第23話「変異」
視点:3人称
――美しい月が昇る、その晩のことだった。
夜の静寂に、悲痛な獣の声が響く。
続いて、肉を断ち、鮮血がこぼれ、生命がただの肉塊となっていく、そんな生々しい音が暗闇に伝わった。
その音の発生源にいたのは、異常に大きな“魔物”。
二足歩行可能な後ろ脚、獲物を器用に掴み引き裂く前脚、そして一心不乱に肉塊にかぶりつくその大きな頭部。
灰色の毛皮に覆われたその体躯は、全身が血に汚れ、禍々しさが際立っていた。
ただ、魔物は片腕だった。
右の肩口から先がなく、その鋭利な断面から、刃物に切り落とされたのだとわかる。
昼間、とある人間にやられたのだ。
そして、その魔物が今、何を喰らっているのかと言えば――。
悍ましいことに、かつて同族だったモノだ。
月下でも、血に汚れたその肉塊もまた灰色の毛皮を纏っていたと辛うじて窺える。遺体からは血だけではなく、不可視の魔力も垂れ流され、その残滓が周辺に凝っていた。
やがて隻腕の魔物は食事を終え、ググッと身体を緊張させる。背を丸め、毛を逆立て、何かを漲らせるようにその巨躯を震わせた。
そして、周辺に凝っていた魔力が渦を巻き、魔物の方へと収束し――。
遂にその時が訪れる。
ボコボコと変形する魔物の身体、凶悪さを増す気配。
やがて、欠損していた右腕が新しく生えた。
しかしそれでも変化はとまらず、その体躯はより大きく、放つ魔力もより強く変わっていく。
そして、その変化が終わりを迎えた頃――。
1頭の悍ましい魔物が、月夜に向かって吠え声をあげた。
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人の気配が失せた山小屋に、大きな黒い影が覆いかぶさった。
その影は鼻をひくつかせ、念入りに室内の様子を探り――数秒。ようやく内部に“求めていた獲物”がいないことを悟る。
だが、その大きな影――異様な気配を纏った魔物は、鋭い嗅覚で獲物の行く末を嗅ぎつけた。
麓だ。
鼻っ柱をひくつかせ、魔物はその視線を山麓へ向ける。
だが、忌々しいことにその傍には、魔物に手傷を負わせた“強者”がついていることも同時にわかった。この魔物を魔力で圧倒し、片腕を斬り飛ばしたあのニンゲンだ。
魔物は一瞬、思案する。
このまま獲物を追い、麓まで降りてもいいのだろうか……と。
十中八九、村には“強者”がいる。
あれは恐ろしい存在だ。何しろかつての魔物を――。
――そう、かつての、だ。
魔物は次の瞬間、まるでニンゲンのように、ニヤリと口元を歪めて嗤った。
わずかに委縮していた体躯を伸ばし、自信を漲らせ眼下を見晴るかす。
そうして、すっかり様相の変わった自分自身の巨躯に目をやった。
――今ならば。
そんな、魔物の言葉が聞こえるかのようだった。
……いや、事実そうなのだろう。
やがて魔物はのっそりと移動を開始する。
進路は山を下った人間たちの住処。
そこには、かつての魔物に痛苦を与えた“元強者”とたくさんの“殺してもイイ獲物”、そして“捕らえるべき獲物”がいるはずだ。
己に痛みを与えてくれたニンゲンは今度こそ肉塊に。
壊してもイイ獲物も同じく肉塊に……。
――では、捕らえるべき獲物はどこへ……?
それに思い至った瞬間、魔物の動きが止まった。
――壊さず捕らえた獲物は、どこへ連れて行くのだったか……。
生憎、魔物には、褒美をねだるべき相手が既にない。何しろ、魔物自身がその相手に牙を剥き、害してしまったのだから。
――メンドウ。……すべて壊せばいいのでは?
そんな考えが魔物の思考を染めていく。
かつての“主人”に歯向かい、同胞さえもその血肉に変え、大きく存在の変質したその魔物は、しかし結局のところ中途半端にかつての性質を残したままだった。
この小屋までやって来たのは、かつての主人に命じられていたからだ。
――ここに住む獲物を生きたまま捕らえ、主人のところまで運んで来い、と。
共に生まれ、共に狩りをして生きてきた、結束の固い同胞を手にかけたのも、かつての主人に望まれていたからだ。
――あのニンゲンとジュウマ以上にオレが強ければよかったのに、と。
しかし、もうすべては無意味になっていた。
もし命令を果たしたのだとしても、魔物をほめる主人はいない。
魔物は、自身の行動原理さえ忘れかけながら――。
眼下に見える灯りを踏みにじり、己に痛苦を与えた存在に今度こそ引導を渡すべく、山を駆け下りて行った。
第23話「変異」




