……。
「斗悟! やったな……あ、れ?」
駆け寄って来てくれた愛理の足がもつれ、斗悟に辿り着いたと同時に転倒してしまった。ちょうどお互いの顔と顔がすぐ近くで、上下反対に向かい合う形になる。
「愛理、大丈夫か……?」
「あ、ああ……。どうやら私も『開花形態』の反動が来たみたいだ……。もう動けないや」
にへ、とふやけた笑みを浮かべる愛理。先程までの鬼神の如き戦いぶりが嘘のようだ。……かわいい。
「……生きてて良かったよ。斗悟。私は信じてたけどな」
「ありがとう。君や蓮、比奈子、ノルファ……みんなのおかげだ」
お礼を言うべき相手はもう一人いる。今はここにいない彼女のことを――生と死の狭間、あの不思議な空間で起きた出来事を、愛理達にも話さなければ。
だが今は、複雑なことを考えるには、少し疲れた。
「斗悟。空、見て」
いつの間にか仰向けになっていた愛理に促され、斗悟も空を仰ぎ見る。
吹雪は消え、蓮の『開花形態』も終わって、晴天の青空が広がっていた。
「良い天気だな」
「ああ。私達が勝ち取った空だ」
微笑み合う斗悟と愛理。そこにリーフの端末から、神田の声が響いた。
『おい、一体何がどうなってる! なぜ今まで通信に応じなかった! 勝ったのか⁉︎ 全員無事か⁉︎』
戦闘中、ほとんど通信不能な吹雪の中にいたから、神田にはこちらの状況が全く伝わっていなかったのだろう。彼らしくない慌てた口調と、勝利直後の安堵感との温度差に、斗悟も愛理も思わず笑いが漏れてしまった。
「勝ったよ司令。みんな無事だ。……あー、うん。そう。そうだよ。ごめんちょっと疲れてるから質問後にしてくれないかな……」
どこか微笑ましい愛理と神田のやり取りを聞きながら、徐々にやってくる眠気に身を任せる。
遠くから走ってくる蓮と比奈子、ノルファの姿をぼんやりと視界の端に見ながら、斗悟は眠りに落ちた。