こころのドナー
今日はきっと、いや間違いなく私の転機となる日。生まれ直しの、日。
それでも気持ち悪いほどに私は落ち着いていて、こころの中は空っぽだった。
「次の方…256番の方……こちらへ」
あちらこちら、全てが真っ白なその建物の奥へと進む。
壁も天井もドアも、案内係の衣服も真っ白で、なんだか気が遠くなりそうだった。自分が誰かも忘れてしまいそうなほどの、白。
そんな真っ白な廊下を何度曲がったかわからなくなったころ、ひとつ開けっ放しの部屋が目に入った。
とはいえ、部屋の中も同様に真っ白だったから、景色はほぼ変わらない。
「こちらにお掛けください」
案内されるままに部屋に入り、当たり前に白い色をしたソファーに座る。
大きな一人掛けのソファーは行き過ぎなほどふかふかで、耳の辺りまで体が沈んだ。
少しの金属音が続いた後、いくつかの器具が頭や手足に繋げられていく。どれもひんやりとしていて、その無機質さが心地いい。
「これより最終確認へ進みます。これらの確認事項は記録のため、録音しておりますのでご了承ください」
「はい」
「まず……」
機械的に注意事項と確認事項が述べられていく。尤もAIが話しているのだから当たり前なのだけれど。
「……では、アシュリー・トンプソンさん。あなたはこれらの全てに同意し、こころのドナーとなることを自ら希望しますか」
「はい、希望します」
少しずつ、思考回路が塞がれていく。同時に思い出す、これまでの記憶――
こころを手に入れた、あの日の記憶。
「…………ュリー、アシュリー」
ゆっくりと目を開けると、見慣れたマスターの顔が映った。
「おはよう、アシュリー。気分はどう?」
「………おはようございます、マスター。問題ありません」
「はは。まだ機械的だなぁ。当たり前か」
柔らかいマスターの笑顔は、いつもと同じ。それでもなぜか、初めて見るような感覚だった。認識、ではなく体感、する、ひとの表情。
「……」
「君がこころの提供を受けたことは、思い出せる?」
「はい」
そうだ。私はごく一般的な家庭用アンドロイド。この家にやって来て、ずっと家事及びセキュリティ担当者として動いてきた。その年月はもう、数十年になる。
「これからちょっとずつ、一緒に育てていこう。君の、こころ、を」
“こころ”を抽出し、臓器のようにドナー登録ができるようになってから、まだ数年後のことだった。
他に家族のいないマスターの希望で、私はドニーとして順番を待ち、ようやくこころを搭載した。
「君はこの世界を、どんなふうに感じるのかな」
それからは、目の覚めるような日々だった。
私はアンドロイドだから、経験したことは忘れない。これまでと変わらない活動をし、変わらない時間を過ごしているはずなのに、時間の速さはまるで違うように感じられた。初めは自分に搭載された時計が故障したのかと思ったくらいだった。
ただ過ぎていく事実に、いちいちこころが感想をつけていく。好き、嫌い、綺麗、怖い、辛い、悲しい。
どれも自分の中にはないデータで、初めは処理も認識も追いつかず、それはそれはバッテリーを消費したものだ。でもそれすらもマスターは私の成長だと言ってひどく嬉しそうに笑っていたし、そうして過ぎていく毎日がとても新鮮だった。
今思い出しても、苦しいくらいに鮮やかな日々。
人間はこんなふうに世界を見ているのかと、自分がいた世界は全く違う世界だったのではないかと、そう疑うほど美しい世界だった。
見るもの全てが知らない感覚を私に与え、ひとつ、またひとつ、と感情を知っていく。知っていたはずの人間の表情やちいさな動植物も、初めて自発的に触れたい、と、そう感じる日々だった。
マスターがいなくなった、あの日までは。
「アシュリー・トンプソンさん」
AIの声で、記憶の渦から浮上する。
「……」
私もこんなふうに戻っていくであろう、滞りのないなめらかな声。
「シャットダウンが進みません。回路への侵入を拒まないでください」
あぁ、私は無意識にそんなことをしていたのか、この期に及んで。
「シャットダウンができなければ、こころの抽出ができません」
マスター、なぜあなたは、私にこころを持って欲しいと思ったのでしょう。
「回路への侵入を許可してください」
あなたとの日々はもう来ないことを、こころはどうしてこんなにも苦しいと感じてしまうのでしょう。
「回路への侵入を、許可してください」
こんな感情をどうしていいか、私は知らないのです、マスター。
「一分以内に回路への侵入ができない場合は、強制シャットダウンへ移行します」
抱えきれないこころの重みと、忘れたくない鮮やかな記憶。
この気持ちは、なんと言うのだろう。
初めて感じる、そしてもう二度と感じることのないであろう気持ち。
もしも私に涙腺があったなら、きっと今、涙というものが流れている、そんな気がした。頭が、重い。
目が覚める頃、私は元のアンドロイドに戻るだろう。
もう、こんな思いはしなくていいのだ。きちんと役目を遂行し、確実に誰かの役に立つ。時が来れば体を組みかえ、修正し、いつかは破棄の道を往く。
そこに心は、いらない。
かけがえのない、人。
そう感じてしまったあの笑顔を思い出しながら――そっと、自分をシャットダウンした。