第110話「Curiosity」
「うわぁ、たぶん持ってんだろうなとは思ってたが」
日は変わって翌日。
いつもの如く、アルフレッドの執務室でのことだった。
「あ、ショウさん」
麗奈は背後からの声に振り返り、今しがた部屋に入ってきた人物の名を呼ぶ。
時刻は午前中。
ちなみに、昨日の夕から夜にかけては雲一つない快晴だったため、今朝の気温はいつにもまして低い。
野外では一面に霜が降り、身を切るような寒さは城内の廊下でさえ感じるほど。だが、対するこの部屋では既に暖炉へ薪がくべられ、赤々と燃えている。多少厚着しないと凍えてくるが、外に比べれば雲泥の差だろう。
実際、室内に唯一いた麗奈は、異世界から持ち込んだ自前の制服ではなく、この世界で一般的に着られる衣服でぬくぬくと身を固めている。
彼女が上位の侍女のような服の上に羽織っているのは、首元を狐か何かの冬毛で飾った厚手のコート。言うまでもないが、そこそこ値が張る品だ。
茶色がかった髪もいつも通りに整えられ、まっすぐに降ろされた前髪には特にこだわりが窺える。
一見して良家の子女にしか見えないが、もちろん、麗奈自身はごく普通の女子高生でしかない。最近はもっぱらこのスタイルで勉強するのが常だった。
ちなみに、この部屋で連日行われていた子供たちの勉強会は、それぞれに朝の支度を済ましたあとに集合し、三々五々にやりたいことを始めていく、といった形式。
そのため、いつもならそろそろ小さな子供たちも姿を見せるかといった頃合いなのだが……。
どうやら、昨日の遠出で体力を使い果たしたようで、まだ誰も来ていない。
――というよりも、宵闇が先程「今日は休み」と伝えてきたところだった。
そうして室内に戻ってきた彼が、一体何を目にして「うわぁ」などと言ったのかといえば……。
「マンパワー100%のなかに、工業技術の粋が鎮座してるという物凄い違和感。……電子辞書と充電器か」
そう言いながら、男は卓を挟んで麗奈の向かい側――定位置の椅子を引き、腰を下ろす。
「あはは」
一方の麗奈は力なく笑いつつ、手元の機器を男が見えるような角度に変えた。
そうすれば、気づいた彼が目を見開いて言う。
「しかもそれすっごいな。ソーラーモバイル充電器、ってところか」
確かに、麗奈が持っていたのは普通の充電器ではなかった。
手持ちサイズの四角く黒いフォルムの表面に、テラテラと光を反射する筋の並んだ紺色のパネルが付属するソレ。
宵闇の言った通り、太陽光による発電およびモバイル機器の充電が可能な優れモノ。そんな最先端機器が、見事な手仕事で磨き上げられた木製の卓の上に乗せられている。
麗奈は軽く頷いた。
「そうです。お父さんが結構アウトドア好きで、キャンプも割と行ってたんですけど、これないとスマホが電池切れちゃうので」
充電速度は遅いんですけどねぇ。
そんなことを言いつつ、麗奈は電子辞書の充電具合を確かめたらしい。画面をちらりと確認し、次いで充電器と接続していた線を抜く。
「災害の時にも役に立つからって、誕生日プレゼントにもらったんです。で、一番持ってる時間の長い通学カバンに常備してて」
そうしてそのまま、地球の最先端技術の結晶たちは、麗奈自身と共に世界を超えて持ち込まれてしまったらしい。
宵闇が苦笑して言った。
「さすがにこんなぶっ飛んだ災害は想定外だろうけどな」
麗奈も同じく苦笑して「ですね……」と頷く。
「でも、おかげでこんなところでも辞書が使えるんでありがたいです」
コードを適当に束ねつつ麗奈は言う。
一方、宵闇は首を傾げて言った。
「それって本来、スマホの充電に使うんだよな。そっちも持ってるんだろ?」
これに少女は足元を指さす。
「カバンの中にあります。でも、スマホって電波入らないとほとんど何もできないじゃないですか。画像見るくらいしか。なので、もうずっと電源つけてないです」
「まあ、そうなるだろうな」
さもありなんと男は頷く。
「で? 辞書で何調べようとしてたんだ?」
卓に肘を突き、足を組んで言った宵闇。
対する麗奈は意味もなく電子辞書を触りながら言った。
「調べるというより、暇つぶし的に何か読もうかと思ったんです。今まで全く使ってなかったんですけど、これ、文学作品?とかも入ってるんで」
「へえ。ただ単語引くだけじゃないのか」
ちなみに、彼は圧倒的に紙辞書派だった。彼が口にしてる通り、麗奈が持っているものほど汎用的で比較的安価な電子辞書が学生時代に無かったのも一因ではあるが、彼自身が紙を触る実感に拘っていたのも大きい。
だが、宵闇が思っていたよりも電子辞書は変化した。関心を示す男に、麗奈はコンパクトな端末を操作しながら苦笑する。
「……多機能すぎて使いこなせてないんですけどね……。作品数も多いので、一体どこから読んでいこうかって感じですし……」
そうして目的のページを開けたのか、麗奈は画面を宵闇へ向けた。
「こんな感じなんですけど、ショウさんだったらどれ読みますか?」
彼女が示したのは、文学作品を列挙したページだった。話の流れからして、その辞書に収録されている作品名リストということでいいのだろう。
許可をもらい端末を手元に引き寄せ、彼は言う。
「すげぇなこれ。ホント収録数が半端ない……。そうだなぁ。麗奈にあえて薦めるなら……」
考えつつ、ページを下へ進めつつ――。
とはいえ、男は問われた瞬間からある程度決めていたらしい。迷いの少ない動作で目的の項目を検索しだす。
やがてそれは見つかった。
「――お、あった。やっぱ入ってるよな」
そう言って、宵闇は画面を麗奈へ向ける。
「例えば、この人の作品とかかな」
そこに映されていたのは、作品名ではなく作家名。
再度手元に戻ってきた端末を覗き込み、麗奈は言う。
「あ、知ってる人ですけど……。確か、詩か何か書いてましたよね。反戦の」
宵闇は小さく笑って言った。
「ああ、『君死にたまうことなかれ』かな。とはいえ、あれを反戦の詩と表現するのは――まぁ、いいや。細かい話だから。とにかく、時代背景も感じられるし、何より語感が良いから、俺が好きな詩の1つだな」
そう言った宵闇に、麗奈は弾かれるように顔を上げる。
「え、違うんですか。細かいとこ聞きたいです」
意外にも続きを聞きたがられ、男は苦笑する。
「俺の知ってる限りでは、だが」
そんな常套句を口にしつつ、宵闇は言った。
「彼女は別に反戦主義者ってわけじゃないんだ。あの詩は日露戦争の時に発表されたんだが、第一次や第二次世界大戦中には逆に戦争賛美の詩も書いてるからな」
それを聞いた麗奈は、限られた知識を引っ張り出す。
「……でも、さっき言った詩は、確か戦争に行った弟に向けた内容でしたよね。死なないでくれっていう感じの」
この確認に、男は肯定を返す。
「そうだな。めっちゃざっくりとまとめれば、“家族のためを思うなら死ぬんじゃない。親も死ねと教えてないし、慈悲深い天皇だってそんなことは望まない。悲しむ妻や母のために、絶対に生きて帰ってこい”――って内容かな」
「へえ」
初めて聞いたような顔で麗奈が相槌を打てば、宵闇は小首を傾げて言った。
「で、これだけ聞くと反戦の詩に思えるけど、さっき言った通り、その後の戦争では逆に、“今こそ戦うべき時だ。しっかり役目を果たして頑張ってこい”みたいな内容の詩を別の弟に向けて書いてたりする」
「え!」
予想に違わず驚きを示した麗奈に、男は微笑して言った。
「つまり、彼女という詩人は、その時に言いたいこと、やりたいことを如何にキャッチ―に表現するか。それをただ追究してたんじゃないかな、と思うな、個人的には」
私見を述べつつ言葉を継ぐ。
「――言いたい気持ちだったんだろう、日露戦争中は生きて帰ってこい、太平洋戦争中はお国のために頑張れ、ってな。……わりと、当時の人間の生の声を感じられて、俺は嫌いじゃない」
「そうなんですね……」
なんとも言えない表情で呟く麗奈に、宵闇はニヤリと笑って言った。
「実際、彼女はかなり奔放な性格だったらしい。好きなものは好き、やりたいことはやりたい、と嘘偽りなく表現して、実行する。ちなみに、彼女はいわゆる略奪愛で旦那と結婚してるし、女は学がない方が可愛げがある、とか平気で言われてた時代に数学が得意だったそうだし。いろいろと規格外で、情熱的だったんだろうな」
そんな補足に、麗奈は引き攣り気味の表情で言う。
「うわぁ……。え、略奪愛、って、つまりもう結婚してるのに、相手の人を別れさせて、ってことですよね……」
彼女らしい着眼点に、宵闇は微笑する。
「そうなるな。そこらへんは詳しく知らないけど」
「そんな人の詩を、なんでショウさんは私に……?」
彼女的にはアウトな要素だったらしい。
年齢相応の潔癖な語調も感じさせつつ、しかし、そこはかとない好奇心も滲ませながら麗奈が訊けば、男は遂に笑って言った。
「おいおい、今、麗奈の頭の中、略奪愛しかないだろ」
悪びれもせずに彼は言葉を継ぐ。
「別に俺もその行為を肯定する気はないが、彼女がどれだけ情熱的だったかを示す、わかりやすいエピソードってだけだ。……まあ、とにかく、少しでも気になるなら『乱れ髪』も見てみると良い」
「……。あ、あった。詩集なんですね」
収録リストを確認した麗奈が言う。
頷きながら宵闇は言った。
「ちょっと当時の文化をわかってないと微妙だが、結構きわどい表現もあったりする。……少なくとも、俺はそっちの解説を女子高生相手にしたくない」
苦笑した宵闇が言えば、麗奈も笑う。
「あはは。わかりました、辞書の解説を見ます」
さすがの彼でも、『隣にこんなにその気の私がいるのに、なんであなたは大真面目に学説云々と話していられるのかしら、寂しくないの?』、なんて内容の詩を紹介するのは無理だった。
念のため補足すれば、“I love you” を “月が綺麗ですね” と婉曲すぎるほどの表現で訳したのとほぼ同時代と言っていい。そのため、仮に上記の訳が全年齢とすれば、彼女の詩は間違いなくR18指定だろう。
そんな時代の話だ。
しかも書いたのは女性。
作中の“あなた”は疑う余地もなく、彼女が略奪したという既婚者だろう。
女子の高等教育も制度化されていない頃のこと。
女がこれほどあけすけな表現をすることに、当時はどれほどの批判が浴びせられたのか。
逆に言えば、彼女がどれほどの覚悟でこれらの詩を公に発表したのか。
歴史的背景も踏まえれば、より鮮やかに想像が膨らんでいく。
一方、そんな詳細は知らぬまま、麗奈は首を傾げて話題を変える。
「ちなみにショウさん、次々に作品名とか内容とかでてきますけど、全文暗記とかしてる系ですか……?」
そんな問いに、男は笑う。
「んなわけねぇよ。俺は、大体で覚えておくのが得意なんだ。浅く、広く、全体的に」
両手をひろげてジェスチャーした彼に、麗奈は面白がって言う。
「でも、浅くってレベルでもないような……」
宵闇はわざとらしい渋面で言った。
「その道のプロからしたらほんの表層だぜ? わりと適当なことを言ってるしな。……まあ、単なる世間話で使うには知識が細かすぎるってことは自覚してるが」
そうして苦笑する彼に対し、麗奈は触れていた電子辞書から手を離し、卓の上で腕を組む。
「そもそも、ショウさんって理系ですよね」
なんとなくそうだと思っていたことを今更確認する少女。
もちろん宵闇は頷いた。
「だな。高校では理系選択。大学以降は理工学部」
「バリバリの理系だ……。なのに歴史とか文学もいけるとか、凄いですね」
羨望の眼差しを向ける彼女に、宵闇は満更でもなさそうな笑顔で目を閉じる。
「そんなに褒めても何もでないぞ? ……それに――」
一転、両目を開いた彼は、様々なものを見て来た大人の表情で苦笑した。
「前にも言ったが、理系に進んだからって国語や社会、英語が全く不要になる、なんてのは大きな間違いだ。逆もまたしかり」
「……」
はたと気づいたような顔をする麗奈に、男は言う。
「理系だ、文系だ、とカテゴライズすること自体は物事を整理するのに有効だし、将来を定める1つの指標にはなるだろう。だが、実際の世界に、ニンゲンが勝手に決めた境界線なんて存在しないんだよ」
「……」
言葉の意味を考えているらしい彼女に対し、視線を逸らして男は笑う。
「何かを解決しようとすれば、平気な顔して物事は境界線を飛び越えてくるし、そのための知識には際限がない」
「というか、純粋に面白い」
軽く笑って彼は言う。
「――新しい知識を得ることは面白いし楽しい。だから俺は、いわゆる理系ではあったけど、色んなことを調べたし、知ってる。それだけだ」
「……」
理解に努め真面目な顔で見つめてくる麗奈に、宵闇は微笑して言った。
「とはいえ、こんなこと言ってる俺は、単に人間と向かい合ってるより本読んでる方が楽しいタイプだったってのも大きいんだがな」
多少おどけた言い方と表情。
麗奈はゆっくりと言った。
「……過去形なんですか?」
この問いに、無意識に視線を逸らし、卓上を見ながら彼は言った。
「ああ。歳喰ったらちょっと変わってな。……それに俺は1度死んでるし。その後、もう飽きるほど独りだったし。さすがに人恋しくなったというか」
「あ、えっと……」
カラカラに乾いた語調だったが、何気なくぶち込まれた重すぎる内容。
麗奈も困惑して返答に迷う一方、宵闇は軽く笑い視線を上げて言った。
「すまんすまん。変なこと言った。あー、とにかく。俺のオススメはそこらへんだ」
麗奈もほっとしたように笑って言う。
「……ありがとうございます。色々調べながら読んでみます」
「ああ。他にも聞いてくれたら紹介するから――」
頷きながらそう言った宵闇。
だが。
――ガチャリ。
そのタイミングで、この部屋の外へとつながる扉が音を立てた。
まあ、なんのことはない、誰かが入ってくることを示しているだけなのだが、事前の名乗りもないところを見るに、その誰かの正体は明白だ。
「あ、やっべ」
扉が開くまでのわずかな時間でそれを察した宵闇は、次いで、瞬時にとある予想に辿り着き、鬼気迫る表情で指示を出す。
「麗奈、ソレを今すぐ隠して――」
「へ?」
だが、もちろん彼女がすぐに動けるはずもなく。
間もなく扉を開き、姿を見せたその人物――アルフレッドの視界に、ばっちりとソレの姿が晒されることになる。
「「「……」」」
慌てた表情の宵闇に、困惑を浮かべて背後を振り返っている麗奈。
その姿のまま固まっている両者の間、卓上には、小さくも目立つ異質な物体が鎮座している。
手作業では決して作り出せないプラスチックの滑らかな表面。
二つ折りの本体を開けば、上面に見えるのは異質かつカラフルに光る液晶画面。その下には細かにデザインされたキーボード。
ちなみに言えば、幸いなことに(?)既に用済みだった充電器は麗奈のカバンの中にある。
だが、期待に違わず目ざとくソレ――電子辞書を見つけたアルフレッドは、その場で無言のまま宵闇へと視線をやった。
「「……」」
冷や汗でも流してそうな男に対し、言わなくてもわかるだろうと、アルフレッドは追加でゆっくりと首を傾げる。
しかもその表情は珍しいことに、ほんのわずかだが微笑でさえある。
そうして扉を後ろ手に閉めつつ、2人の方へ歩みを進めてくる彼に、宵闇は目まぐるしく言葉を探しながら押し出すように言った。
「いや、待て。これの説明は勘弁してくれっ。さすがの俺でも全部は説明しきれない――」
「全部でなくてもいいので教えてください」
今度こそ明確な笑みを形作りながら彼は言った。
「……っ」
元来、笑顔の起源は威嚇だとか言われているが、まさしくそれを体現した、造作が整っているだけに恐怖しか湧かない完璧な微笑みだった。
そこからなるべく視線を逸らしつつ、数秒粘ったものの結論は決まっているようなその無言の応酬に対し――。
宵闇は、やがて妥協点としてやけくそで言った。
「ああ! もうわかったよ。二進数から説明してやるよ!」
え、なぜそこから? ――と、麗奈は内心思ったが、賢い彼女は決してそれを口に出しはしなかった。
第110話「Curiosity」
あ!今話で50万文字超えた!(≧▽≦)