第93話「ミズカガミ」
視点:3人称
同日、午後。
イリューシアの森、中間部。
濃密な魔力が一帯を支配し、限られた生命しか生存を許されない、そんな特殊な空間。
それでも、魔力への耐性を獲得した力強い木々が生い茂り、鬱蒼としたその場所に。
突如として魔力が収束し、次いで――。
白い霧が、ブワリと拡がった。
明らかに自然現象ではない、異様な光景だ。
そもそも霧とは、空気中の水蒸気が小さな水滴となり白く見えるようになった現象を言うが、これには大概、気温の急激な低下が伴っている。
何しろ、空気に含まれる水蒸気の量には限界値があり、空気の温度が低いほどそれは小さい。そのため、気圧の低下や寒気の流入などによって大気の温度が急激に下がった場合、そのキャパを超え、空気中に存在できずに放り出された水蒸気が液体になる。
そうして、眼に見える状態になったのが霧だ。
だが、現在この場に発生しているソレは、明らかにそんな自然の摂理に反していた。
周辺一帯の気圧も気温も目立った変化はなく、にも関わらず、霧は唐突に湧き出した。
しかも、その中心部は固定されたように動かず、まるで意志あるかのような異様な動き――。
一体、どんな原理で生じているのか不明なソレは、不定形に蠢きながら、瞬く間に拡がっていく。
地球上であれば決してありえない現象だった。
とはいえ。
ここは地球ではない。
“魔力”という埒外の要素が存在する異世界だ。
案の定、森の魔力を押し退けようと拡がる霧は“水”の魔力を帯びており、不可解な現象の原因はまず間違いなくこれだろう。
他方、森に根付きあふれかえっている魔力――“植物”の魔力は、霧に押しのけられるように後退し、せめぎあい、“水”の魔力と激しく交じり合っていた。
通常、“水”と“植物”では、“植物”の魔力が優越する。
とはいえそれは、双方の魔力密度が拮抗している、という条件付きでのこと。
ここで言う魔力密度とは、空間当たりの魔素量だ。
そして、濃密とはいえ森全体を満たしている“植物”の力に対し、一点から急激にあふれ出す“水”の魔力は、魔力密度の点で局所的に上回る。
適切な水分は植物にとって不可欠だが、多すぎれば根腐れする。
それは魔力の接触であっても共通で、部分的な密度差により、そういった激しい攻防があちこちで発生。
結果、常人には視認できない、複雑なマーブル模様が、四方数メートルほどに描かれた。
そうして、2つの魔力の潮流が、ただでさえ特殊なイリューシアの森を更に異様な空間へと変えていく。
物質と物質の境が曖昧になっていくような、常識が非常識へと塗り替えられていくような――。
現に、霧に隠されほとんど露わでなかったが、その中心部ではまるで鏡面の様な奇妙な何かが、“水”の魔力によって形成されていた。
縦に長い楕円形、輪郭も曖昧な空間の揺らぎ、とでも言えばいいのか。
横から見ても厚みはなく、文字通り次元が違う代物だと見て取れる。さながら古来より伝わる“水鏡”――現世と異界を繋ぐ門――のよう。
その間にも周囲では魔力が渦を巻き、いい加減、その混乱も飽和しきった頃――。
嫌に場違いな声が、突然響いた。
「はい! とうちゃーく! って、……あれ?」
次いで漏れた困惑に続き、また別の黒い影が慌てたように言う。
「おい、ここまだ“安全圏”じゃねえだろ!? ディー、ひとまず頼んだ! 2人は気分とか大丈夫か?!」
そんな、内容の判然としない問いに答えたのは、年端もいかない少女の声。
「はい! 私はいいんですけど、たぶんレイナさんがまずいです!」
「マジか! ディー!」
「既にやっている!」
直後、瞬間的に“火”の魔力が吹き抜け、弾かれるように霧が晴れた。
そこにいたのは5つの人影。
もちろん、霧が出る以前はその場に影も形もなかった者たちだ。
空間転移、とでも言えばいいのか。この世界であっても容易には成しえない偉業をやってのけたらしい彼らは――かなり個性的なメンツだった。
膝を突き、苦しんでいるのはプラチナブロンドの若い女。深い蒼の瞳は怜悧だが、今は苦悶に歪み余裕はない。
そんな女の肩を支え、何やら魔力を操っているのは明るい碧眼に赤い髪の麗人だ。こちらは“火”の魔力を扱い、女を苦しめる森の魔力を打ち消しているらしい。
ちなみに、そんなことを行うには微細な魔力コントロールが不可欠なのだが、赤髪の麗人はそれを見事にやってのけている。
また近くには、焦げ茶色の髪に黒い瞳の少女がいた。
この世界には存在しない奇妙な持ち物と衣装を身に纏う彼女は、めいっぱい心配そうな表情を浮かべてはいたが、とはいえ、やれることは何もなく、所在無げにおろおろしている。
そして、その傍らにいるのは服も髪も、瞳も黒い長身の男。
彼はわかりやすく焦燥を顔に出しながら、青い髪の子供に向けて言っていた。
「アオはもう1回だ! 今度は成功させてくれよ!」
もちろんこれに、子供は憤慨して言い返す。
「ああ、もう! ボクだってわざとやってるわけじゃないし~!! そんなに言うならショウがやればいいじゃん!!」
憎まれ口をたたきながらも、蒼い髪の子供は言われる前から転移する準備に入っている。魔力を再度練り直し、移動先を見据え、異なる空間を繋げようと意識を集中させていく。
今度こそ目的地まで届かせるべく、その表情は真剣だ。
だからこそ、男に向ける視線と言葉はこれ以上なく鋭い。
それを承知している男は、何を思うでもなく素直に言った。
「難しいのは重々わかってんだよ。情けないが俺には無理だし、アルだって他人を運ぶまではできねぇし。お前にしかできないことなんだ。頑張れ、青藍」
「……」
ある意味、言いたいことを言っただけの無責任な声援に、それでも子供はむずがゆそうに目を逸らす。
「……はいはい、それじゃあ、ちょっと待っててね!!」
そうして間もなく――。
彼らの姿が再び霧に包まれたかと思えば、その一瞬後。
そこにいた気配の一切が消えた。
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「よ~し! 今度こそとうちゃーく!」
そして、ほとんどタイムラグもなく、再び同じプロセスを経て、先程よりも開けた場所に同じメンツが現れる。
その移動距離は数キロメートルといったところ。
ちなみにそこは、イリューシアの森中心部にほど近く、だが、魔力による圧迫感は軽減された“安全圏”――普通の人間であっても立ち入れるレベルにまで魔力濃度が落とされたエリア――だ。
皆が思わず力を抜いて安堵する間に、やり切った表情の青い髪の子供がクルリと振り返って言い放つ。
「ボク、先にルディのとこ行ってるね!」
「あ、おい!」
「アオちゃん!」
そうして転移早々、脱兎のごとく駆け出していく子供――青藍の背に、宵闇も麗奈も声をあげ、真緋は顔に手をやって息を吐く。
「まったく……」
次いで、眉を下げた宵闇が振り返って言った。
「レイナ、身体はどうだ。問題ないか?」
「ああ」
淡々とそう返した女――レイナは、しかしその調子のままぼそりと言う。
「――だがアイツ、殺していいか?」
その彼女は今もなお膝をついた体勢であり、呼吸も荒く額には汗。苦悶の跡も色濃い。
心中察してあまりある宵闇だが、もちろん首を振って言った。
「……あんたはすぐ、殺す殺す言いすぎだ。まだ子供なんだ。勘弁してやってくれ……」
傍らのディーもまた言い添える。
「我が代わりに謝ろう、すまないな。
これだけの数を転移させるのは彼奴も初めてなのだ。距離もあったのでな」
「は……」
「あとで青藍には言っておく」と続けたディーに、レイナは冷笑して言った。
「――だからガキは嫌いなんだ」
何を思っての言葉なのか、独り言のように吐き捨てられたソレに、宵闇は視線を逸らして苦笑する。
「まあ、俺から見ればあんたも十分、そのガキだよ」
「……」
これには人を射殺しそうな視線をレイナは向けるが、対する宵闇は茶化すでもなく、どことなく悲しげだ。
ただ一方では、面白がるような、何かを懐かしく思っているような……、そんな複雑な色もある。
とはいえ、男はそれ以上何を言うでもなく、周囲へと目をやり何かを探す素振りを見せた。
それを知ってか知らずか、今度は麗奈が口を出す。
「――あの……。ところで、さっきからアルフレッドさんがいないんですけど、まさかアオちゃんが置いてきた、とかじゃないですよね」
場の微妙な雰囲気に躊躇っているのか、それでも思い切って訊いたらしい彼女に、ディーは朗らかに笑って言う。
「そんなことはない。
彼奴は己だけなら移動可能でな。わざわざ青藍の負担を増やす必要もなし。別で転移しただけだ」
その返事に、麗奈はほっと息を吐く。
「あ、そうなんですね。
アオちゃんとアルフレッドさん、なんか仲悪そうに見えたんで私てっきり……」
これには宵闇も苦笑して言った。
「よくわかったな、麗奈。少なくとも、アルは青藍のこと苦手なんだ。初対面でちょっとあってな」
「へぇ……」
なんとはなしに頷く麗奈に、ディーも言う。
「他方、青藍はなぜ忌避されるのかが理解できんらしいな。
この間、心底不思議そうにぼやいていたが、我は“アルフレッドの身になって考えてみろ”としか返せなかった」
そう言って、もどかしげに微笑むディーに、宵闇は面白がるように言った。
「お、あいつもそんなこと気にするようになったのか。少しは成長してんだな」
対するディーは首を振って苦笑する。
「とはいえ、やったことがやったことだ。早々、改善できるとは思えん。
真に己の行動を反省し、心の底から謝罪する。……それを青藍が実行できなければ、な」
「え、一体、アオちゃん何やったんですか……?」
恐る恐る問いかけた麗奈に、宵闇が乾いた笑みを向けて言った。
第93話「ミズカガミ」




