バドス・ルーデの後悔と罪
本作は長岡更紗様主催の「アンハピエンの恋企画」参加作品です。
勇者クロリスの冒険譚のスピンオフ作品でもあります。
https://ncode.syosetu.com/n2845dp/
本編を読まなくても分かる内容にしています。
身を切るような風が頬をなぶっていく。むせび泣きのような音を出す魔国の冷たい風は、己のみならず目の前の人物をも切り裂かんと容赦がない。
「バドス。私が私でなくなったら。私を殺す役目を貴方に託していいかしら」
長い黒髪が躍る。赤い瞳が私にひたと向けられていた。
魔王城の一室。バルコニーに背を預け、悪戯っぽく微笑みかけてくる女性。
二人の子を産んだとは思えないほど若々しい肢体。美しい、魔族の王妃。弟の妃、サラ。
「はっ」
彼女の赤い瞳から、黒く染まった指先に視線を移し、私は息を鼻から抜いた。
ずるい女だ。貴女の頼みを、断れるわけがない。それを分かっていて、託していいかと聞く。
「貴女のままである限りは生き抜くと約束してもらえるか」
否。ずるいのは私自身か。我ながら残酷な約束を強いるのだから。
「約束するわ。だからバドス。貴方も約束して。私が私でなくなった時、貴方が私を殺してくれると」
赤い瞳が嬉しそうに細くなった。
ふわりと光が灯るような、柔らかい笑顔に喉奥がつまる。
そんな顔でそんな頼みなどしてくれるな。
もっと生きてくれ。
それらの言葉をぐっと抑えつけ、私は唇を固く結んだ。
弟は王妃を溺愛している上に、甘い性格だ。あいつにサラは殺せない。サラを殺す役割は、私が引き受けねばならない。
「分かった。必ず、私が貴女を殺す」
奥歯を噛み締め、低く唸るように答えた。
私のこの声は、顔色が悪く目つきの悪い私の容姿とあいまって周囲の者を震え上がらせる。内容も内容だというのに、サラは意にも介さずころころと笑った。
「ありがとう。やっぱり貴方は優しいわ」
そんなことを言うのは貴女ぐらいなものだ。
彼女の顔を見ていられなくなり、視線を横に逸らした私は、胸に広がる苦さを追い払おうと大きく舌打ちをした。
****
「人間に全面降伏する」
少しやつれた弟、カティスの一言が、王の執務室に染み込んだ。
「そうか」
弟の決断に、私の返答は短く静かなものだった。
「反対しないのか」
「他に道があるのなら反対する」
遅かれ早かれ、全面降伏を決断することは予想していた。カティスとサラにはもう、時間がない。特にカティスには。
机の上に組んだカティスの両手は黒い。衣服で隠れて見えないが、腹も背中もまだらに黒く染まっている。
闇化病。
近年、魔族に猛威を振るっている病だ。
体の一部が黒く変色し、次第に広がっていく。初期は変色だが、進行すると理性が失われる。病の進行と共に黒く染まり、生き物を殺したい衝動を抑えられなくなる。
「俺の黒い変色は、体の半分を超えた。自分が何をしていたのか分からない時間が増えてきた。俺はいつか……いつ、誰を殺してしまうか分からない」
遠からずカティスは生き物を殺すだけのモンスターとなる。
光魔法の治療がなければ――。
「和平という名の全面降伏。これで人魔戦争が終わればいいが」
カティスの黒い両拳にぐぐっと血管が浮いた。もし本来の色が見えるのなら、こもった力によってきっと白くなっていただろう。
魔族は光魔法の適性が皆無に近い。闇化病の治癒・根絶には人間の協力が不可欠だ。
しかし人間は、おそらく降伏を蹴る。やつらには戦争を終わらせる気などさらさらない。それは魔族への憎しみでも人間の矜持でもなく、権力を握り世界を牛耳る僅かな富裕層どもの利益のためだ。
それが分かっていても、魔族には砂粒ほどもない小さな可能性にかける道しかなかった。
降伏が受けいれられれば、人間に支配され、虐げられても生き残る未来が残る。だがそれは、ほんの僅かな希望でしかない。
今回、人間側は降伏を受け入れるような旨の書状を寄越しているが、待っているのは裏切りだろう。
つまり弟は、死ににいくのだ。小さな希望にすがるために。自分自身でなくなってしまう前に。自分を慕う同族や……私に、自分を殺させないために。
カティスが握った黒い両拳に、まだ元の色を保つ額を押し付けた。
「バドス。魔族を。サラを。カイとサイを頼む」
カティスが王位に就くと決まった時。私も決めたのだ。何があってもカティスを支える。カティスが出来ないことを私が引き受けると。
だから。
「任せておけ」
私の答えは短かった。
それから数日後、カティスは人間の元へ赴き、死んだ。
****
誰よりも強く、明るく快活で太陽のような弟。自慢の弟だ。同時に敬愛する王でもある。
心優しくて美しいサラ。同じ魔族の隣国の王女で、幼い頃から弟の婚約者だった。
似合いの二人だった。心から、祝福した。
私が最も愛する者同士が婚姻を結び、子供をもうけた。
二人の幸せこそが私の幸せで、二人のためならばこの命だって惜しくない。
闇の神デュロスよ。
なのに、なぜ闇化病に罹ったのが私ではなくあの二人なのだ。
なぜ代わりに私の命を持っていってくれなかった。
なぜ、なぜ。
私はこうなるまで彼女を殺せなかった!!
目の前の光景と共に、己の後悔と罪が押し寄せてきた。
後悔しても、後悔しきれない。
覚悟していたはずの弟の死は、私に思った以上の打撃を与えていたのか。
愛する者を失いたくないという、私の傲慢な臆病さが判断を鈍らせた。
日に日に少なくなった、サラと子供たちの面会。病の進行具合からして最後になるかもしれないと、三人だけにしていたのが失敗だった。
「うわああああぁん! やめて、母様ぁぁあ」
幼いサイの甲高い声が空気を引き裂く。蹴破る勢いで開いた扉の先にいたのは、泣き叫ぶサイと床に倒されたカイ。そのカイに馬乗りになって首を締めているサラだった。
「正気に戻れ!! サラ!! カイを殺す気か!」
サイが小さな手で、必死に母の手を引っ張っている。瞳まで黒く染めたサラは、私の制止や自分の息子の懇願にも全く表情を変えることなく、無造作に片手を払った。
「きゃうっ」
子犬のような声を上げて、サイが壁に叩きつけられる。サラは片手を戻すと、再度カイの首を締め始めた。
「やめろ!!」
私はサラに体当たりした。細い首から黒い手が離れ、ゲホゲホと咳き込む。
肌も髪も、唇も瞳も。白目さえも黒い。表情もないサラは真っ黒な彫像が動いているようだった。サラの形をした漆黒のモンスターが、手の中から殺すべき生き物がいなくなってしまったため、ふらりと立ち上がる。
カティスが死んでからサラの闇化病は進行速度を速めた。
『貴女のままである限りは生き抜くと約束してもらえるか』
『約束するわ。だからバドス。貴方も約束して。私が私でなくなった時、貴方が私を殺してくれると』
約束通り、彼女は生き抜いた。自ら命を絶つことなく、正気の間はそれまでと変わりなく子供たちを慈しんだ。
弟は。サラを愛しているあいつには殺せない。そもそもあいつの方が、サラよりも先に理性を失うだろう。
だから『彼女が彼女でなくなった時』を見定め、殺すのは私の役目だ。
そう、覚悟していたというのに。
ギリ。
私は懐の短剣を抜きながら、唇を噛みしめた。
なにが、あいつにサラは殺せない、だ! 私こそが殺せなかったではないか。
あれこれ理由をつけて、まだ大丈夫だと、まだ彼女は彼女のままだと、言い聞かせて、その結果がこれだ。
我が子を殺そうとする。
そんな、サラに一番したくなかったことをさせて。
大好きな母親が、自分を殺そうとする。そんな記憶を子供たちに刻ませて。
最悪だ。最低だ。泣く資格すらない。
ごうごうと血潮が唸る。己への怒りで視界が歪んだ。
「バドス」
漆黒に浸食されてモンスターと化していた、サラ。彼女が両手を広げて微笑んでいた。
私は無言で短剣の刃を横に構えると、床を蹴った。渾身の力で彼女の体にぶつかる。刃先が肉に埋まる、鈍くて生々しい感触。溢れてくる血。
――ほら。やっぱり貴方は優しい――。
耳元で囁かれた彼女の最期の言葉が、私の後悔と罪を深め、縛った。