第104話「得手 / 不得手」
「そもそも! なんで三角形の話なのに単位円とか言って、円の話になるんですか??」
「あー、そこ疑問に思っちゃう……?」
憤慨するような麗奈の問いに、宵闇は楽しそうに笑って言った。
「――それは、三角関数が元は天文学から発展した学問だから、かな」
午後も数時間が経過し、子供たちの勉強会もいい加減ダレてきたところ。
3時の休憩よろしく、ローランドが差し入れた菓子をつまみながらの会話だった。
ちなみに、セリンは昼寝のため母親に回収されて既にいない。
残るアランとイサナは同性で気安いのか、仲良くおしゃべり中。ちょっとした対抗心も見せつつ、互いの勉強成果を共有しあっているらしい。
そんな子供2人とは反対側の卓の端、麗奈の向かいにいる男は、ゆったりと足を組み替えながら彼女の疑問に応えて言った。
「まず、三角関数の基礎と言えば三角比だよな」
否定が返るはずもなく、頷いた麗奈を見て宵闇は言う。
「この三角比ってのは、元々地上から見上げた星がどの位置にあるのか、それを測量するために生まれた学問なんだ。だから、角度いくらに対して座標がいくつか、なんて話になる」
そして傍らを見やり、問いかけた。
「ちなみに、このレベルだったらもうこっちにもあるんじゃないか? どうだアル」
問われた青年は、休憩も菓子も、ついでに仕事もそっちのけ、眺めていた数学の参考書から、すいと目線を上げて言った。
「そうですね。測量術としてなら既に基礎的な知見はあります」
端的に答え、再度視線を落とした青年に、宵闇は一旦話題を中断し、恐る恐るといった態で言う。
「……ついでに訊くと、お前はソレ、どこまでわかってんの?」
もちろん、彼が手にもつ参考書の中身が、という意味だ。
対するアルフレッドはペラ、と軽い音を立ててページをめくりつつ、今度は視線も上げずに言った。
「あいにく、あなた方が使うニホンゴはだいたいしか読めていませんが、アラビア数字や各種記号は僕の知るものと対応させて覚えたので、あとは数式を追っていればそれとなく。
測量術と共通しているのは見てわかりますし、このような方向性もあるのかと、純粋に面白いと思っています」
そんな答えに、宵闇は口端を引きつらせて言った。
「うわー、こんな俺でも改めて引くわ」
「ですね……」
麗奈もまた同じだった。もう何度目かもわからない、ドン引きした口調で同意する。
しかし2人の反応もなんのその。
アルフレッドは順調に次のページに目を移す。かなり没頭しているらしい。
「まあ、話を戻すが」
場を仕切り直しつつ、宵闇は言った。
「そもそもが天文学、天球上で考えられてた話だから、三角関数には円がでるってわけだな。原点に自分が立っているとして、星を見上げた角度からその位置を計算、記録するための学問。……ほら、見かけ上は円だろ?」
望遠鏡でも使っているジェスチャーなのか、宵闇は両手を筒状にして上下させ、四分円を描いてみせる。
「この時できる三角形だけを取り出して、建築とかにも応用できるようにしたのが三角比、と言えるかな」
「そっか、そういうことなんですね……」
ふむふむと頷いた麗奈に、微笑む宵闇。
「素直に受け止めてもらえたようで何より」
「あ」
だが、麗奈は再び疑問を覚えて問いかけた。
「じゃあ、なんで三角“関数”にする必要があるんですか?」
「あー」
「その流れだと、角度と座標が計算できれば問題ないですよね。等式とか不等式とか、あとは最小値、最大値とか、必要ないと思いますけど……」
これに、宵闇は苦笑を浮かべて腕を組む。
「それはなぁ、歴代の数学者の好奇心が、爆発しちまった結果、というか」
「へ?」
視線を逸らされながらの答えに、麗奈は訳もわからず困惑する。
気を取り直して男は言った。
「麗奈、ちょっとペンと紙を貸してくれ」
「あ、はい」
心なしか身を乗り出した宵闇。それへ麗奈が手持ちの2つを大人しく差し出せば、次いで彼はフリーハンドで1つの円を紙面に描き、さらにはその中心で垂直に交差する十字の線を書き足した。
先ほどから話題の、いわゆる単位円だ。
「……よっと。少し歪んだがこんなもんだな」
その慣れた手際に、見ていた麗奈は思わず言った。
「どうでもいいですけど、ショウさん、円を描くのうまいですね。ほぼまん丸じゃないですか。軸もまっすぐですし」
男は一瞬動きを止め、麗奈へ視線をやって言う。
「そりゃそうだ。それこそ、三角関数を解くのに学生時代は散々描いたからな。ちなみに現役の時はもっと正確に描けた。綺麗に描けた方が問題も解きやすいんだよ」
「は、はぁ」
麗奈は当然、そんな境地に達したことはない。理解できない世界にここでも若干引く。
「で、単位円ってのはこうだろ?」
男は知ってか知らずか気にした素振りもなく、自分で描いた図形を指し示し、次いでその4分の3を片手で隠しながら言った。
「――ただ、今さっき話した測量のためなら、この0°から90°の範囲で事足りるよな」
「そうですね」
頷いた麗奈に宵闇は言う。
「実際、三角比が生まれて間もない当時、地球の数学者たちはここだけで満足してたんだ。何せ、調べることもこの範囲だけでいっぱいあったし。
この限られた中で、1つ1つ新しい数式や法則を見つけだしては大喜びしてたわけだ」
親近感を感じさせるその表現に、麗奈は思わず「ふふ」と笑いを漏らしてしまう。
対する男も楽し気に言った。
「ところが、ついには調べつくしちゃったんだな。この狭い部分でわかることは」
「あ、あー」
察したような麗奈の声音に、宵闇は苦笑とともに片手をどける。
そうして完全になった円の境界をなぞりつつ、男は言った。
「なら、気になっちゃうだろ。90°より先の世界がさ。ついでに言うと、当時はゼロの概念が発見され、さらには負の数も計算に使われるようになってたらしい。……気になっちゃうだろ、逆回転したらどうなるのかって」
「気になっちゃったんですね……」
「そう。いろいろ割愛してるが、まぁ経緯はそんなもんだ。専門的には三角比の拡張、とか言うんだが」
宵闇の言葉に、麗奈は首を傾げて言った。
「その言葉なら、なんか聞いたことある気が……」
「だろうな」と男は軽く頷く。
「そうして単位円を使い、関数として自由に表現できるように三角比を拡張していったのが三角関数ってわけだ。で、関数と名が付くならば自動的に方程式になるし、グラフも描ければ最大・最小の話にもなる」
そうして麗奈へ視線をやって問いかけた。
「これで答えになったか」
「はい、ひとまず」
とはいえ、この知識で三角関数が簡単になるわけもなし。特にどうということもない。
だが、何事も必要だと思えれば努力のし甲斐もあるというもの。時にこういう方面での納得が勉強のモチベーションにつながることもある。
話の区切りに麗奈が卓上の菓子に手を伸ばした一方、一息ついた宵闇は不意に傍らへ視線を向けて言った。
「そういやアル、こっちの数学にはもうゼロの概念ってあるよな」
問われた青年は、何を当然のことを、とでも言いたげな視線をチラリと向ける。
実際、宵闇はこの世界のゼロにあたる記号を既に知っていた。しかも必然か偶然か、形はアラビア数字の「0」とほとんど変わらない。
しかし、地球における“ゼロの発見”は5世紀のインドでだと言われている。つまり、数学という学問自体が紀元前2500年ごろから研究されていたにもかかわらず、およそ3000年にわたってゼロという数字は地球上に存在していなかったことになる。
それだけ、「何もないこと」を記号として存在させることは、当時の人々にとって違和感しかなったのだろう。
にもかかわらず、こちらの世界にはゼロが既に有る。
そもそも、アラビア数字自体が汎用性の高い人類屈指の発明品なのだが、これに対応可能な数字の表記方法がもうこの世界にあることも、地球の歴史を鑑みれば異様なこと。
宵闇がそういった話を掻い摘んで説明すれば、やはりアルフレッドの関心を惹いたらしい。
彼は手元の参考書を半ば閉じながら、姿勢を正して言った。
「僕の知る限り、ゼロの概念に異論は唱えられていません。当たり前に学びます」
そんな答えに、宵闇は問いを重ねる。
「ちなみに、負の数はあるのか」
青年は頷いた。
「ええ。ゼロより一般的ではないでしょうが、商人や役人が収支を計算するときに使います」
宵闇はいつもの如く天を仰ぎ、ぼやくように言った。
「うーわー。まあ、各種技術が発展してる時点で察していたが、この世界じゃ大航海時代も、飛び道具による正確な射撃も、地球よりよっぽど速く現実になるんだろうな」
つまり、国同士の大規模な交流とそれによる避けては通れない覇権争い、戦争、そして、その激化を危惧する言葉だった。
なにせ悲しいことに数学の発展は戦争技術の発展と言っても過言ではない。
両者は常に両輪だ。
例えば、三角比を始めとする測量技術は航海術の発達や正確な地図の作製を可能にし、他方では建築学にも役に立つ。
また、ゼロや負の数を含んだ複雑な数式が解けるのなら、例えば放物線を描く弾道計算が可能になる。投石等の飛び道具によって街の城壁を効率的に破壊できることだろう。
その他、ありとあらゆる技術の発展に数学は関係しており、既にゼロまで発見されているならば、地球で言えば中世初頭――いわゆる暗黒時代といわれる混乱の時代、その始めに相当する。
実際、オルシニアは隣国との緊張をそこはかとなく高めており、イルドア山脈によって物理的な障害があるとはいえ、ひたひたと不穏な気配は感じるところ。
まだ予兆とはいえ、世界は違えど繰り返される人類史に「はあ、やれやれ」と男は倦厭の溜息を吐いた。
「……まあ、いいや。俺の知ったことじゃない」
1人、ばっさりと切って捨てた宵闇に、隣のアルフレッドは一瞬視線を向けたものの。
特に何も言わず、口では別の事を問いかけた。
「クロ、これなんですが」
手元の書籍を開きながらの呼びかけに、男は意外そうに瞬きしながら体勢を変える。組んでいた足を解き、アルフレッドへ向き直った。
麗奈も興味を惹かれて見つめるなか、青年は言った。
「このあたりの問い、全く別の分野が混ざっていますが、なぜこんなことを?
個人としては面白いと思いますが、純粋な真理の探究としては、邪道と言ってもいいのでは」
「うわぁ」
独特な指摘に、宵闇は苦笑すればいいのか感心すればいいのか、その中間のような微妙な表情で言葉を迷う。
「それ、単純に問題を難しくしたいだけじゃないんですか?」
一方、麗奈から漏れたのは何気ないコメント。
それを曖昧な仕草で否定しつつ、宵闇は言った。
「まあ、麗奈のそれも一般的ではあるんだが。元はと言えばちょっと違う」
そうして2人の関心を買いつつ、男は言う。
「数学者というのは、得てして別々の分野を統合しようとするんだ。三角比を拡張して関数を加え、三角関数として確立したりな。そういう、異分野を統合する数式があると信じて疑わない、ある種、数字という神を崇める敬虔な宗教家、みたいな一面がある」
「えーと、数学に不可能はない的な考えってことですか?」
「そうそう」
麗奈の要約に、宵闇は頷く。
「例えば、図形を扱う分野を幾何学、文字を使って数式を計算するのを代数学というが、これを初めて統合したのはフェルマーという17世紀初めの人と言われている。あと有名なのは、指数関数と三角関数を等式でつないだ18世紀のオイラーかな。2人とも数学史上の大天才と崇め奉られるような扱いだ。まあ、その他いろいろ、異分野を統合しながら発展したのが数学でな」
「その功績をなぞるような問い、ということですか」
引き継ぐようなアルフレッドの表現に、宵闇は首を斜めに振りつつ押し出すように言った。
「……まあ、そうとも言える。実際は、出題者がニヤニヤしてるだけだけど」
「そして生徒は難問に苦しむわけですね。わかります」
現役生のげんなりとした言い方には、当然この上ない実感があった。
宵闇も苦笑する。
「特に、麗奈がそのうち学ぶ数Ⅲでは、いろんな分野が普通に混ざり合うぞ。微分積分に三角関数が入ったり、極限に確率が入ったり」
その言葉に、麗奈は女の子としてはアウトなレベルで顔をしかめた。
「私、確率だけならそこそこ解けるんですけど、他分野が入った瞬間だめです。ましてや三角関数も混ざるんですか」
そのまま苦悶の表情を浮かべる麗奈に、宵闇は「あーあ」とでも言いたげだ。
「だから今のうちに克服しておいた方がいいぞ――というか」
そして一転、首を傾げて彼は言う。
「麗奈って確率できんのか。ちなみに俺は大の苦手」
「え! ショウさん、苦手なんてあるんですか!」
眼を見開いて驚く麗奈に、男は苦笑して言った。
「そりゃあるだろ。俺は数Aが割と苦手で、特に確率が壊滅的だった。入試では端から捨ててたな」
「意外です」
端的な感想に、片腕に顎を乗せた宵闇はうんざりとして言った。
「だってあれ、少しでも数え間違えるか計算ミスるとドミノ倒しみたいに外れるじゃねえか。いまいち確率の考え方も腑に落ちなかったし」
「特に排出率という概念な、何度泣かされたことか」そんなボソリとしたつぶやきは、あいにく誰にも伝わらない。
「そうですか? それこそ公式、というかパターンにハメればだいたい解けるんですけど……」
おずおずとした麗奈の言い分に、今度は宵闇が顔を歪めて言った。
「うへぇ。俺には無理。蕁麻疹が出る」
「そんなにですか!」
完璧と思えた宵闇にも思わぬ苦手があった。
その事実に、麗奈は彼女自身でも気づかぬうちに肩の力が抜けたらしい。
舌を出し、オーバーな反応をする宵闇に、妙に軽やかな表情でくすくすと少女は笑っていた。
第104話「得手 / 不得手」