異次元の脅威
心臓が割れそうなほど早鐘を打つ。寒さだけが原因ではない震えが体の奥底から湧き上がる。
眼下で起き上がるウェンディゴ・メナスだったものから迸る魔力の禍々しさが、斗悟の本能に訴えかけていた。
こいつと戦えば全滅する、と。
「なんだ⁉︎ 何が起きた⁉︎」
愛理は魔力を知覚できない。突如復活した吹雪に視界を封じられ混乱していた。その真下から、ウェンディゴ・メナスが巨大な狼の牙を振るって襲い来る。
「愛理ッ!」
すんでのところで斗悟の防御が間に合った。迫る顎を二刀で受け止め、そのまま押し返そうとするが……びくともしない。
「斗悟! ……こいつ、まだ動くのか!」
すかさず愛理が狼の鼻面に花篝の斬撃を叩き込む。だが、その刃はウェンディゴ・メナスに傷一つ付けることはできなかった。
「な……刃が通らない⁉︎」
それほどに硬度が上がっているということか。
桜花戦士の中で最高の適合率を誇る愛理の花篝は、イーターに対して絶大な攻撃力を持っているはずだ。それすら弾かれるということは、……つまり。
こいつを倒せる攻撃手段が――ない。
唯一、〈絶望の未来を壊す剣〉ならば有効だろう。ただし外せば終わりだ。
復活したウェンディゴ・メナスは、大幅に強化されているが基本能力は受け継いでいるらしい。当然分裂能力も持っているはずだ。この最悪な視界の中で、自由自在に分裂・合体できる相手に〈絶望の未来を壊す剣〉を当てられる自信は……斗悟にはなかった。
「斗悟、危ない!」
愛理に突き飛ばされ、氷の槍が頬を掠める。考え事をしていた一瞬で、危うく串刺しになるところだった。
「す、すまん助かっ――うおっ!」
息つく暇もなく、四方八方から氷の棘が次々に斗悟達に襲い来る。攻撃速度も範囲も威力も、復活前とは段違いだ。花篝の機動力を以てしても、斗悟も愛理も避け続けるだけで精一杯だった。おまけに冷却力も上がっていて、まだ蓮の歌による防寒効果が効いているはずなのに手足に氷が張り付いてくる。
「くそっ! 一体どうすれば……!」
追い詰められる斗悟達の耳に、信じがたい音が飛び込んできた。
「――⬛︎⬛︎⬛︎! ⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎――⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎!!!!」
その響きを、斗悟達の知る発音で表現することはできない。だがそこに込められた邪悪な意図だけは、うんざりするほど明確に伝わってきた。
ウェンディゴ・メナスが――イーターが。
嗤っている。
およそこの世の悪意と呼べるものを全て詰め込んだような、不気味で悍しい醜悪な哄笑。
斗悟は確信した。
さっきまでの、復活前のウェンディゴ・メナスは、例えるならプログラムを実行するだけの機械のようで、奴自身からは意志めいたものを感じなかった。
今のこいつは全く違う。
単に別のイーターの個体が乗り移ったのではない。
質的に異なる完全な別種の何かが、取り憑いたのだ。
「愛理! 斗悟! どうなってんだよこれ! また吹雪に閉じ込められた! 勝ったんじゃなかったのか⁉︎」
蓮からの通信だ。彼女達が居る地点はここから1kmは離れているはず。この吹雪はそこまで及んでいるのか。
だとすればまずい。
吹雪の中にいる限り、愛理や斗悟ですら逃げ切れないほどの攻撃に曝されることになる。後衛の彼女達はきっと耐え切れない。
おそらくほぼ同時にそのことに思い至った斗悟と愛理が、蓮達のもとへ急行しようとしたとき、ウェンディゴ・メナスが音もなく愛理の目の前に出現し、人型の上半身から氷の拳を彼女の胴体に打ち込んだ。
「――ッ!」
命中寸前に花篝の刀身で受け、体への直撃は避けたようだが、愛理は衝撃で弾丸のように吹き飛ばされ、建造物の残骸に激突した。
「愛理!」
バカな。視界が封じられているのはともかく、魔力知覚ですら奴の存在に全く気づけなかった。確かにこの吹雪は全体に奴の魔力が満ちていて探知が効きにくいが、あの巨体を構成する量の魔力が集中すれば、いくらなんでも接近くらいは感じ取れるはずではないか。なぜわからなかった……?
「私は大丈夫だ! だから斗悟、みんなを守りに行ってくれ!」
愛理からの通信。
「しかし――!」
「早く! 頼むよ……君じゃなきゃ守れない」
懇願するような声に、葛藤しながらも斗悟は従うしかなかった。
「……先にみんなを連れて脱出する! 君も必ず追いついて来い!」
「ああ! 任せてくれ!」
斗悟は愛理を置いて蓮達の方へ飛んだ。
こうなってしまった以上、斗悟か愛理のどちらかがウェンディゴ・メナスを引きつけ、その隙に蓮達を吹雪から脱出させて逃げるしかない。奴が愛理を狙ったのなら、そのまま囮役を彼女に託すのが合理的ではあった。
ひとまず亀裂の拡張を阻止できた時点で、最低限の目標は達成できている――できればウェンディゴ・メナスもこのまま倒してしまいたかったが、最早そんなことを言っていられる状況ではなくなった。
蓮達の姿が見えてくる。
案の定、こちらもかなり厳しい状況だ。途切れることのない苛烈な氷撃の嵐を、ノルファの鎖が必死に弾き、それでもすり抜けた一部が蓮のバリアを削っている。
ただでさえ相性が悪く、さらにさっきの渾身の砲撃で桜力を使い切ってしまった比奈子は、なんとか少しでも氷を撃ち落とそうとしているが既に息も絶え絶えだった。
「フレイムサーキュラー!」
斗悟は接近しながら炎魔法を放つ。蓮達を中心に火炎が環状に広がり、一時的ではあるが熱波が氷の猛攻を遮った。
「蓮、比奈子、もう一度オレに掴まれ! 逃げるぞ! すまんがノルファは自力で――」
「斗悟、後ろ!」
蓮の叫びにハッと振り返る。
――もう絶対に避けられない位置に、ウェンディゴ・メナスの拳があった。直撃を受け、地面を転がる斗悟。
「がはっ……!」
また、だ。ウェンディゴ・メナスはまた何の気配もなく現れた。しかも愛理が足止めしていたはずなのに、1km以上離れたこの場所に一瞬で。
なぜ魔力すら感知できない? ……いや。そうか。
今更ながら答えを思い付く。
こいつは、こいつに憑依している本体は、吹雪に紛れ、吹雪を媒介にして瞬時に移動しているんだ。そして攻撃の直前に、周囲の氷で体を再構成した。
そんなことができるのならば、こいつは吹雪の中なら物質的な移動を必要とせず、雪を伝って情報伝達に近い速度で動けることになる……光や電気のように。
それはつまり、どこにでもウェンディゴ・メナス自身が出現できるということだ。そして現れた先でまた、自分を中心に半径1kmを超える範囲に吹雪を発生させられる。
そんなの、どうしようもないじゃないか。逃げることすらできない。
――全滅。
さっきも頭をよぎったその言葉が、現実的な重みを伴って、起き上がろうとする斗悟の背にのしかかる。
「斗悟っ!」
蓮が斗悟を助け起こそうと、泣きそうな顔で走ってくる。だが、攻撃能力を持たない彼女のその行動は、この氷結地獄においてはあまりにも無防備すぎた。
「待って、蓮!」
斗悟が知る限り初めての、ノルファの叫び。だがもう遅い。ギリギリのところで保たれていたノルファの精密な防御結界は、蓮のイレギュラーな動きによって計算が狂った。彼女が設定した安全圏の外に、蓮は出てしまったのだ。
当然、ウェンディゴ・メナスはその隙を見逃してくれるような甘い敵ではなかった。
裸同然で吹雪に晒された蓮を、360度全方位から一斉に、氷の矢が襲う。
斗悟の脳裏に、昨夜見た悪夢が蘇る。
吹雪の中に倒れる少女達。全身に氷の棘を生やし、血溜まりすら凍り付く極寒の中でボロ雑巾のように息絶える無惨な姿。
……嫌だ。
あんな光景を絶対に、現実にするわけにはいかない。
彼女達は絶対に守る。守ってみせる。
自分の命に換えても。
それが勇者の使命。斗悟が今この世界に生きている意味なのだから。
「――っぁああぁあああッ‼︎」
力を振り絞り、立ち上がった斗悟は、そのまま自身の体を蓮と氷の矢の間に割り込ませた。
襲い来る攻撃の大半を花篝の刃で叩き切る。
だが、……全ては防げなかった。
手足に数本。そして、胸と腹に二本。
斗悟の体を、氷の杭が貫通していた。
「が……はっ…………」
ごぽり、と腹から口へ鉄味の液体が逆流する。温水の詰まった袋に穴を開けたみたいに、胸と腹からじわりと熱が滲み出し、そして急速に冷え込んでいく。足が体を支える力を失い、斗悟は倒れ込んだ。
「斗……悟……? おい……、嘘だろ斗悟……斗悟! 起きてよ! ねえ!」
泣きじゃくる蓮の顔がこちらを覗き込んでいる。大丈夫だ、心配するな……と言ってやりたいのに、口も動かない。
「斗悟! 斗悟――――ッ‼︎‼︎」
蓮の声がやけに遠くに聞こえる――そんなことを思いながら。
斗悟の意識は闇に落ちた。