桜都の夜
長い検査から解放され、当面の寝床となるらしい部屋に案内された時にはもうすっかり夜になっていた。
蓮と行動を共にするとは言っても、流石に一緒の部屋で寝食を共にするわけではないらしい……まぁ当然ながらこの配慮は蓮に向けたもので、首輪による斗悟の監視は続けられたままなのだが。
牢獄のようなところに押し込まれるのではないかと思っていたが、斗悟に当てがわれたのは下手なビジネスホテルよりは快適そうな広めの個室だった。意外に待遇は悪くないようだ。
トイレやシャワーなど一通りの設備は揃っているが、流石に時間を潰せそうな娯楽の類いは何もない。灯りを着け、やることもないのでせめて景色でも見ようと、窓の方に近づくと――。
「ばあっ!」
「うおぉおおあぁああぁああ!!」
「あははっ。いい反応するなぁ、斗悟」
斗悟を死ぬほど驚かせた犯人は、怒る気を根こそぎ奪うほど可憐に笑う。
愛理だ。最愛の少女に瓜二つの笑顔が、窓の外からこちらを覗き込んでいた。
「あ……愛理!? え、ここ20階くらいじゃなかったか!? 何でそんなところに!」
「ふっ。君をびっくりさせようと思って窓に張り付いていたのだ」
「確かに死ぬほどびっくりしたが……!」
「そろそろ部屋の中に入れてくれ。持つところがなくて張り付くの大変なんだ」
「あ……ああ」
冷静に考えれば意味不明な主張だが、雰囲気に流されて斗悟は窓を開け、愛理を室内に招き入れた。
任務中の戦闘服とは違い、タンクトップにパーカーを羽織っただけの、まるでランニングの途中にフラッと立ち寄ったような軽装だ。短パンから伸びるスラリとした白い素足に、なんとなく目のやり場に困ってしまう。
「司令に聞いたぞ。色々大変だったみたいだな」
司令というのが誰か分からず一瞬答えに詰まる。
「神田源龍って人。色々ひどいこと言われたんだろ? あの人、桜花部隊を統括する司令官なんだ」
「そうだったのか」
なんとなく只者ではない雰囲気は感じていたが、そんなに偉い人だったとは……。しかし愛理からはあまり上司への畏敬みたいなものは感じない。なんというか、親しい担任の先生のことををからかい混じりで話しているような口振りだ。
「尋問されたり検査されたり、本当にお疲れさま。でも、できればあんまり気を悪くしないでくれ。司令も悪気があったわけじゃないんだよ。私が斗悟は味方だって強く推したから、『物事を判断するには多様な視点が必要だ』とか言って敢えて疑ってかかってるみたいで……」
「ああ。わかってるよ」
神田の意見にも一理ある。彼らにとってはまだ、斗悟が人類の味方である保証はないのだ。
「私も、蓮も比奈子もノルファも、君が味方だって信じている。他のみんなもきっとすぐに信じてくれるさ」
「ありがとう。そう言ってもらえると、気が楽になる」
愛理は微笑んだ。彼女はきっと、斗悟が心細い思いをしていないか心配でわざわざ元気づけに来てくれたのだろう。本当に優しい子だ。
「ところで斗悟、まだ元気は残っているか? すぐに休みたいくらいヘトヘトか?」
「いや、体力的には別にさほど疲れてはいないが……」
なぜそんなことを、と聞く前に、愛理はイタズラっぽく笑った。
「それは良かった。じゃあちょっと付き合ってもらえないか」
「ほ……本当に大丈夫なのか? こんなことして」
「大丈夫だって。許可はもらってきてるんだから」
斗悟は今、愛理の手引きで窓から部屋を抜け出し、桜都の上空を飛んでいた。
愛理の桜花武装には、単純な飛行能力ではなく、重力などの物理法則から解放される力があるらしい。彼女自身だけでなく、彼女の手に触れている斗悟にもその力が適用されるらしく、自由自在に夜空を舞うのは気分爽快ではあった、が……。
「しかし、監視されている身でこんな自由が許されていいんだろうか」
「私が良いと言えばいいのだ。こう見えて結構わがままが通るんだぞ、私は」
得意げな様子の愛理は、それはそれで大変可愛らしかったが、しかし以前に会った時とは随分印象が違っていて、斗悟は少なからず驚いていた。愛理が首を傾げる。
「どうしたの?」
「なんか、君の雰囲気がこの前と大分違う気がして」
「そうかな? ……そうかも」
少し照れくさそうに目を逸らす愛理。
「この前は初対面だったから。それにほら、一応特務分隊のリーダーだからさ、任務中はちゃんとしなきゃってカッコつけてたんだよ」
ということは、やはり今の方が素の愛理に近いのだろう。真面目な完璧超人のように思っていたが、意外と強引でわがままで、子どもっぽいところがある。
「……おかしいか?」
「いや。親しみやすくてありがたい」
「ならよかった」
愛理と微笑みを交わし、斗悟は改めて眼下の街並みを見下ろした。
「桜都」――そう呼ばれているこの街は、今やこの世界において唯一の人類生存の地だという。
地理的には旧東京都の一画で、奇しくも斗悟が異世界ロイラームへと転移する前に住んでいた地域のほど近くだ。
ロイラームからの帰還時に斗悟が出現した座標は、出立時の座標とほぼ一致していたようで、それが斗悟の命を救う大きな要因となった――桜都近辺でなければ偶然通りかかった愛理たちに助けられるなんて奇跡も起こり得なかっただろう。
よく知っていたはずの街並みは、100年ですっかり変わってしまっていた。
まず建造物の高さと密集率が上がっている。
元々高層ビルの多い地域ではあったが、当時の比ではない。まるで都市単位で効率的な収納術を実践しているかのように、ビルがぎゅうぎゅう詰めだ。おそらく、限られた空間に可能な限り居住空間や必要施設を詰め込む必要があるからだろう。
加えて明かりが少ない。この規模の都市なら、100年前は人々の営みにより夜でも眩い光に満ちていたはずだが、今は建物や通路の輪郭が辛うじて見えるだけの光量だ。多分、余計なエネルギーの消費を避けているのだろう。領域が限られているということは、当然エネルギー生産設備に回せる面積も足りないということなのだから。
この薄暗い街の様子だけでも、人類の余裕のなさ――種の存続すら脅かされている状況がよくわかる。いや、しかしそれほどの窮状に追い詰められてなお、一都市のみとは言え100年前に近い文明水準を維持できていることを、むしろ賞賛すべきなのかもしれない。
「こっちこっち。あのビルの上に降りよう」
愛理に手を引かれ、一際高い建物の屋上に二人で腰を下ろした。愛理はウエストポーチからパンを二つ取り出し、一つを斗悟にくれた。
「おやつ持ってきたんだ」
「ありがとう。いただくよ」
一口食べるとほのかに甘みを感じた。不思議な風味だ。
「美味しい。初めての味だ」
「すごい栄養満点のパンらしいぞ」
「へえ……」
そういう技術も進化しているのか、と感心しながらぼんやり街を眺めていると、愛理が「どうだ? 桜都の夜景は」と尋ねてきた。
「やっぱり斗悟が知ってる頃から変わっちゃってるのか?」
「ああ。まるで別世界だ。本当にここがオレの住んでいた街なのか……信じられないくらい」
その光景は斗悟に、もう帰る場所が無くなってしまったことを如実に告げている――だがその実感を、斗悟自身意外なほど穏やかに受け止めていた。
もとより自分はこの時代において異物。世界を救う使命のため仮初に存在しているにすぎないことを、既に呑み込んでいたからだろう。
「昔はどんな街だったんだ?」
「人がたくさんいて、活気がある街だった。夜でも明るくてさ」
「そうか。見てみたかったな」
小さく言って、愛理は薄暗い街並みを見下ろす。
「たまにここに来て街を見るんだ。そうすると戦う理由を再認識できて、気合いが入る」
「愛理は、桜都の人たちを守るために戦っているんだな」
「そうだけど、んー、結局それも自分のためかな。私は人と話すのが好きなんだ。みんながいないと私が寂しいから戦ってるんだよ」
「……君は立派だよ」
その言葉も斗悟の本心ではあったが、彼女の照れたような笑顔を見て、再びある想いが胸の奥に燻るのを感じた。
やはり似ている。桜夜に。
戦闘を離れ、年相応の少女のような穏やかな表情を見ると、より一層それを強く感じる。
こんな偶然があり得るのか? 100年後の未来に、最愛の少女と全く同じ顔の別人が存在するなんて――
やめろ。
斗悟は目を閉じて思考を中断した。
根拠のない妄執に縋るな。それは今この時を生きる、夕凪愛理という一人の少女への冒涜だ。
会崎斗悟はもう過去の人間だ。本来いるべきでない時代に自分が存在している理由は、力を持つ者として、今を生きる人々を守るためだ。
世界を救う装置勇者が、個人的な感傷に浸るべきではない。
「斗悟? どうかしたか?」
「いや……改めて、君達と一緒に戦えて嬉しいと思ってさ。この街にかつての活気を取り戻すためにも、オレも少しでも力になりたい」
「ありがとう。斗悟が居てくれたら百人力だ」
屈託なく笑う愛理に微笑み返しながら、斗悟は自分があるべき勇者の像から離れていかないことを祈った。