予感
「蓮」
作戦室から自室へ戻る蓮の背中に呼びかける。
「オレの思い過ごしならいいが……あまり気負いすぎるなよ」
わざわざ呼び止めたのは、解散前に神田からの注意事項を聞いている間、蓮がずっと唇を噛んでいたからだ。
「念押ししておくが、今回お前たちの任務は、討伐ではなく調査だ。決して倒そうなどと考えるな。戦闘は極力避けて情報収集に徹すること。やむを得ず交戦を避けられなくなった場合は速やかに撤退しろ。わかったな」
ウェンディゴ・メナスの情報が足りない以上、神田の指示はもっともだ。
だが理屈はそうでも、蓮の感情は……?
蓮は大切な人の仇であるウェンディゴ・メナスを恨んでいるだろう。自分の手で倒したいと思っているかもしれない。そして、そのチャンスはおそらくこの調査任務中にしかないことも気づいているはずだ。
調査を終えた後に編成される本格戦闘用の討伐部隊に、蓮が選出される可能性はかなり低いのだから。
「ああ。お前の思い過ごしだよ」
蓮が足を止めて振り返る。
「司令が『戦うな』って言ったことだろ? ……そりゃ本音を言えば、あたしの手で花凛姉たちの仇を取りたいよ。でも、そんな自分のわがままを任務より優先させるなんてあり得ない。あたしが今、花凛姉たちのためにできることは、今度こそ確実にアイツを倒せるように弱点を見つけ出すことだ。……ま、そもそもあたし攻撃できねーから、倒すのは誰かにやってもらわないといけないんだけどさ」
肩を竦めて笑う蓮を見て、斗悟は安心した。考えてみれば、責任感の強い蓮のことだ。任務において感情に任せた暴走を杞憂するなんて、余計なお世話もいいところだった。
「そうだな。すまない、オレの考え過ぎ――」
「ほらぁー、まーた二人だけで秘密の話してるー」
と、いつの間にか忍び寄っていた比奈子が、蓮を背後からむぎゅぅと抱きしめた。
「おわぁ! ひ……比奈子⁉︎」
蓮には比奈子の顔は見えていないはずだが、なぜ彼女だとわかったのか。その理由は多分、アレだ。
小柄な蓮と、女性としては長身である比奈子との身長差により、蓮の頭はちょうど比奈子の豊かな胸の谷間に納まる位置にある。その感触をダイレクトに感じたからだろう。
……当然ながら斗悟にとっては目のやり場に困る光景になっている。
「もう蓮ちゃんの桜花武装使えるようになったのにさ〜、その後もいっつも二人でいるじゃ〜ん。蓮ちゃんのこと独り占めして、ずるいよ勇者くん」
「わ……悪い。桜花武装の使い方とか歌唱術式のこととか、色々話すことがあってさ」
「それだけ?」
「え? ああ、まぁ最近は、大体それだけだ」
「……そーだな。それだけだな。あたしとオメーが話す理由なんてそれだけだよなぁ! 理由がなきゃ話す必要なんてないもんなぁ‼︎ あァ⁉︎」
な……何⁉︎ なんだ⁉︎ 蓮が凄く怒っている!
「まーまー落ち着くんだ蓮。ノルファのほっぺをふにふにしていいから」
これまたいつの間にか現れた愛理が、蓮の前にノルファを差し出す。ノルファはされるがままになっている。
蓮は無言でノルファの頬を両手でふにふにして、ふやけたような笑顔になった。
「……いや……何やってるんだ、それは」
愛理がきょとんと首を傾げる。
「え? 何って……そうか、斗悟はまだ知らないんだな。ノルファのほっぺたを触ると幸せになれるんだ」
「幸せになれる」
それは御利益的な意味だろうか。
「あ、信じてないな? ちょっと触ってみてよ。ノルファ、斗悟にも触らせてあげて良いか?」
ノルファはこくりと頷いた。
「愛理が言うなら、私は構わない。あなたの望みを叶えられるなら私は喜んで身を捧げる。……たとえそれがどんなことであっても」
「決意が重いよ! 本当は嫌がってないか⁉︎ 正直に言ってくれノルファ、君が嫌がることをするつもりは全くないから!」
ふっ、とノルファが微笑む。彼女が笑ったところを初めて見た――人形のように玲瓏たる美貌であるだけに、それが柔らかに綻んだときの可憐さは凄まじかった。
「冗談よ。本当になんとも思ってないから、触りたければどうぞ。……そんな価値があるかどうかは、自分ではわからないけれど」
「そ、そうか? じゃあ、お言葉に甘えて……」
女の子の頬を触るのに、遠慮から来る抵抗がないわけではなかったが、それ以上に愛理たちが絶賛した触り心地への好奇心が勝った。
おそるおそる手を伸ばし、人差し指の先で触れてみる。
ふにふにふにふに。
「おお……これは……」
もちもちしているのに滑らかで、手に吸い付くような触り心地。絶妙な柔らかさと瑞々しさに魅せられて、いつまでも触っていたくなってしまう――。
「あの、会崎くん。そろそろいいかしら」
ノルファの言葉でハッと我に帰る。最初は片手の指先でつついただけだったのに、いつの間にか両手でノルファの両頬を包むように触ってしまっていた。
「ああっ……ごめん! つい、無意識に……!」
「別にいいけど」
当のノルファは気にしていないようだったが、蓮から極低温の視線が突き刺さっていた。
「ノルファのほっぺをニチャニチャしながら撫で回しやがって、この変態野郎が」
「蓮だって! 同じことしてただろう!」
「あたしはそんなにキモく笑ってねぇ!」
「んふー。やっぱり斗悟もノルファのほっぺにはメロメロだったな」
愛理がノルファに抱きついて頬ずりする。相変わらずノルファは無表情だが……どことなく嬉しそうに見えるのは気のせいだろうか?
「ほら、蓮もおいで」
「えぇ? あ、あたしも?」
愛理は微笑みながら蓮を抱き寄せた。戸惑いつつも素直に従う蓮。
「明日、一緒に頑張ろうな。頼りにしてるよ。その代わり、蓮のことは私たちが絶対守るから」
「…………うん。ありがとう」
蓮も愛理の背中に腕を回し、二人は少しの間抱き合っていた。
明朝からの任務に備え、早めに寝床に着いたものの、斗悟の目はしばらく冴えたままだった。
皆明るく振る舞っていた――特に愛理は、リーダーとして皆を不安にさせまいと殊更におどけて見せているようだった。
それはきっと、明日の任務が厳しいものになるという予感の裏返しだ。
ウェンディゴ・メナスの脅威は計り知れない。調査が目的とは言え、桜花戦士4人を葬った相手と接触しなければならないのだ。無事で済む保証はない。
――だが、今度はオレがいる。
愛理たちは必ず守ってみせる。
命に換えても。
それが勇者としての斗悟の使命であり、今この世界に生きている意味だ。決意を改めて胸に刻み込み、斗悟は目を閉じる。
「斗悟。次、どこ行こっか?」
数歩先から振り返る桜夜の柔らかな笑顔。
「そうだな。お昼が近いから――……⁉︎」
ランチのお店を調べようと、スマホに目を落とした一瞬で、世界の景色が変わった。
スマホを持っていたはずの手に握られていたのは桜色の刀。休日の街中だったはずの場所は、氷漬けの廃墟。
身を切るような極寒。吹雪の中で倒れる少女たち。
蓮。比奈子。ノルファ。
その体は血塗れで、何本もの氷の棘が突き刺さっている。
数歩先からこちらを振り返っているのは、桜夜ではなく――愛理だ。
浮かんでいるのは笑顔ではなく、絶望。
「…………ごめん、斗――」
巨大な狼の顎が彼女の上半身を噛み潰し、その言葉は続かなかった。
「うあああああああああああああああッ!!」
自分の絶叫で目を覚ます。
……夢、だ。
荒い息を整え、落ち着くよう自分に言い聞かせる。
ひとまずは夢だったことに安堵した。汗で服がへばりつく感触が気持ち悪かった。
「…………くそっ」
このタイミングでなんて悪夢だ。縁起でもない。
――いや、だが、所詮は夢に過ぎない。今日の任務は戦闘が目的ではないのだから、あんなことは起こらない。
外は既に薄明るくなり始めている。斗悟はベッドを出て、まとわりつく不吉さを洗い流すようにシャワーを浴びた。