第113話「唯一無二の」
≪警告≫ 比較的、ヘビーな数学の話が延々続きます。とはいえ、この話の中心はそんなところではないので、拒絶反応が出る方は雰囲気をお楽しみください。
「もういいだろ? いいか、最初の質問は1つだけだからな」
宵闇が言った。
午前中も後半に差し掛かった時間帯。
部屋には窓から日が差し込み、徐々に室温が上がってきている。
その場にいるのは、宵闇とアルフレッド、そして麗奈の3人。
いつも子供たちが勉強に励む大きな卓に、彼らはいつもの席次で座っている。隣り合う男2人に、麗奈はその向かい側。
そして、彼らが一様に見つめているのは、その卓上に置かれた黒い異質な物体だ。
それまでしげしげとコンパクトな物体、もとい電子辞書を眺め、おおまかな機能の説明を聞いていたのはアルフレッド。
彼自身も不慣れな様子で画面を遷移させたり、キーボードを適当に打ってみたり。
なんでも卒なくこなす彼が、言ってしまえばおっかなびっくり手を伸ばす様子は微笑ましくさえある。
だが、そうして未知のモノに出会ったアルフレッドが、一体どんな疑問を発するのか。
隣にいる宵闇は、正直に言って気が気じゃない。
やがて、ゆっくりと青年は言った。
「……なぜ、これだけの情報を、こんな小さなものに集約できるんです」
その声音には、押し殺しているがそれでも滲み出る、興奮のようなものがある。
麗奈は判別できなかっただろうが、宵闇にはわかった。
彼は苦笑を浮かべて溜息とともに言う。
「やっぱりな。お前ならそこを聞いてくると思ったよ……」
さっそく頭の中で説明を組み立て始める宵闇の一方、言葉を選ぶようにアルフレッドは言った。
「あなたのこれまでの言動からして、異世界に魔力がないことは想像がつきます。つまりこれは、魔力とは別の力を利用したものでしょう。……そこまではわかりますが、僕の目にはそれがなんなのか見当もつかない」
宵闇はさもありなんと頷いた。
「まあ、そうだろうな。俺にとっての魔力が、お前にとっての電力って感じだろう」
「デンリョク……」
なんだそれは、と無言のうちに語っている青年の視線から逃れるように、男は片手で頭を押さえ、呻くように言う。
「あぁぁ……。もうホント、お前の質問に答えようとすると、数学から物理から、いろんな分野にわたって説明しなくちゃけないんだが……」
とはいえ、さすがに “電力とは? 電気とは?” からでは、本質にたどり着く前に日が暮れる。そのため、宵闇は体よく端折ることにした。
顔を上げて彼は言う。
「とりあえず、電力という、魔力みたいな力があるんだと思っといてくれ。話が進まねえから。
ついでに、その電力とか、電気とかいうそれは、魔術の術式みたいに、金属で回路を組むとその中を流れていろんな作用を現すんだ。発熱したり、光ったり、磁力を生み出したり、情報を伝達したりな」
「……」
「そして、それらの特性を利用して作られてんのがこれっていうことで」
そう言って、男は手元の電子辞書を指し示す。
あまりにも雑な説明だが、アルフレッドは妥協して頷いた。
「ここが光っているのも、そのデンリョクによるものですか」
ディスプレイを指しての言葉だった。
「ああ」
肯定した宵闇に対し、首を傾げてアルフレッドは言う。
「で?」
こちらも雑な催促だ。
軽く笑って男は言った。
「たくさんの情報をどうやってこんな小さなものに収めてんのか、だったな」
青年の問いを繰り返し、彼は言う。
「さっき挙げた通り、電気の性質はいろいろあるが、お前の質問に関係するのは、その中でも “情報を伝達する” という作用だ。あるいは、情報を記録する作用、といってもいいかな」
細かい話は脇に置きつつ、しかし、なるべく間違いがないよう、宵闇は言った。
「ただ、電気それ自体は金属のなかを好き勝手に流れていくだけで、そこに文字が書かれているとかそんな単純な話じゃない」
表情を観察し、アルフレッドの理解度を測りながら、男は言う。
「基本的に電気とは、極小の球が特定の通り道に沿って高いところから低いところへ高速で流れているだけ」
「――なら、どうやって複雑な情報を電気によって伝えるのか」
宵闇は、ニヤリと笑って楽しげに言葉を継ぐ。
「2進数を使うんだ。すべてを、0と1に置き換える。……そして、ゼロは電気が無い状態、イチは電気が有る状態で表現し、その電気の流れで情報を伝達、記録する」
再び彼が言った「2進数」という言葉。
アルフレッドはかつての記憶を呼び起こすように呟いた。
「……確か、あなたは以前、この世界もジュッシンスウなんだな、とか言ってましたよね。あの時は、9の次に10が来る数え方のことだ、とか言っていましたが……。ニシンスウとは、何か関係が?」
驚異的な記憶力と相変わらず察しの良い相棒に、宵闇は軽く笑う。
「その通り。ざっくり説明するなら、10種類の数字を使って表現するのが10進数、2種類の数字で表現するのが2進数、って感じかな」
これに、少し戸惑うような反応をしたアルフレッド。
「……0から9で10種類ですか」
間もなく理解が及んだが、その表情は複雑だ。
さすがの彼も、当然のように慣れ親しむ“数の数え方”、その根底をひっくり返すような話に混乱を感じているらしい。
ちなみに、既に中学から高校にかけてn進数を学んでいるはずの麗奈はといえば……。
こちらはなぜか、今初めて聞いたような顔をして聞き入っていた。
そんな2人の反応を眺めつつ、宵闇は頷く。
「そう。で、9から次は桁が上がり、また0から9まで変化する、その繰り返し。それが、地球においても、こっちの世界においても共通している数の数え方、すなわち10進法だ」
「……」
何やら黙り込むアルフレッド。
様々な事象に対して疑問を持ち、宵闇に“なぜなぜ期の幼児”とまで言われるような彼でさえ、9の次になぜ10がくるのか、なんて部分に疑問を持ったことはない。
だが、改めて説明されれば、そこには無限の可能性があるように思えてくる。
掴めそうで掴めない、何とも言えないもどかしさに黙り続ける青年。
だが、それに構わず、宵闇は言った。
「さて、それではここで問題です」
そうして注意を引き、彼は言う。
「――なぜ、俺たちはそんな数え方を、当たり前のようにするんだろうな?」
併せて、両手を広げて見せた宵闇。
加えて、ことさら強調するように、10本の指を順に握りこむように動かして見せる。
その動きは丁度、指を使って数を数える時のよう。
「……なるほど」
これだけで静かに答えにたどり着いたらしいアルフレッド。
対する麗奈も、間もなくハッとして言った。
「え……。あ、指の数が10本だから、ですか!?」
それぞれの特徴的な反応に、宵闇は笑みを深めて言った。
「正解。ま、いろいろ説はあるらしいが、最有力と言っていいだろうな」
補足すれば、地球においては10進法以外にも、12進法や不規則な20進法を使う地域がある。
例えば、1ダースが12を意味するのは有名だが、これはつまり12進法と同義だ。
とはいえこれも、その由来は親指以外の4本指の節の数だなどと言われており、どちらにしろ人類にとって指の数や構造が、数の数え方に大きな影響を与えたことに疑問の余地はない。
次いで宵闇は言った。
「それでは、第2問」
再度、集まる視線。
彼は言った。
「もし仮に、片手で3本、両手で6本指の高等生物がいた場合。そいつらは、果たしてどんな数の数え方をするだろうか?」
「……」
指の数が違う――。
それは、よくあるエイリアンの想像図の1つ。
だが、青年からすれば、自分たちとは違う高等生物、という概念からして想像できないモノだ。
一方、彼に比べればそういった抵抗感のない麗奈は、順当に答えにたどりつく。
「あ、6進数……」
「麗奈、正解」
宵闇は苦笑しながら言った。
「これも実証されてるわけじゃないが、おそらくは、0から5まで数えたのち、次は桁が上がって10になる。そんな数学を使ってるんだろうな、たぶん」
あるいは、6の倍数である12進法などを使っていることだろう。とはいえ、これは仮定の話。
本当のところは、人類が無事に異星人とのファーストコンタクトを果たさなければ確かめられるはずもない。
今までただの数学の1分野としか思っていなかったn進数の新しい捉え方に、麗奈は「へえ……」と感心の声を上げる。
対して、ここまで一言も発さなかったアルフレッドに向けて、宵闇は言った。
「どうだ、アル」
そんな呼びかけに、ゆっくりと翠の瞳を瞬いて彼は言った。
「……今まで見もしなかった足元を、突き崩された心地ですね」
「ハハ」と男は笑う。
「これまた独特な表現だが……。まぁ確かにそんな感じだろうな」
穏やかに宵闇が言った一方、アルフレッドは自分の手を見つめながら言った。
「おもしろい……」
それは、思わず口かから出てしまったらしい青年の呟き。
対する宵闇は、何とも言えない笑みを湛えて視線を落とす。
――そこには、堪えようにも堪えきれない、密かな感情の高まりがあった。
「……つまり、ニシンスウとは2が10になる数え方、ということですか」
やがて青年が問いを発すれば、宵闇は頷く。
「そうそう」
「では、文字は。そちらはどうやって、0と1で表すんです」
「あ、確かに」
麗奈も声を上げれば、宵闇は一転、苦し気に唸る。
「あー、えっと、それはぁ……」
とはいえ、いくら苦慮するような言動をしようと、実のところは表面上のパフォーマンスに過ぎない。
――彼は、こういった状況が楽しくて仕方がないのだ。
間もなく、思考をまとめて宵闇が言った。
「予め、設定しておくんだよ、この文字はこの数字、これはこっちってな。……正確には、16進数と2進数の組み合わせ、8ビットで1バイトの一括りで表現するんだが……」
この続きを聞きたいか……?
苦笑とともに、言外にそう尋ねる宵闇の視線。だが、これに珍しく、躊躇うような仕草をしたアルフレッド。
さすがの彼も、自分の理解が追いつくか、多少の不安はあるらしい。
「……まずはジュウロクシンスウからお願いします」
「わかったよ」
それでも果敢に尋ねてくる青年。
宵闇は嬉し気にチラリと笑ったのち、向かい側を見て言った。
「麗奈もこのまま聞いてるか? 勉強しててもいいけど」
突然の振りに、多少驚いた彼女も首を振る。
「いえ、聴いてたいです。なんでn進数を高校で習うのかってとこですよね、つまり」
「ああ、そうだな。実のところ、これ無しに現代社会は成り立たないと言ってもいい」
そう前置きした彼は、卓上にあった白紙1枚と鉛筆モドキ1つを手に取りながら言った。
「じゃあ、まずは16進数から」
そうして、宵闇は紙面に10種類の数字を書き連ねる。
「――さっきまでの説明を引用すれば、16進数は16種類の数字を使ってすべてを表現する方法だ。ひとまず0から9は既にある」
「だが、問題はこの先、10から15をどうやって1つの記号で表すかってとこなんだが……。これには、手っ取り早く文字を使う」
本来なら、人類が長い歴史の中で10種類の記号を開発した通り、また新たな記号を生み出してもいいのだが。
とはいえ、そうして時間を費やすよりも、既に存在する文字を、数字として転用すれば問題はない。
だが、ここで宵闇は一瞬、躊躇した。
「あー、もう書いちまってるけど。麗奈にわかりやすく、地球の数字と文字を使っていいか?」
青年への確認だった。
何しろ、異世界とこの世界では、使う記号に違いがある。
アルフレッドは頷いた。
「ええ、大丈夫です。数字は既に覚えていますし、文字の方も今、覚えればいいので」
「わ、すみません。ありがとうございます」
そんなやりとりを挟みつつ、宵闇は紙面に、追加で6つの文字を書き足した。
「……というわけで、0から9、AからFの16種類の記号を使って数字を表すのが16進法なんだが――、じゃあ、なんでここで16進数がでてくるのか」
卓の下で片脚を組みつつ彼は言う。
「それは、2進数だと16が10000になるから、というのが最もわかりやすい理由かな」
「??」
ピンとは来ない麗奈の一方、アルフレッドは言った。
「では、1000でも100でも10でもいい。キリが良いことが重要、と言ったところですか」
頷きが返る。
「ぶっちゃけるとそう。まあ、その中でも一番都合がいいのが16だ。で、ちなみに、2進数の1000は10進数の8、100は4、10は2な」
「あぁぁ……混乱してくる……」
呻いたのはもちろん麗奈だ。
既に高校の授業で通過しているものの、どちらかと言えば彼女の苦手な単元だ。
「まだ話はややこしいぞ」
一方、苦笑する宵闇。
手元の紙面に、改めて4つの数字を書き出した。
「今言った、8、4、2、そして1、これらをすべて足すと15、つまり16進数のFになるんだが。――この4つの各数字が有るか無いかで、16進数の0からFまで、すべての数字を表現できる」
少し内容が飛躍した説明。
だが、アルフレッドは理解する。
「……ニシンスウですか」
「そう」
「え」
戸惑う麗奈に、宵闇は紙面に何やら書き足しつつ、言った。
「8、4、2、1を表す4つの枠があると思ってくれ。そこには0か1のどちらかが入る。で、1が入ればその枠は有効、数字が足される。0だったらその枠は無効、数字を足さなくていい」
そうして示したのは、8、4、2、1の各下に空欄の四角が1つずつ並んだ図。
次いで具体例を示そうとした宵闇だが、その前に、アルフレッドが言った。
「……では例えば、1001であれば――」
そう言いながら、宵闇が手にしていた鉛筆モドキを催促して受け取り、紙面の四角に1001と順に書き入れる。
そうすれば、枠の中に1が入った数字は8と1。
「この2つを足して9」
「ああ、そういう……」
納得できたらしい麗奈の一方、宵闇はにやりと笑って肯定する。
続いてアルフレッドはそのさらに下へ書き足した。
「仮に、1111であれば。……8、4、2、1をすべて足して15、いえ、Fになる、と」
「せいかーい」
間延びしたそれは楽し気だ。
次いで宵闇は少女を見遣る。
「麗奈はどうだ? 例えば、1100だったらどうなる」
そうして紙を差し出せば、受け取った彼女は少し緊張しながらも、紙面に書き出し答えを探る。
「え、えと、8と4足して12、じゃなくて……、えっと、Cですか」
「そう、正解」
ホッと緩む麗奈の笑顔に、宵闇も微笑んでいった。
「こうやって、有りか無しかで表現できる2進数を使って、更に16進数を表現できる、というわけだ」
アルフレッドは、片手を口元に当てて言う。
「確かに、都合がいいですね」
「だろ? ついでに、8、4、2、1の枠と言ったが、その1つ1つの枠を専門的にはビットと言う。つまり、4ビットで1つの16進数を表現する」
これに首を傾げて青年は言った。
「……確か、さっきあなたは8ビットで一括り、とかなんとか言ってましたよね」
「言ったな」
端的な肯定に、青年は言った。
「つまり、ジュウロクシンスウとしては2桁」
「……あ、そっか」
麗奈の独り言も挟みつつ、頷いた宵闇は言った。
「その8ビットを一纏めとして、1バイト」
次いで彼は言う。
「――ただ、その2つは単なる2桁の数字ってわけじゃなくて、番地として使われたりもするんだ」
そう言いながら、再度彼は紙を引き寄せ、今度は大きな図形を書き出した。
「こういうふうに、0からFまで、縦横16マス、計256マスの表を考える。……そして、その各マスに、例えばそれぞれ文字を割り振っておく」
「……!」
とてもではないが短時間では書ききれないマスの数であるため、宵闇はほんの一部分だけ表を作成したのち、そのマスの中に、アルファベットやオルシニアの文字を1つずつ書き加えた。
そうして、既にアルフレッドは理解していそうな表情だったが、宵闇は言った。
「仮にこんなふうに文字を指定してたとしよう。例えば、縦3番目、横13番目のこの文字を指定するなら、3Dだ。2進数なら、0011 1101」
表の上で指を動かし、オルシニア文字の1つを示して彼は言う。
アルフレッドは頷いた。
「……なるほど。これですべての文字も、0と1で表現できる。すなわちデンキを用いて情報を伝え、記録できる、ということですか」
「ざっくり言うとそうだな」
もはやお決まりの保険をかける宵闇。
一方の麗奈は、そうなっていたのか……と感心しつつも、次いで言った。
「これ最初に考えた人、狂ってますね」
「フハッ。そこまで言うか!」
にべもない断言に、宵闇は吹き出すように笑って言った。
「まあ、実際は、たった1人の大天才が成し遂げた事ってわけじゃない。2進数的な考え方は古代の中国から存在していたし、一方で、約700年にわたる電磁気学の発展によって初めて0と1を電気で表現することができるようになった」
その積み重ねの成果がこれってことだ。
そう言って、宵闇が麗奈の電子辞書を指し示せば、対する彼女も神妙に頷いて言った。
「そっか。その歴史があってこそ、なんですね」
「そういうこと」
一仕事終えて、清々しく頷く宵闇。
一方、その隣に陣取る青年は、いつも通りに男の不用意な発言をすかさず拾って問いかけた。
「クロ、ちなみに、デンジキガクというのは――」
「おい、さすがに勘弁してくれ、本気で日が暮れちまうから……!」
……。
一体、同じやり取りを何度繰り返せば気が済むのやら。
既にこれがパターンなのだと把握した麗奈は、巻き込まれないうちに離脱しようと、無関係を装う。
「……さぁて、私は気になる古典でも読もっかな」
白々しくも独り言を呟いて、彼女は己の電子辞書を引き寄せた。
第113話「唯一無二の」