第102話「迫害の教訓」
子供たちの学びが順調に進む中。
不意にコンコン、と扉がたたかれる音がした。
――ローランドです。
「入ってください」
扉越しのくぐもった声に応えたのはアルフレッド。
慣れたやり取りののち、間もなく扉が開かれる。
そこに立っていたのは彼の使用人の1人であるローランド。ピシりと着こなした執事服が似合う、壮年の男だ。
すっと伸びた背筋は、長年人に仕える仕事についていたことを示すように余裕があり、ゆったりとした仕草は堂に入っている。一礼したのち、部屋を横切りアルフレッドに歩み寄っていく際にもほとんど足音がしない。
どこからどう見ても完璧な執事然とした男だが、しかし一点。右眼を眼帯で覆っているのが瑕疵と言えばそうだろう。今は1つしかない紫の瞳がそろっていれば、昔はさぞ女性を魅了したはずだ。
そんな彼は子供たちもいる卓に近づき、言った。
「お食事の用意ができましたので伺いました。ご移動されますか?」
問いかけた相手はもちろんアルフレッド。
「そうですね。……今日もあちらで食べます」
その返答に、ローランドはニコリと微笑んで言った。
「承知しました。では、皆様もどうぞ」
後半の言葉は周囲の人間たちに向けたもの。
それに頷いて応えつつ、宵闇は特に幼少組へ向けて言った。
「よぉし、昼ご飯だ。移動するぞ」
「はい」「うん!」「わかりました」
順にアラン、セリン、イサナの返事だ。
近くにいた麗奈も椅子を引いて立ち上がりつつ、ニコリと笑う。元気な返事を可愛いと思ったのだろう。
やがてローランドとアルフレッドがまず動き出し、次いで麗奈とイサナが扉の方へと向かった。
だが、残るアランやセリンは、あいにく足が床についていない。そもそも、セリンが座っているのは4歳児用のハイチェア (安全ベルト付き、宵闇監修、ハクの手製)だ。
アランなどはなんとか自分で降りたいようだが、身長的にもう少し、といったところ。足を精一杯延ばしてもギリギリつま先が掠るかどうか。座面を滑り落ちたら事なので、宵闇は素早く両脇を支えておろしてやる。
一方、セリンの方は足をプラプラとさせながら、にこにこと上機嫌に宵闇へ両腕を伸ばしていた。大人の援助があって当たり前、という、ある意味傲慢な態度。
だが、何の疑いもないまっさらな彼女の仕草はひたすらに微笑ましいだけだ。
もちろん自分でなんとかしようと頑張るアランもだ。
セリンの無言の要求に応え、宵闇は慣れた動作で彼女を抱え上げてやる。
そのままがっしりとしがみついてくるセリンの様子に「今日は歩きたくないんだな」と、宵闇は苦笑とともに彼女の身体をゆすり上げた。
そうして下の子たちを世話してやり、麗奈が開けてくれていた扉から男は廊下へと出た。
向かうのは、臨時でアルフレッドたちの食堂になっている部屋――調理場近くの一室だ。
ちなみに。
城内では様々な人間たちが働いているが、その生活区域は身分によって厳密に分けられている。
つまり、寝室や居室はもちろん、使用する水場、果ては移動に使う廊下にまで、いわゆるランクがあるのだが、それはこれから向かう食堂も同じ。
また、城内には雑事を行う下働きや下級侍女、貴人の世話なども行う上級侍女に、城に詰めている一般兵士や上官である将校たちがおり、そして、それらの最上位にいるのが城の主であるルドヴィグだ。
そしてもう1人、彼と同じものを使用できるのが何を隠そうアルフレッドであり、すなわち本来なら彼もルドヴィグと同じ食堂で食べるべきなのだが……。
当然というかなんと言うか。
アルフレッドは特別な用件でもない限り、そこで食べることは滅多にない。
何しろ、だだっ広い豪奢な一室で、無駄に長いこれまた豪奢な食卓で、毒見の重ねられた冷えた料理を、ましてやルドヴィグと同じ空間で食べたいと、彼は微塵も思わなかった。
そもそも、アルフレッドにとって食事はすでに必須なモノではなくなっている。
中途半端に空腹の感覚は残っているから――、あるいは、ヒトとして不自然に思われないために――、そんな理由で仕方なく取り込んでいるに過ぎない。
時にはルドヴィグから振られている仕事にかまけ、疑われない程度に食事を抜いたりもしていたのだが……。
実はここ最近。
アルフレッドは、使用人たちが使う区画に用意された食堂で、皆と同じ卓を囲み、一緒に食べることの方が多かったりする。
なにせそこには、彼のことを知っている皆が集まる。
子供たちはもとより、親であるシリンやローランドにベス、青藍に真緋、月白、そして宵闇。
気兼ねない他人と空間を共有することにようやく慣れてきたのか――。
とにかくも、アルフレッドのちょっとした変化だった。
そんな食堂へ向かう道すがら。
先頭を歩くローランドとアルフレッド、それに続く麗奈たちの後方で、セリンを右腕に抱えた男が子供たちへ言った。
「今日はアランもセリンも朝から頑張ったなぁ。――セリン、文字を書くのは楽しいか?」
「うん、たのしい!」
幼女からの元気いっぱいな答えに、アランが対抗心でも燃やしたのか言った。
「セリンはぐちゃぐちゃに書いてるだけ」
「んーん! ちゃんとかけてるもん!」
拙い兄妹喧嘩に宵闇は笑う。
「ハハ、そうだよなぁ。セリンは“ハク”の綴りがお気に入りだろ?」
「そう! いっぱいかいた!」
母親譲りの淡い碧眼で弧を描き、幼女は満面の笑みを見せる。
「あいつのこと好きだなぁ。それにだんだん上手になってきたんじゃないか」
「うん!」
「その調子だ」
機嫌が良すぎて腕の中でもバタバタと足を動かすセリンを咄嗟に両腕で支えつつ、宵闇は視線を下げて言う。
「……で、アランはこの時間でいくつ言葉を覚えられた?」
「……20こ」
なぜかきまり悪そうな少年の返答に、苦笑しながら宵闇は言った。
「おお、すごい! じゃあ、午後になったらテスト――確認するか。……それとも、もう少し練習するか?」
「ううん。かくにんしたい、です。ショウさん、お願いします」
こちらも母親ゆずりの茶髪を生真面目に振り、アランが言った。そうして宵闇を見上げてくるのはくりくりとした榛色――いわゆるhazel eyesと言われる2つの瞳。
「わかった。問題つくってやる」
意欲的なその申し出に、宵闇はもちろん快諾だった。
ちなみに、アランがやっているのは単語の書き取り練習だ。とある書物を持ってきて、比較的易しい単語を抜き出し、宵闇に意味を教えてもらいながらそのスペルを間違えないよう繰り返し書く。
なかなか根気がいる作業だが、アランは新しい言葉を覚えるたびに段々本の内容が分かっていくのが面白いらしい。今のところかなり真面目で優秀な生徒だ。
そして、そのアランと競うように励んでいるのが――。
「……イサナはどうだ?」
「!」
声をかけられて驚いたらしい、パッと振り向いた金茶の髪に淡い緑の瞳の少年は、視線をうろつかせ、おずおずと言った。
「――いただいた課題は、もう少しで終わりそうなんですけど……」
宵闇は笑って頷く。
「だな。……掛け算は、難しいか?」
一見飛躍した問いに、しかしイサナは素直に頷いて言った。
「はい。ククがまだ覚えきれてなくて」
もどかしそうに表情を歪める少年へ、男は言った。
「充分、じゅうぶん。2桁が混じった問題までやれてるじゃねえか」
「でも、3つに1つくらい間違ってます」
男の励ましにも、返ってくるのは悄然とした答え。
言葉の通り、イサナが取り組んでいるのは掛け算の演習だ。
元々、読み書きは生活に困らないレベルで身に着けていた彼が、特に学びたいといったのは算術――地球で言う、算数だった。
ちなみにこの世界、というかこの時代では、商人や財務に関わる役人、将校級の武人でもなければ高度な算術は必要ない。精々、一桁同士の足し算、引き算ができれば困らないだろう。
だが、イサナが欲したのはそれ以上だった。
詳しいところを聞いていない宵闇だが、イサナなりに将来を色々考えているのだろう、と勝手に想像していたりする。
何しろ、彼が覚えようとしている「九九」は、世が世なら覚えているだけで価値があり、役人に取り立てられるキッカケになるようなシロモノだ。オルシニア王国においても、理解している人間は上流階級に限られるだろう。
イサナ自身もその有用性はわかっているらしく、かなり意欲的に取り組んでいた。
とはいえ、足し算、引き算に続いて、掛け算に突入した彼は、現在壁にぶつかっているらしい。
くじけかけている少年に、しかし、彼よりも余程多くの壁にぶつかり、挫折を経験している男は軽く言った。
「あ、そういえば、イサナはだいたい、7か9が出ると間違えるみたいだぞ」
「!」
本人は全く気付いていなかったらしい。目から鱗、といった表情を浮かべるイサナに、宵闇は言った。
「思ってもなかったって顔だな」
そうして笑った男は、左右に並ぶ少年たちを軽く見回して言った。
「いいか、イサナ、アランも。――何かを間違った時は、なぜ間違ったのかを必ず考えるといい。原因がわかったら次に対策。例えばイサナの場合なら、7や9が入った問題は特に慎重に解いて、ついでに見直す、とかな」
見上げてくる少年たちに、男は笑いかける。
「苦手や間違いは誰にでもある。要はそれを明確化して、どう減らしていくかだ」
「わかりました」
無事、モチベーションが上がったらしいイサナと、無言で頷いたアラン。そんな彼らの様子を見ながら、男は空気を切り替えるようにニコリと笑んで腕の中のセリンに言った。
「さてと。じゃあ、まずは腹ごしらえだ。セリンは何が食べたい?」
彼らが話している間に目的の食堂は目と鼻の先になっていた。
男の問いに、幼女はニパッと笑う。
「うーんとぉ――」
セリンは自身の鼻をうごめかせ、好物のいくつかを無邪気に挙げる。
一方の少年たちは、匂いから今日の献立は何かと探っているらしい。銘々に表情をゆるめ、ああだ、こうだと言い始める。
先頭のアルフレッドたちは既に室内に入っており、宵闇らが歩く廊下に姿はない。子供たちの歩幅に合わせゆっくりと移動していた結果だ。
そうして間もなく、彼らも食堂の前に辿り着いたのだが……。
その扉の前にいたのは1人の侍女。
ロングスカートの黒い制服に身を包み、肩口まで編みこんだ髪はプラチナブロンド、その瞳は深い蒼。
レイナだ。
女装姿とでも言えばいいのか、淑やかに立つその様子は至って自然であり、目立つところが全くない。その整った容姿でさえ、適度に乱雑な髪と化粧で見事に誤魔化されている。追加で、ニコリともしない愛想のなさ。
意識しなければ見逃してしまいそうなほど気配が薄かった。
そんな彼女は、近づいてきた宵闇たちをチラリと見遣ったかと思えば、タイミングを合わせて扉を開ける。
グッと強くなる美味しそうな食べ物の匂い。
もう待ちきれないとばかりに室内へ駆け入っていく少年たちに、宵闇の腕から下ろされ負けじとついていくセリン。
そんな子供たちを送り出し、男はしゃがんだ姿勢から一息ついて立ち上がった。
「ご苦労なことだな」
そこにかけられるのは、ボソリとしたレイナの言葉。
対する宵闇は怪訝な顔をして言った。
「……子供らの事か?」
「他に何がある」
ぶっきらぼうに返ったそれに、宵闇は肩を竦めて言った。
「別に俺にとっては苦労でもなんでもなくてな」
「……」
レイナは信じられないモノを見る目で男を見る。
そんな表情に宵闇は苦笑で返して言った。
「人に何かを教えるってのは、案外楽しいんだ。“理解できた瞬間”ってやつを間近で見れるからな」
どうせ伝わらないだろうと端から諦めている軽い調子。
一方のレイナは短く息を吐きだし、視線を明後日の方に向けて言った。
「――知識をどれほどつけようが、役に立つことなんかいくらもないだろうに」
そう言った彼女の表情に温度はなく、内心を窺うのは至難の業だ。
対する宵闇は、前世でもよく聞いたような言葉に、既に浮かべていた苦笑へ、苦みを追加し唸るように言った。
「うーん。……まあ、その言葉はある一面では正しいんだがな」
意外そうな視線を向けたレイナに、ニッと笑って宵闇は言う。
「――ちなみに、俺が知るとある民族は、長い迫害の歴史の中、こう言い伝えてきたそうだ」
「知識は、決して奪われることのない唯一無二の財産だ、ってな」
第102話「迫害の教訓」