第135話「誠実さは身を助ける」
珍しく、魔物姿の宵闇、アルフレッド、男装のレイナが同じ場――彼らの居場所である檻の中――に揃っている時だった。
夜も深まった薄闇の中、黒い虎、宵闇が言った。
『なあ、レイナ』
念話で発せられたその呼びかけ。
それまで物思いに耽っていたらしい蒼い瞳がそろりと動き、檻の奥で身体を伸ばす大きな黒い姿を捉える。
その視線を受け、宵闇は――。
『俺たちに、なんか言いたいこと、あるんじゃねぇのか?』
「……あ?」
遂に、その問いを発した。
これでも言葉を迷ったのだろう、慎重に相手を観察しながらのソレに、返されたのは低い唸り。
檻の上には目隠し用の厚手の布がかけられ、外からの光はほとんどない。それでも、僅かな縫い目の隙間から月光が差し込み、辛うじて互いの姿が見えている。
その、あるかないかの白い筋に照らされて、深い蒼の瞳が鋭く細められたのが、暗がりでも窺えた。
何のつもりで訊いているのかと、相手を余さず探るような刺々しい視線。
それへ静かに応えたのは、宵闇ではなくもう一方。
「貴女からすれば、言い出しにくいのでしょうが。既にこちらは、大体のところを察しているんですよ」
「……」
滑らかな黒い毛皮に肘置きよろしく、慣れた姿勢で凭れている青年――アルフレッド。
彼は関心も低そうな無表情ながら、しかし、彼にしては珍しい、ある種の柔らかさを伴って言った。
「なので、残る違いは、貴方の意思で言うか言わないか、それだけです」
傍からすれば何を指しているのか不明だろう。
とはいえ、当事者であるレイナには伝わった。
何せ彼女はここ最近、平常心を保てていない。
実際、言葉を発しようと口を開きかけ、何も言えずに閉じること数知れず。
そしてその原因は、思わぬ経緯で知った、とある人物の輿入れの話。
「っ……」
レイナは、律することのできない感情を持て余し、反射的に唇を引き結ぶ。
狭くはない檻の奥側、相棒たる青年の言い回しに首を揺らしながら、今度は宵闇が言った。
『一応、今までお前の様子を窺ってはいたんだがなぁ』
獣の表情はわかりにくいが、彼は苦笑しているらしい。
牙の覗く口元を前脚に乗せ、宵闇は言う。
『――とはいえ、待ちすぎて変にこじれるのも厄介だし。あとは、いい加減待ってんのも面倒になってきちまってな』
「……」
見返すレイナのことは気にもせず、宵闇は首を傾げて言った。
『ひとまず、突然居なくなるのだけは、やめてくれると嬉しいんだが』
そんなことはしない、とでも言いたげに、レイナの顔が顰められる。
だが、肝心の返答はやはりない。
何か迷いがあるらしい。
視線を数舜うろつかせ、口を微かに開閉させるレイナの様子を横目に見つつ。
アルフレッドは、すぐそばの黒い毛並みに顔を伏せながら、言った。
「叶えるのが難しいなら、僕らもそうと言います」
そんな言葉に、なぜか意外そうな視線を向けたのは宵闇の方。
視界に入らない青年の頭部。それを無理にでも見ようと反射的に上体を起こしかけたものの。まぁ物理的に無理なため、僅かな身動ぎに留め、面白がるような銀の瞳で、代わりの様にレイナを見遣る。
一方の彼女は、諦めたように鼻で笑い。
それでも僅かな間を挟んで、押し出すように、ようやく言った。
「……オレはな、これでも負い目に感じてんだ」
なにを、と、口に出さないまでも同じような雰囲気で言外に促す宵闇とアルフレッド。
その自覚の薄い反応に、レイナは口端を歪めて言葉を返す。
「今更だが、オレはあんたらからの扱いに戸惑いしかない」
それは2人も知るところだ。
端的に言ってしまえば、レイナを自分たちと対等に扱おうとした時。そんな時、彼女は大概、表情を繕うこともできずに困惑を見せる。
ついでに言えば、その対応自体は宵闇もアルフレッドも自覚的だった。
彼女がこれまでどんな経験を経て、どんな感情をもってこの場にいるのか。充分なコミュニケーションがとれているとは言えないが、それでも彼らなりに推定し、配慮したうえで、彼女の能力に見合った待遇および接し方をしていたつもりだ。
それがなぜ “負い目” などという言葉につながるのか。
強いて言えば、もっと異なる表現になりそうだが……。
訝しむ空気を察したうえで、レイナは本格的に苦笑を見せて言った。
「ホント、どうかしてる」
半ば独り言を呟いて、次いで言う。
「だってそうだろう。オレがあんたらに言ってないことは山ほどある。そして、オルシニアとイスタニアの関係は中々不穏だ。なのに、ロウティクス城という、国の要塞内部もオレは自由に動き回れて知っている」
更には、レイナはかつてオルシニアの王城にも出入りしていた。下仕えとしてであり、大した情報があるわけでもないが、その価値はなかなかだろう。
「自分で並べ立てても、オレはかなりの劇物だと思うが」
そんな呟きに、否定は無い。
レイナは更に自嘲して言った。
「おまけに愛想の欠片もない。……まぁ、ヤレと言われれば、できなくはないが。それでも、向いてないのは自覚してる」
こんなヤツにこれ以上の待遇を与えて、どうしたいんだ?
危ないとは思わないのか。対価も碌にないってのに。
そう言って、レイナは擦れた表情で短く笑う。
何か言いかけた宵闇。
それを遮るようにレイナは言う。
「確かに、あんたらにとっては別の方面に有用性はあるんだろう。それでも、同じ働きをできる奴は他にいないわけじゃない。もっと全てを晒し、親しく接し、より価値があり、より警戒せずに済む奴なんか、山ほどな」
「まぁ、それはそうですね」
なんの躊躇もない、アルフレッドの肯定。
呆れを含んだ視線が宵闇から向けられる。
だが、彼の言葉は終わりじゃない。
「――ただ、貴女がそんな人物だった場合、信用も、ましてや信頼も、まったくもってできないでしょうが」
「……」
レイナは二の句を継げずに閉口する。
表情がすこんと抜け落ちて、まるで理解しがたい異国語を聞いたような反応をする。
アルフレッドは姿勢を正すように、黒い巨体から身を起こしつつ言った。
「貴女が言っていないこと、というのは、元の、雇い主とでも言えばいいのか――、主にそのことなんでしょうが。それを明かさないのは、恩義かなにかを、感じているからでしょう。要するに、義理を通している、と」
『俺の感覚からすれば、守秘義務を守ってるってところかな。口が重くて大変よろしい』
短く笑った宵闇。
それへ肩を竦めて返すアルフレッド。
「もしくは、何かしらの心理的な枷でもあるのか。……確か、トラウマ、でしたか」
『ああ、その線もあるか』
例えば、幼少期の刷り込み、体罰による躾――そういったものによる、反射的な行動や思考の制限。
宵闇は肯定しつつ、しかし首を振る。
パタリと、尾が振れる音と共に、言った。
『だが、心理的に抑圧されてる人間ってのは、独特の不自然さがでるもんだ。トラウマってのは、簡単に言えば部分的な人間性の破壊。論理もない、恐怖の発露。……あまり、その手の違和感はねぇからな。イサナよりかは』
「少なくとも、思考したうえで意図的に言葉を選び、返答しているように見えますね」
アルフレッドも納得したらしい。ちらりとレイナを見遣って言う。
対する彼女は呆れ顔。
「あんたら、暇すぎないか?」
これに宵闇は軽く笑う。
『アルはともかく、俺はこれが趣味と言っても過言じゃない』
ああ、そうだったな、と。
いつかの会話を思い出し、レイナも鼻で笑って流すのみ。
「あとは、愛想、でしたか。……僕からすれば、共感さえあるので、気にもしてなかった、というのが正直なところです」
これには宵闇も大きく首元を揺らす。
『クハハっ! まぁ、そうだよな』
そんな、ある意味でレイナの意図と大きく外れた、しかし、これ以上ない返答。
己の懸念の的外れ具合に、レイナは嗤って息を吐く。
「……あんたらを、常識の枠内で考えたオレが馬鹿だったな」
その呟きが意味するところ。
それは、いわゆる “女性” としてのステレオタイプをレイナに求めるような、至って一般的で常識的と言われる思考が、宵闇にもアルフレッドにもなかったな、ということ。
忌憚なく具体例を挙げれば、宴席での華、場の緩衝材、無給の使用人。
勝手なことこの上ないが、現代で言えばそんなところ。
そういった、都合のイイ女性的役割を求められても、己には向いていないし、する気もない、と、彼女は言いたかったわけだが。
そんなこと、強調するまでもないことだ。
アルフレッドは気にもせず言った。
「貴女はかつて、確かな意思をもって僕たちに従うと表明した。その一方で、過去の全てを明かしているわけでもない」
彼は淡々と事実を述べる。
「確かに一定の懸念は否定できません。僕らはこれでも、オルシニアの中枢に関わっていますから、もし貴女がイスタニアに今も与しているなら、なかなか良い位置取りをしている」
『その場合、俺は危険人物を引き入れた大間抜けだ』
明らかに軽口と取れる口調。
アルフレッドは微かに口端を上げ、次いで言った。
「例の家族の件もありますから、貴女を警戒してはいた。主にディーがその役目を担っていたわけですが――」
レイナが、やはりそうか、とでも言いたげに肩を竦めてみせる。
まるで、ディーから受けた世話焼きの全てに裏の意図があったかのような、その仕草。
当然、彼は言った。
「――とはいえ、彼女は早々にそれを止めてしまった。ロウティクス城に入って以降のディーの言動には、何の隔意もありません」
「……」
「なぜだかわかりますか」
「……さぁな」
わかったうえで逃げるような返答。
これには、宵闇が答える。
『あんたが信用できる人間だと、判断したからだよ』
「ハ」
ちょうど、月が雲に隠されたらしい。
夜目の利く彼らでもすぐに順応できず、視界が黒く塗りつぶされるなかで、レイナから発された、吐息のようなソレ。
アルフレッドは感情の見えない静かな声音で言った。
「僕らも、それぞれに貴女を観察していた。今でも、全幅の信頼を置いているわけでは決してない。……それでも今更、貴女がこちらの不利になるような動きをするとは、あまり想定していないんですよ」
「お気楽なことだ」
端的な返し。
だが、宵闇は軽く言う。
『でも実際、そうだろ?』
再び差し込んだ月光の白い筋を受けながら、レイナは口端を歪めて言った。
「口先だけなら、いくらでも言えるからな」
『素直じゃないねぇ』
喉奥で笑うような獣の唸り。
何1つとしてはっきりした訳ではなかったが。
それでも、彼らの間で、確かに、何かが、ハマったような空気感。
レイナは、ひとつ息を吸って吐き。
心決めた声音で、言った。
「――相談、したいことがある」
第135話「誠実さは身を助ける」
なんと2話に跨っちまいました( ̄▽ ̄;)