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29.見つけた運命(3)

 何年も前から、璃珠に接触するのをやめていた。あの子が喜ぶと思って義妹に罰を与えていたのだが、ーー嫌いだと言われてしまったからだ。


 それ以来、いつでも寒い。胸の中に空虚な穴があり、そこから隙間風が抜けてくるような辛さがあった。

 璃珠ともう一度話したいと切望する一方で、もしまた拒絶されてしまったらと考えると、夢渡りの術を使う気にはなれずに居た。



 だが、我々は、璃珠と過ごす時間にすっかり慣れてしまっていたのだ。

 葉留は菓子を作りすぎてしまうし、七紬がこしらえた着物はもう箪笥に入り切らないほど増えた。

 淡白な性格の朱貴でさえ、書物が好きな璃珠のために、古い本を集めて屋敷の図書室を充実させていた。

 浮雪は、庭の木を美しく保っているのだが、あれはいつだったか、璃珠に褒められたからではないかと私は踏んでいる。






 今の時代では、成人しても学び舎に通えるらしい。女子でも学べることだけでも驚きだというのに、拾八になった璃珠は、だいがく、なる所で学んでいた。


 これに喜んでいたのは知識欲旺盛な朱貴で、璃珠が受けている“こうぎ”のときには、必ず表に出て真面目に話を聞いているのだった。我々は、俗世の物には干渉できないが、屋敷から持ち出したものであれば触れることができる。

 朱貴の書き付けは日に日に増えていき、彼奴はこうぎ以外の時間にも、自室でなにやらぶつぶつ呟きながら研究を進めるようになった。

 彼奴は太古の昔、ある都の王の補佐をしていた者だ。謀略で流罪になったところを拾い眷属にした。長い間、何事にも関心を示さずにいたのだが、学ぶことへの意欲がこれほどまで高かったとは。私はいささか意外に思っていた。



 なお、私は講義に興味など持てぬ。屋敷の中から見える景色は、我らの記憶の中にある風景を模していることもあるが、璃珠の見た物に変えることもできる。

 私はそうして彼女の視界を通して世界を見ることを愛していた。飯炊きにまつわる思いつきや、盛り付けられた料理の絵を、ぷりんと、なるものの片すみにこっそりと書き込んでいること。学び舎の中にある食堂で、巨大な「ぷりん」が気になっているが、十人ほどの人間が集まってようやく食べられる量だと知って諦め、それでも、毎回そこに目が止まること。

 そのすべてが微笑ましく、愛おしかった。


 一方、璃珠には、三人の「ともだち」が出来たようであった。これまで璃珠の抱えてきた孤独は知っている。本来なら喜ぶべきなのであろう。だが、私はどうにもそのような心持ちにはなれなかった。

 浅ましくも、璃珠には一人きりで居てほしいと願ってしまったのだ。屋敷の奥に囲いこんでしまいたい。そうして、私だけを見つめて欲しいと。






「翡翠さま、友だちって、ーーこういうもの?」


 葉留は訝しげに外の様子を見ながら尋ねた。それには私も同感であった。

 その夜璃珠は、二人の男と一人の女と共に、くるまに乗っていた。


 いけ好かない眼鏡の男以外は、璃珠に悪感情を抱いているように思える。

 もっとも、もうひとりの男のほうは、我々が視える数少ない人間のようだから、怯えているといったほうが良いであろう。ーーだが、あの女はひどく醜悪だ。継母や義妹と同類のにおいがする。


 くるまは、どんどん街を離れていく。山をいくつも越えて辿り着いたのは、灯りもない、鬱蒼と茂った森だった。四人はくるまを降りて、森の奥へ奥へと進んでいく。




 我々は、屋敷の中で璃珠の目に映る外の様子を眺めながら、ぴりりとした緊張を感じていた。


「ーーこの先に何があるのか、彼奴ならわかっているだろうに」


 私はつぶやいた。

 四人が向かう先には、禍々しい気配を放つ、黒い空き家がある。何かが封印されているのが見てとれる。


 めがねの男は青白い顔をして口元を押さえている。ーーおや、視えずとも、感じられる類いの人間であったか。そういえば、かすかに妖のにおいがする。

 女のほうは目をぎらぎらさせて、でんわ、を空き家のほうへかざしてなにかしているようだ。

 璃珠はなにも感じることなく、いつも通りではあるが、なにかを警戒している様子に視える。




「ーーふうん、護符なんか持ってるんだね」


 朱貴が感心したように言った。


「彼奴が作ったのだろうか」

「いや、あの男にそんな力は無いだろう。どこからか入手してきたんだろうけど……」

「無意味だな」


 薄茶の髪をした男の身体が、凍りついたようにぴしりと動かなくなる。中に蠢く者たちに干渉されたのだ。

 その力は、うねうねと蠢きながら、璃珠のほうへと向かってきた。


「ーー手間をかけさせおって」


 私は舌打ちをしながら、夢渡りの術を発動させた。璃珠の身体がその場に崩れ落ちる。ーーあの眼鏡の男がそばに居れば大丈夫であろう。

 新月でもないのに大きな力を使ったので少し目眩がしたが、構わず私は本来の姿にこの身を変え、眷属たちを引き連れて、空き家へと突き進み、中に居る者たちをすべて喰ろうてやった。

 少しだけ力が戻ってきた。






 その日以来、璃珠は一人でいるときにすこし不安定になった。淋しげに目を潤ませたかと思うと、なにかに期待するような表情を見せる。そのくり返しであった。

 さらに、断ればいいものを、自ら奴らの誘いに乗って、危険な場所に身を投じていた。数回に一度は、我々が出張っていく必要があるほどだ。


「ーーあの男、翡翠さまを利用しているのでは?」


 そう言ったのは朱貴だった。普段は感情を見せぬ彼が、目をぎらぎらと燃やしている。


「そうであろうな」

「では、なぜ何もなさらないのですか」

「ーー罰を与えるのはかんたんだが、……璃珠がどう思うだろうか」


 私は璃珠にきらわれるかもしれない道よりも、目の前に現れる醜悪な邪魔者をその都度滅していくほうを選んだ。さすれば、璃珠を守るための力も蓄えられよう。


「僕は腑に落ちませんがね。奴らが、翡翠さまの力をあてにして付け上がるだけだ」


 それは否定できなかった。奴らは、璃珠を盾のように利用しており、腸が煮えくり返りそうになった。--だがそれでも、璃珠の意思はなるべく尊重してやりたい。





 璃珠の状況は良いとは言えなかった。


 ふだんは、健気で強い心を持つ彼女そのものであった。新しい環境でも、少しでも楽しい生き方を探しているのであろう。

 自ら働きに出得た報酬で、住まいを飾るものをいろいろと買い揃えたり、見たこともない甘味を買ったりしていた。

 また、日々の煮炊きも楽しんでいるようであった。よくそれだけ違う料理を拵えられるものだと感心するくらい、日ごとに違うものを作っていた。


 また、まったく同じ飯を、日によって少しずつ作り方を変えて拵えていたりもして、並々ならぬ執着を感じる。

 さらに、作った飯の絵と、その作り方を書いた日記のようなものまでつけており、相変わらず食い意地の張っているところが愛おしい。


 璃珠を屋敷に招くことはなくなっていたが、葉留は今の時代の菓子を自ら学び、日々試作を重ねている。いつか、食べさせてやることができればいいのだが。




 一時期は収まっていた悪夢も、ふたたびよく見るようになっていた。

 あのような穢れた場所に通っているのだから、なにかしら影響を受けているのであろう。

 夜半に苦しげに魘される璃珠を見ていると不憫で、私は隣に横たわり、その額に手をかざすまねをした。


 そのとき、璃珠がぱっと目を開けた。私は驚いた。もしかして、私が見えているのだろうか。--だが、瞼はすぐにかたく閉じられてしまい、落胆した。

 胸の内に持て余しているこの感情は、良いものでは無い。いつか、ほかの神に仕える老人が璃珠に言ったように、神と人の子が番えることなどないのだ。我々は、生きる時間が違いすぎる。


 だが、他の男と夫婦となり、子を成し、笑いながら過ごしていく璃珠を想像すると、胸が焼き切れるような痛みを感じずにはいられない。そのたびに、璃珠を人の世から攫ってしまいたいという、強い衝動に駆られていた。






 とうもろこし色の髪の女には感謝している。

 今、私の腕の中には璃珠がいるのだ。それはやわらかく、温かい。華奢で抱きしめたら折れてしまいそうなくらい脆い。

 璃珠は私の顔を見上げると、とろけるように笑った。不思議そうに私の顔をぺたぺたと触り、そして、自ら私の背に手を回したのだった。


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