第117話「選択」
冬の寒さも少しずつ緩んできたとはいえ、オルシニア最北の城――ロウティクス城の夜は、まだまだ冷える。
上弦の月から冴えた光が降り注ぎ、未だ残る雪があちこちで煌めいて、森の間際にそびえる城を黒々と浮かび上がらせている。
どこからか聞こえるのは獣の遠吠え。
人間が築いた文明と、未だ拓かれない未開の自然。
両者の狭間にあるのがこの城だ。
一方。
その城内に張り巡らされた石造りの廊下の1つ、そこをただ独り、足音も立てずに進む女がいた。乱雑に編み込まれた髪色はくすんでいるが月光に淡く光るプラチナブロンド。瞳は深い蒼。
レイナだ。
その歩みは女にしては速く、足元まで届くようなスカートの裾が、ゆらりゆらりと彼女の両足に纏いつく。
運んでいるのは、一抱えはある書類の束。
既に人気も絶えたような夜更けだが、彼女にはまだ、やるべきなんらかの作業があるらしい。
軽くはないだろうその荷物を平気で持ち上げ、何の感情も窺えない無機質な表情で、レイナはひたすら歩を進める。
彼女の左にずらりと並ぶのは、一定の間隔で配置されたハメ殺しのガラス窓。
頼りない月光の差し込むその短い区間、そこから狭間に踏み出せば、途端に身体が夜闇へ沈む。
頻りに切り替わる薄暗がりと暗がり。ひたすら数歩先の、次の窓辺を目指し、足を前に出すことを繰り返す。
光源は、厚いガラス越しの月明りのみ。
当然、足元さえ判然としない。
夜目が効かない者ならば、まっすぐ歩くのも一苦労だろう。しかしレイナは、恐らく見えているのか、歩調を乱されることもなく、冷えた廊下を闊歩する。
そして、もう何度目かもわからない、黒から灰色への脱出。
窓の前に一歩踏み出した、その瞬間――。
「!!」
不意に彼女は、飛び退さるように振り向いた。
手元にあった書類がバサリと落ちる。
「ハ」
次いで短い呼吸音。
その頃には手放した紙束に代わり、装飾の一切ない無骨な小太刀が彼女の右手に握られている。
もちろん、抜き身だ。
先の一瞬で引き出したのだろう、レイナは逆手に持ったそれを、慣れた動作でくるりと回し正眼に直す。
瞬く間に、ありふれた城勤めの侍女から戦闘を熟す暗殺者のそれに気配を切り替え、これ以上なく緊張した面持ちで、レイナは姿勢を低くする。
隙の無い、半身の構え。
刃渡り数十センチの小太刀を片手で握り、その切っ先はブレもしない。
そして、その刃が向かうのは、今しがた彼女が通過したばかりの、暗く沈んだ廊下の壁――があるはずの方向。
そこには当然、何の変哲もない、石造りの壁がある、はずだった。
「クク。……ひとまず、悪くない反応だ」
「っ」
しかし、そこから実際に聞こえたのは人の声――低い男の声だ。
「――とはいえ、飼い主が誰かを忘れるなら、そいつはどこまでも駄犬だな」
その声は、多分に嘲笑を含み、聞く者の神経を逆撫でする。
彼女の身体が知らず震えた。
決して、ナニモノがそこにいるのか、わからなくての反応ではない。何しろその正体を、彼女は既に重々承知していた。
レイナにとっては力と恐怖の代名詞。
元は普通の孤児だった彼女を、今の彼女にした存在。
「ハ、ァ」
抑えきれない焦燥と恐れ、反抗心を表に出しながら、それでもじりじりと後退するレイナ。
何しろ、今の位置取りは月光に照らされた最悪な場所だ。少しでも有利な条件に持ち込もうと、視線は油断なく正面に向けたまま、彼女は靴底を擦って後退る。
そうして身体の半分を闇に沈めながら――。
「――ハ」
短く息を吐き、レイナは呼吸を制御する。
一気に昔へ引き戻される感覚を、意思の力で引き留める。
委縮しかける身体に鞭打って、十全の力を出せるよう、瞳に力を込めて威嚇する。
「……もう少し、といったところか」
「……」
再度、誰もいないはずの空間から、同じ低音が廊下に響く。直後、闇でしかなかったそこに、人の形がジワリと凝る。
コツリと、わざとらしく鳴る靴音。
やがて、後退するレイナを追うように、1人の人物が月光の下に現れた。
予想に違わないその姿。
彼女は言った。
「……何の、話だ」
慎重に言葉を発した一方、新たに進み出て来た人物は、頭から全身まですっぽりと覆う黒い外套の中、口元だけで笑って言う。
「いや、気にするな」
「……」
無言で顎を引くレイナ。
一方、ゆっくりと闇から分離し、淡い光に照らされた男は、長身だった。
相対するレイナも男性と見紛うほど背は高いが、それよりも頭1つは抜けるだろう。
目元は深く被ったフードに隠れ、見えている肌は顔の下半分のみ。だが、両腕は外套の中でもダラリと下がっているのが明らかで、その様子に緊張感は見られない。
レイナとは見事に対照的だ。
彼女は相手が姿を見せようと、警戒に一切の緩みはない。
ギラつく視線で相手を睨み据えている。
対する男は微笑さえ浮かべ、おもむろに言った。
「ところで17番。随分と面白いところに潜り込んだな。……おかげで探し出すのに苦労した」
そう言いながら、男は軽い動作でフードを払う。
現れたのは、艶めかしく青みがかった黒髪。そしてその下から覗くのは、一言では表現できない――異世界においてはアースアイと表現される――異色の瞳。
3色が複雑に混ざり合った怪しげな視線が、整った相貌からレイナへと向けられる。
「――特に、この状況下で3番目のところにいるとはな。お手柄と言わざるを得ない」
「……」
ジリ、とまた後退するレイナ。
一方、動くはずのない人形が動き出し、微笑んでいるような、そんなある種の恐ろしさ、それほどの美を備えた男が、くい、と口端を上げて言う。
「どうだ? その成果に免じて、今日までの不義理を見逃してやってもいいが?」
明らかにそこにあるのは揶揄いと脅し。
まるで、慈悲が欲しければ今すぐそこに這いつくばって許しを乞え、とでも言わんばかり。
「……クソ野郎が」
対して、低く放たれるレイナの悪態。
その蒼い視線は揺るぎもせず、相手を射殺しそうな鋭さだ。
例えば、ここにいるのが常人なら、次の瞬間、身体に突きこまれる刃を幻視し、無意識に冷や汗に濡れ、呼吸もままならなくなっていただろう。
それほどの気迫が確かにある。
だが、相対する男は涼しい顔。
鼻で笑って言いのけた。
「ハ、そう吠え掛かるな。首に輪をかけられたままのソレでは、ひたすら滑稽なだけだからな」
「ッ」
ギシリと刃を握りこむ音が聞こえてきそうだ。
それまでブレることなく構えられていたそれが、初めて切っ先を細かに揺らす。
そこに現れているのは、屈辱か、怒りか。
一方――。
思わず口元に手をやった男が、その白い右手の内でひそりと呟く。
「……やはり、もう少し」
吐息に混ざるようなその声音。
驚くことにこの瞬間、男が急に“ニンゲン”になったかのように気配を増す。
手で隠されたその陰で、抑えようにも抑えられずに現れる、感情の起伏。
対するレイナは、その呟きを知ってか知らずか、これ以上ない嫌悪に顔を歪めながら吐き捨てた。
「その気色の悪い顔を止めろ」
一方の男はゆったりと片手を下ろし、綺麗に微笑む。
「悪いが、こればかりはどうにもならん。何しろ、俺に残された唯一の楽しみ、感情、その発露と言ってもいいのだからな」
「……」
会話が成り立っているようで成り立っていないやり取り。男が発する気配も、既にもとに戻っている。
レイナは呆れと疲労を自覚しながら、苛々と問いかけた。
「何しに来たんだお前は」
男は言う。
「探しに来たに決まっているだろう。お前たちを」
打てば響く返答。
ぴくりと反応するレイナに構わず、彼は言った。
「我が主はお優しい。お前たちが寒さで凍えてないかと心配しておられた」
「……は?」
その言葉が余程意外だったのか。
既に後ろに下がりきり、暗闇へ紛れた彼女の口から不覚にも、間の抜けた声が出る。わずかな光を反射する刃も、心なしか下がったらしい。
その変化を見て取りながら、男は憐れむような顔をする。
「捨てられたとでも思ったのか?」
「……」
次いで混ざる嘲笑。
「国からの命だ。主も従うしか無くてなぁ」
青白い光の下、微細に移り変わっていく、少し俯いた綺麗な面。
その細やかな変化は確かに人間のモノだったが、しかし、よくできた人形が動くような、言い知れない不気味さは相も変わらず。
「……」
黙り続けるレイナに男は言った。
「まだ生きていた奴は、既に全て戻した。残すはお前ともう1人」
「……あのガキか」
声を出した直後、レイナは暗闇の中、立ち位置をゆっくり変えていく。
居場所を特定されないためだ。
男は微笑して言った。
「ああ。だが、あいつはまだ若い。放し飼いもまた一興」
そして一瞬目を閉じ、彼は何を夢想したのか。
楽し気に、しかし、見る者に寒気を与えるような表情で、口端を上げる。
一転。
「――ただ、お前は違う」
「……」
目蓋を上げ、闇に紛れるレイナを迷わず視線で捉えながら、男は言った。
「これでも、俺はお前を買っている」
「……」
「それも、かつてお前が自ら選択したあの時から――」
嘘か本当か、その判断がつけられない、温度の全くない声音。
それでも男は、先程までよりよほど人間味を増した微笑みを浮かべ、何かを思い返して視線を逸らす。
「……ああ、あの時のことは今でもよく思い出せる」
そして再度、レイナが潜む闇に視線が向く。
彼は言った。
「あの時。俺たちはお前に選択肢をやった。……屈辱に耐える安寧か、恐怖に晒される自由か。……お前が選んだのは恐怖と自由。俺は、俺たちは、その選択に応えてやった」
「っ」
「とはいえ、この世においては完全な自由など存在しない。条件が付くのは当然のこと」
一歩、男は踏み出して言う。
「何しろ、ニンゲンが日々を生きるためには食い物が要る、金が要る。……存在して良いと納得できる、場所が要る」
そうしてまた、一歩。
「お前もよく、わかっているだろう。で、あれば――」
レイナが潜む薄闇の前。
彼女が構える刃の切っ先に、その胸を預けながら、男は首を傾げて問いかける。
「お前が今、取るべき言動は何か。……言わずとも、わかるな?」
明らかな動揺に、ピクリと刃が揺れ動く。
「……っ!!」
それを楽しげに眺めながら、男は言った。
「さあ、また、選べ」
その命令は、これ以上なく一方的。
「――飼いならされた安定か、それとも、先の見えない苦難か」
男とともに古巣に戻るか、あるいはそれをはね除け、拒絶するのか。
言葉を意図的に絞りながら、男は美しく微笑する。
「今のお前は、どちらを選ぶ」
青と緑、黄色が混ざったオパールのような双眸、心の底までのぞき込んでくるような、異色の瞳。
それと至近距離で相対して、数秒。
何に思い至ったのか、レイナは不意に、息を吸い、嗤った。
「……ハハ」
次いで。
最低限の予備動作で踏み込まれる足、突き出される銀の刃。
あいにく、相手は見事に後ろに跳んで回避したが、その面から、一切の感情を剥ぎ取ることには成功する。
無表情な男に向かい、レイナは言った。
「なぜ――」
多少、崩れた体勢を整え、足を引き、刃を構え直す。
ガサリと足元の書類が脇に退けられ、音を立てた。
そうしながら、彼女は問う。
「なぜ、あんたはそれをオレに訊く」
「……」
まるでそこにいるのが1頭の獣のように。
より鋭さを増した視線。
迷いを蹴り出したような声音。
彼女は言った。
「要は、退路を断つためだろう? 自分で選ばせ、責任を負わせるためだ」
自分で口にした問いに、自分で答える。
口端を吊り上げ、彼女は言う。
「そして、なぜ二者択一を迫る。しかも、都合の良い美辞麗句ばかり並べて」
これにも彼女は答えを出す。
「――それは思考を制限し、希望か絶望か、そのどちらかしかないと思い込ませるためだ」
再度息を吸い、彼女は唸る。
「何が、飼いならされた安定だ、先の見えない苦難だッ」
ぐらぐらと沸き立つ怒りに任せ、レイナは言い放つ。
「お前らに使われようと先が見えないのは同じだ。そもそもオレが欲したのは、自分の事を自分で決められる力だッ」
「ハ」
乾いた笑声が短く響く。
目を開き、無表情のまま身体を震わせる男に構わず、レイナは言った。
「オレをそんなに連れ戻したいのなら勝手に試みればいい。だが、オレは、ワタシは、絶対に諦めやしない。精々無駄な足掻きをすればいい」
言い放たれる拒絶の言葉。
じわじわと表情が戻ってくる男。
「……クク。ハハ」
だが、なんらかの感情を表す前に、彼は顔を片手で覆い、しかし、堪えきれずに笑声を漏らす。
「ハハッ」
「っ!」
飼い犬に反抗されれば、大体の飼い主はイラつくもの。
ましてや彼は傲慢だ。例え笑っていようと内心では激昂し、こちらに踏み込む隙を伺っているのか。
反射的に緊張感を増すレイナに対し、やがて笑いを収め、姿勢をゆったりと戻した男は――。
彼女の予想に反し、心底楽しげに言った。
「いやはや、どうやら俺は、一足遅かったようだな。……いや、あるいはベストなタイミングだった、ということか?」
完全な独り言。
眉を顰めるレイナの一方、男はニヤリと笑んで言葉を継ぐ。
「いいだろう。及第点。というより、お前は既に俺の制御下にはないらしい」
不気味なことにさも嬉しそうに、男は言う。
「焼き印も潰したようだしな。……投資の成果としては、悪くない」
そう言いながら、彼はフードを被り、一歩下がる。
瞬く間に闇へ紛れるその身体。
『――精々死力を尽くして生き残れ。常に思考を回して考えろ』
そうすれば、俺が楽しめる。
自分勝手極まりない、楽しそうな激励。
加えて、まだそこにいるはずにも関わらず、まるで遠くから聞こるような、ノイズ交じりの不思議な音声。
『気が向いたらまた来よう』
言いたいことだけを言い放ち、男の気配が――薄れて消える。
「2度とそのツラ見せるな、クソ野郎が」
忌々し気に吐き捨てながら。
彼女は、既にその場に男がいないことを、妙な確信と共に察していた。
何せ似たような現象を起こせる奴を、彼女はもう知っている。
やはりあいつも同類だったかと、レイナは何の感慨もなく思っていた。
第117話「選択」
次話から皓の章、開始です!