生きがい
「………げっ」
しまった、と思った時にはもう遅かった。鞠原の検査室を出てすぐ、数メートル先の曲がり角から現れた人物は、おそらく斗悟が漏らした声に気づいたはずだ――ギロリとこちらを睨みつけている。
神田源龍。
直接会うのは、ここへ来た初日に散々威圧的な尋問を受けて以来だ。こんなところで鉢合わせるなんて、タイミングがいいのか悪いのか……。
というのも、鞠原が薦めてきた相談相手というのがこの神田なのだ。確かに、桜花部隊の司令官――蓮の直接の上司である彼なら、立場的には適切と言えるかもしれない。
だが、斗悟自身と神田の関係は最悪だ。神田は未だに斗悟の正体を疑って警戒しているだろうし、斗悟も初対面でとことん詰められた神田に当然苦手意識を持っていた。
神田と目が合っていたのはほんの一瞬で、彼はすぐに視線を正面に戻し、斗悟などいないもののように歩を進めてくる。
斗悟は半ばフリーズしたまま、横切る彼を見送りそうになったが……。
――ダメだ!
この偶然を逃したら、もう彼とまともに話をする機会はないかもしれない。
「あ、あの!」
すれ違った直後、斗悟は声を上げた。
「突然すみません。御相談したいことが、あるんですが」
神田は足を止め、こちらに顔を向ける。『怪訝そうな顔』の見本のような表情だったが、無視されなかっただけありがたい。
「蓮との……ことです。オレはあの子に『本当は戦いたくないんじゃないか』なんて言ってしまいました。そうしたらすごく怒られて……」
まずい。見切り発車で話し始めてしまったせいで言いたいことがまとまっていない。
「蓮が怒った理由は鞠原さんに教えてもらいました。壮絶な覚悟で桜花武装に覚醒した蓮に対して、あんなことを言うべきじゃなかったと、今は反省しています。だけど――」
神田の表情が冷めていく。話が要領を得なさすぎたか、或いはこの先に続けようとした言葉を読まれたのだろうか?
――だけど、どうやって蓮と仲直りすればいいのかわからないんです。
こちらに振り返っていた顔を正面に戻し、神田が立ち去ろうとする。ああ、このままでは行ってしまう。何かないか。彼を引き止める言葉は。
……いや、違う。
――桜花部隊のみんなから1番信頼されてるのは彼だからね。あんなに強面なのにさ。
神田を相談相手に推した鞠原の台詞を思い出す。
桜花戦士の少女たちが彼を慕う理由があるはずだ。
だったら斗悟が伝えるべきなのは、彼を引き止めるための言葉じゃない。
「だけど……オレはやっぱり、蓮には桜花武装に覚醒しないままでいて欲しかった」
斗悟自身の、蓮への――そして桜花戦士として戦う少女たちへの、本心を込めた言葉だ。
「蓮の覚悟はとても立派だと思います。だけど、戦いが嫌いな蓮が戦わずに済むのなら、本当はそれが一番良かった。あんな悲しい決意を、手放しで褒め称えるだけなんて、オレは嫌です」
神田は振り向かない。だが、足を止めて斗悟の言葉を聞いていた。
「イーターの存在と、桜花戦士しか奴らと戦えないという宿命が、あの子たちを縛っている。オレはそれをぶっ壊したい。蓮が本当にあの子らしく生きられる世界を取り戻すために、力が必要なんです。……だから教えてください。蓮の心に近づくために必要なことがあれば、何でも」
「…………」
少しの静寂の後、「ついて来い」と短く言って神田は歩き出した。
「えっ……? あ、はい!」
相変わらず表情は見えない。神田の意図はわからなかったが、斗悟は慌てて彼の後を追った。
どういう状況だ、これは。
ほとんど無言の神田に案内された先で、斗悟は、ラーメンを奢られていた。
桜花部隊の本部組織であるこの『ソフィア』は、桜花戦士やそのサポートをする職員の生活拠点でもある。だから彼らが利用する食堂があるのは不思議なことではないが、斗悟の知る現代から100年後の遥か未来とは思えないほど、そこはなんというか、覚えのある雰囲気を漂わせる空間だった。
ちょうど夕食時ということもあってか、食堂はなかなか混み合っている。入り口付近の席では、東條教官が数人の(おそらく桜花戦士であろう)少女と共に食事を取っており、こんなところで出会うと思っていなかった斗悟は少し驚いた(東條教官は神田と斗悟に気づくと微笑んで小さく手を振ってくれた)。
神田に付き従って、食堂の最奥の席に着く。ちょうど太い柱の陰になっている、まるでそこだけ隔離されているようなテーブルだ。
いつの間に注文していたのか、席についてからほとんど待たずに、配膳用ロボットが2人の前にラーメンを運んできた。
……ラーメン、である。間違いなく。このディストピアのような世界にはあまりにも不釣り合いな、しかし懐かしい湯気の香りに、斗悟は思わず唾を飲んだ。
神田は無言で手を合わせてラーメンを啜り始めている。それを見て斗悟は、遠慮がちに「いただきます」と言って箸を取った。
「…………!!」
うまい。信じられないほどに。少なくとも、100年後の世界で食べた物の中ではぶっちぎりで一番だ。
この世界の食べ物は、遺伝子改良によって極限まで収穫効率と栄養価を高めた数種類の穀物(米、麦、イモ、トウモロコシ)によってほとんどが賄われているらしい。肉や魚も、実は成分抽出•合成によって味や見た目をそっくりに作られているだけの代替食品だと聞いた時には驚いた。だが確かに、まずいわけではないものの、うまく表現できない物足りなさを感じていたのも事実だ。
このラーメンを食べて、なんというか、久しぶりに本当の「食欲」を思い出した気がする。
斗悟の時代ではオーソドックスな醤油ラーメン。だがクオリティは当時と比べても相当高く感じる。コシのある麺に深い旨味を湛えたスープが絡み、立ち上る湯気の香りに導かれて喉奥へ吸い込まれていく――。
夢中でスープまで飲み干してようやく一息つくと、既に食べ終えていた神田がこちらを見ていたことに気づく(異様に食べるのが早い)。
「……ご、ごちそうさまでした」
「どうだった」
「美味しかったです、すごく」
神田は心なしか満足気に「そうか」と呟いた。
「飽食の時代を知る人間にとっても美味いなら、まぁ美味いんだろうな。お前の語る出自が真実だとすればだが」
「あの、この料理はひょっとして、代替じゃない本物の食材を使っているんですか?」
「違う。だが生体培養食品によって限りなく本物に近い味を再現している。まだ一般には流通していない代物だが、ここでは最新技術が試験的に先行導入されている」
生体培養食品。斗悟の時代にも、それらしい技術の片鱗は聞いたことがあった。確か動物の可食部の細胞を培養して人工的に食肉を作り出す、みたいな……。
「今のところ、コイツの恩恵は味覚の充実だけだ。栄養摂取効率は既存の合成食品に劣り、つまり人類の生存に直接役立つものじゃない。しかし『うまいものが食える』という満足感は貴重だ。このクソみたいな世界じゃ特にな」
「そう……ですね」
「蓮と花凛も、このラーメンが好きだった。よく2人で食べに来ていたようだ。だが、花凛を喪ってからは、俺はここで蓮の姿を見たことがない」
驚く斗悟の顔を正面から見て、神田が尋ねる。
「この一週間、蓮と生活時間の多くを共有して、お前はあいつから――あいつの日々の過ごし方から、何を感じた?」
「…………」
蓮と過ごした時間を振り返って、真っ先に思い浮かんだ彼女の印象は――。
「がんばりすぎじゃないかと、思いました。もっと遊んだり、休んだりしてもいいんじゃないかと」
斗悟の知る限り、蓮のスケジュールの大半が、訓練か任務、鞠原への研究協力で占められていた。斗悟と離れる夜の間も、睡眠時間を削る勢いで何らかの仕事か自身の能力研鑽に努めているらしい。彼女自身の自由時間と言えるものは、ほとんど存在しないのではないか。
それを蓮自身が好き好んでやっているならまだいいが、そうは見えなかった。少なくとも仕事中の彼女の表情から楽しそうだと思ったことはない。
存亡の危機に瀕している状況とはいえ、まだ10代半ばの少女が、自らのためではなく人類への貢献のためだけに黙々と働き続ける様は、禁欲的を通り越して、自罰的にさえ感じられた。
「……まるで、自分で自分を罰しているみたいに、桜花戦士としての任務にのめり込んでいました」
「あいつは花凛の死を自らの責任だと思い込んでいる。だから自分の幸福を許せない。あのがむしゃらな働きぶりは一種の逃避行動だ――ああして自分を追い込んでいないと、罪悪感に押し潰されそうなんだろう」
逃避行動。その言葉を聞いた瞬間、不意に脳裏を桜夜の笑顔がよぎった。
「……どうした?」
訝しむような神田の声で、自分が固まっていたことに気づく。慌てて「何でもありません」と取り繕うが、神田は生じた疑念を隠そうとしない。
「俺はお前を信用していない」
突き放すように言う。しかしその直後、「だが、本来蓮が戦うべきではないという点は同意見だ」と続けた。
「あいつだけじゃない、そもそも桜花戦士という仕組み自体がイカれてる。まだ分別もつかんガキどもの無知に付け込んで、人類の存亡などという大荷物を押し付けた挙句、大人は安全圏からあいつらの戦いを眺めているだけだ。……100年もの間、何一つ変えられずにな」
彼の声は静かなままだったが、瞳の奥には怒りの炎が滾って見えた。
「桜花戦士に選ばれるのは、そういう理不尽に文句も言わず、進んで他人のために命を投げ打つような奴らばかりだ。だが自らの命を軽んじて早死にされては、結果的に人類にとっても損害になる。……だから俺は、桜花部隊員全員に、『人類への使命感以外の生きがいを持て』と命令している」
「生きがい、ですか?」
「桜花戦士はただでさえ数が少ない上、現役期間もせいぜい6〜7年しかない。あいつらの命は何より貴重なものだ。……だから、生きようと思える理由は多い方がいい。何でもいいんだ。うまいラーメンを食べたい、でも、歌手になりたい、でも」
「…………」
なぜ神田が桜花戦士から信頼されているのか、その理由がわかった気がした。彼は桜花戦士を決してただの戦いの道具とは考えていない。1人の人間として尊重し、そんな彼女達を戦場に送らざるを得ないことに心を痛めている。その想いが伝わるからこそ、桜花戦士の皆も彼に信頼を返すのだろう。
「花凛を喪ってからの蓮は、抱え切れない罪の意識を自分の人生ごと使命感で塗り潰そうとしている。あれでは心も体も長く保たない。救える可能性があるとすれば――」
そう言って神田は、胸元から取り出した1つの鍵を斗悟の前に置いた。
「この鍵は……?」
「普段は使われていない古い地下室だ。そこで蓮は毎晩一人で歌っている。他の全てを使命に費やしても、これだけはやめなかった」
「歌……ですか?」
蓮のスケジュールを考えれば、それはほとんど唯一、彼女が自分のために使っている時間だ。それほど歌うことが彼女にとって大事ということか。
「蓮が歌い続けていることは、俺以外の誰も知らん。あいつに口止めされているからだ」
だったらなんで自分にそれを、と聞く前に神田は続けた。
「あいつの心と歌は切っても切り離せない。踏み込む覚悟がなければ信頼など得られないだろう」
「…………!」
「尤も、逆鱗に触れて永久に心を閉ざされる可能性も十分にあるがな」
つまり神田はこう言いたいのだ。
拒絶されるリスクを恐れず蓮の本心を聴きに行く覚悟があるなら、この鍵を受け取れ、と。
斗悟は迷わずテーブルの上の鍵を取った。
「……地下室はエレベーターを地下2階で降りて左に曲がった先にある。ちょうど今くらいの時間なら、蓮はそこで歌っているだろう。行きたければ好きにしろ」
「ありがとうございます」
神田に頭を下げ、斗悟は席を立った。