金持ちの道楽とチェシャ猫の口元
座り心地も振動も、全てが劣悪な板の上で走り続けてはや数日。
壁板の隙間から見える、まるで着色料をぶち撒けたかの如く真っ青な月が3回ほど登った頃。
ようやく振動が収まった。
直後、外から何人かの男たちの話し声。
距離のせいか声量のせいか、はたまた言語能力のせいか。
とりあえず何を言っているかはサッパリ聞き取れないが、確かに何かを喋っている。
そこから数分して、入り口から人間が複数人。体格から鑑みて、恐らく全員が男。
その全員がパピヨンやペストマスクを使って顔を隠し、手には鎖と革製の鞭を持っている。
男たちは無言で凶達に近寄り、首に付けられた錠に一本の鎖を取り付け、逆側の先端を他の奴隷の首根っこに付けていく。
そして最後に出来上がったのは、一本の長い鎖で繋がれた十数人の列。
その先頭の女性に、ペストマスクの男が一言。
「歩け」
そう言った。
どうやら言葉は通じるように作られているらしい。
と感心している間も無く先頭は前へ進み始め、それに吊られて首を引っ張られる形で列が前へ前へと無理矢理進められて行く。
そのままテントから出て、凶の前方に広がったのはコレまた一つの大きなテント。
100人程度は楽に収容できるであろうサーカステント。
突然現れた光景に驚きつつ、凶は横目でチラリと後ろを覗く。
あるのは自分たちの乗ってきた乗り物。
予想通り、2頭の馬が引く馬車だった。
周囲にあるのは深い渓谷で、それ以外の情報はない。
だが、この量を馬で運んでいた時点でどうやらこの世界の文化は電気や石油、石炭といったエネルギーを使っていない。その可能性が高いと考えられる。
「止まるな! 歩け! 」
そこで男の怒鳴り声。そして、革の打たれる高い音に背中への鋭い痛み。
─どうせムチで打たれたのだろう。
痛みの原因を考えるまでも無く、凶は表情ひとつ変えずに再び歩き出す。
この程度の痛みなら、
とっくに慣れている。
とっくに日常になっている。
今更何を感じるまでもないのだから。
「チッ……何だお前。気持ち悪りぃ」
全く反応しない凶に最後尾に着く男は舌打ちを漏らす。
やがて列はサーカステントの中へと入る。
テントの中は綺麗な布で仕切られており、自分達の歩むべき道以外は全て見えないようになっている。
だが、向こう側の空気は伝わる。
人々の熱気が。ざわめきが。興奮が。劣情が。醜悪が。
全てが音になって濁流のように流れてくる。
実に不愉快な感覚だった。
そのままテントの円周上を歩く事5分ほどして、ようやく部屋が一つ見えた。
「ここで待機しろ。順番が来たら一人ずつ来い」
部屋の中は、外や道の小綺麗さが嘘のような汚さと居心地の悪さ。
馬車の中と同様に薄くてボロい木の板で繋ぎ合わせられただけの床と壁だけ。家具や置物は何一つない、木の板だけの茶色の部屋。
その部屋の向こうはまるで舞台のようになっており、先ほど感じた熱気もそこから伝わってくる。
どうやらあの場所が終着点らしい。
「まずはお前だ、来い」
「はい……」
凶が周囲を観察していると、まずは先頭の女性が首の鎖を外されて、まるで犬のリードを引くようにして舞台へと歩かされる。
黄色い髪に黄色い瞳、女性にしては高い身長に、くびれた腰と大きな胸。
目に生気が宿っていないとはいえ、お世辞抜きに美人な人間。
その人間が舞台に出て行った瞬間、大きな大きな歓声が響いた。
下卑た男の興奮が。劣情が。性欲が。
その全てが醜悪な歓声となって響く。
続いて、一人の男の声。
『まずは隠れ里で見つけた此方の逸品!
ご覧ください! このトパーズのように美しい髪! 瞳! そして何より、この美貌!
是非、皆様の好きにしたいと思いませんか?
そう思う方、まず金貨10万枚からスタートです! それでは皆様、奮ってご入札ください! 』
明るい明るいセールストーク。
凶にはこの世界の金銭感覚は一切分からないが、恐らく相当な額が動かされているに違いない。
熱のこもった人の声が繰り返され、段々と数字が大きくされて行く。
やがて声は減って行き、最後に
『29番のお客様、何と白金貨1万枚での落札! おめでとうございます!! 』
舞台上の司会が叫んで一人目の入札が終わった。
金貨10万よりも白金貨1万枚の方が大きい額。
比較対象が足りていないので具体的な数値化は出来ないが、今後の判断基準としては利用できそうであった。
そのままオークションは続いて行く。
2人目、3人目、4人目……と。
自分の番がいつ来るか分からない中、凶は冷静に全員に付けられた値段を聞いて行く。
少しでもこの世界を知る為に。
「次はお前だ、来い」
続いて7人目。ようやく凶が呼ばれた。
此処までのオークションを聞いて、分かったことは幾つかある。
この世界には、ウサギやネコ、イヌやキツネと言った動物の性質を併せ持つ獣人が存在する事。
人間を襲う異業種が存在しており、その存在から身を守る護衛が必要な事。
そして、金貨100枚でようやく白金貨1枚に当たる事。
要するに、最初の女性は金貨100万枚の価値になったと言う事。
鎖の先端を握るペストマスクに着いて行きながら凶は情報を整理する。
別にこんな世界に興味は無いし、当然思い入れなんて無いが、直ぐに死ねる保証も無い上に死に方くらい自分で決めたい。
だから凶は情報を集め続ける。
やがて舞台上へと辿り着き、正面に集まった人間達の面を拝む。
正面の客達は皆、『おおっ』と声をあげる。
全員が当たり前のように顔を隠しており、正体を絶対にバラさないよう注意している様子。
だが、肝心なのは顔から下。
多くの人間が気品溢れる明らかに高級と分かる衣服を見に纏い、殆どの男性はタヌキのようにブクブクと太っており、数少ない女性は頭からドレスから全てが煌びやかだ。
─やっぱり金持ちの極秘の道楽か
あまりにもわかりきっていた結末に凶は溜息を一つ漏らす。
そんな凶なんて知ったことでは無いと言うように、司会はセールストークを開始する。
『さてお次は、行路に偶々落ちていた此方の逸品!
何と、世にも珍しい闇夜のような黒髪と黒目。私も見た時は驚きました! 何せ、伝承にあるだけの存在が目の前に転がっているのですから!
残念ながら男では御座いますが、皆様どうですか? こんなモノを所有していると知れ渡れば、家に箔が着くこと間違いなし!
それに、目つきは悪いですが、上等な顔立ちに高い身長! 家の手伝い、奥様や娘様、好色家の皆様が喜び、悦ばれる事間違いなし!
早速参りましょう!
開始は当然、本日最高額の白金貨2000枚からで!
それでは皆様、奮ってご入札ください! 』
司会の言葉を皮切りに、会場内は興奮の溢れ出した声で埋め尽くされる。
先程までとは比べ物にならない熱気。
正直な話、凶にとって何がそんなに盛り上がれるのか理解が出来ない。
何せ、黒髪黒目というだけでこの盛り上がりだ。
カラーコンタクトが無いのは分かるが、髪の色なんて染めるか、最悪被ってしまえばそれで良い。
それなら、先ほどの美人な女性の方が遥かに価値のあるようにしか感じない。
そんな凶の思考など知らない客達は更にヒートアップし、会場の熱気はますます増す。
1万、2万、5万……と、額も跳ね上がって行く。
と、その時だった。
「20万」
誰かが呟いたこの一言で、会場の熱気は一気に止み、先ほどの狂乱が嘘のように静まり返った。
「ありがとうございます! 素晴らしい金額が出ました!
それでは78番のお客様、どうぞ壇上へ! 」
番号を呼ばれ、凶を買った男が壇上へ上がる。
その男は実に奇妙な出立ちをしていた。
身長は180センチほどと大きく、前髪で目元までを隠し、後ろの髪は細長く一本に束ねて首筋まで伸ばされている。
だが、真に奇妙なのはその服装。
いかにもな貴族の服では無く、膝まである白衣にTシャツとチノパンのようなズボン。
目は巨大なグルグルメガネで隠されていて、鼻から下しか出ていない。
表情もわからない。声もロクに分からない。
しかし、一つだけ確かな事があった。
この男性の口元が、大きく弧を描き笑っていたのだ。
そして、その顔から察する事が出来た言葉はただ一つ。
『邪悪』
それだけだ。