壱
僕の通う小学校の5年1組は「異端の子供」が集められたクラスだった。
名前だけ聞けばかっこいいし、なんだか頭も良さそうな雰囲気もあるけれど、それはつまり世間一般でいう「問題児」が集められたクラスだ。
担任の先生に選ばれた北沢先生はとても優しくて、生徒思いのいい先生だと教員、保護者の間ではそこそこ良い評判で、信頼も厚かった。
でも僕は分かっていた。あの先生は周りの信頼の為なら悪党にでもなる、人殺しも厭わない人間、少なくとも僕の目にはそう映った。そんな面の皮が厚い先生が心底嫌いだった。
そんなクラスに配属されて、はや3ヶ月。夏の暑さが顔を見せ始めたある日、僕は給食を食べ終わって昼休みになったから、職員室にいる北沢先生のところへ遅れた宿題を提出しに行った。
職員室前の廊下で一呼吸おいてから、ドアの取っ手に手を掛ける。ドア窓には昼休みに入ったのに忙しなく室内を歩き回って、午後の授業の準備をする先生達の姿が切り取られて見えた。そんな中の様子を観察しながら、先生達が落ち着いた頃合いを見計らって、ドアを開け、一歩。
入り口で失礼しますと一言言うなり、一斉に職員室の中にいた先生達が僕に視線を向けてくる。「北沢先生に用事あって来ました。失礼します」大きな声で言った。ここまで入念に準備をして、そんな空気に包まれたから、僕は少しだけ良い気になってしまった。いや、準備をしたという傲慢さが仇になったのか。
肝心の相手が僕に気づいていなかったことを知らず、僕はすたすたと北沢先生の机のそばまで行って遅れた宿題について謝ろうとした瞬間、「職員室に入るときは挨拶をしなさい」と怒られてしまった。
そんな理不尽な僕を見て、職員室にいた先生の1人が「挨拶はしていましたよ」と一言。
しかしそんなことは彼にとって関係ないのだ。僕は5分ほど挨拶の重要性について説き伏せられる羽目になった。そんな説教を聞きながら俯いて反省する僕の視界に入ったのは、先生の机の上に置かれた1枚の書類。そこには見覚えのある顔写真が貼られていた。先生の説教をよそに頭の中で、転校生の3文字が頭の中をぐらぐら回っては視界を掠めていく。
気がつけば先生の説教もある程度済んでいた。反省の色を出しながら職員室を出るとき、僕に助け舟を出してくれた先生が、「今度はもっと大きな声で言いましょうね」と掌を返してきたことに、少しだけ悲しくなった。
だから今度は大きな声で「用事が済んだので帰ります。失礼しました」と言ったら、今度は声が煩いと怒られた。
本当に理不尽な日だ。でも1週間のうちにはそんな日もあるのだ。そう思いたくても、やるせなさでいっぱいだった。
そんな、二進も三進も行かなくなってしまった僕を救ってくれたのは昼休みだ。でもそんな校昼休みは残り時間が30分程に縮まってしまっていた。
でも僕は運が良かった。いつもなら先生の説教があれば昼休みのタイムリミットは20分となる。けれども今日は水曜日で昼休みが全体で45分間と延長される曜日で、少しだけ長く遊べるのだ。
そうして僕は友達と校庭で鬼ごっこをした。そんな中、先生に怒られたことを英雄伝のように友達に伝えた。そんな叱責を食らった僕にみんな同情してくれたことが嬉しかった。唯一の理解者だった。今度はどんな英雄伝を伝えてやろうか考えて、有意義な時間を過ごしたあとの午後の理科の授業は、へとへとに疲れて寝て過ごした。
そんな1日の帰りのクラスルーム。みんながランドセルを机の上に並べて、早く先生が教室に来ないかとせかせかとして待っているとき、クラスの岸宮という男子が、何やら隣の席の女子と話していたのが耳に入った。それは僕が昼休み、職員室で見つけた「転校生」についてだった。と気が付けばクラスメイトの全員が僕だけが知り得ていたはずの情報を口々に話しているじゃないか。いったい何処からそんな情報をアイツは得たのか、僕にとっては不思議でならなかった。アイツも職員室で、例によって書類を見たのか。いや、クラスメイトが口々に話しているっていうことは、もしかしたら前々からそんな話を吹聴する輩がいて、そのことを僕が今まで一切知らなかったんじゃないか。僕だけが知らない情報を、僕以外のみんなが以前から知っている風な装いだ。それで、先生と彼らだけが知る情報を今から言うから、先生から発せられる「その一言」が待ち遠しくて、みんなペチャクチャ喋ってしまっているんじゃないか。
そんなことを思案しながら先生を待っていると、ざわついた空気は教室の前側のドアが開く音で凍ったように静かになった。北沢先生が職員室から戻ってきたのだ。「よぉし、みんな煩いぞ。静かにしろ」勿論、クラスがこんな言葉で静かになるはずもなく、先生の怒号が教室に響き渡った。「静かにしねぇとクラスルーム始められないんだっていつも言ってるだろ」
きつめの口調で、先生の口からそんな具合で叱責を受けると、ようやくクラスの熱気は収まって、みんなはいそいそと教室の窓側の角にある、先生の机の方を向くのだった。夕日に照らされて、銀色に鈍く光るその机がこの時だけはいつもより恐ろしく見えた。いよいよ、帰りのクラスルームが始まった。
先生は一息ついてから、落ち着いた口調で喋り始めた。
「よし、まず大事な話をするからな」その一言でまたクラスメイトの何人かはざわついた。その中には当然、岸宮の姿もあった。ほら静かにと、また先生は軽く騒いだ生徒に注意して、一呼吸置いてから話し始めた。「知っている人もいると思うけれど、来週の月曜日に転校生が来ます」その言葉でまたクラスが一斉に波打ち始める。これには先生も叱責はせずに、ゆらゆらと波立つ空気に身体を預けているようだった。そうして、また静かにと言い、話し始めた。「転校生は宮城県から来ます。明後日の金曜日の6時間目、学級活動でみんなに紹介して、レクリエーションするので、楽しみにしてて下さい」クラスが軽くざわつき、響めき、ワクワクした空気に満たされていく。教室の窓から差し込まれる西日が、僕のランドセルの金具を煌めかせた。「よし、じゃぁみんな帰ろう」先生の鶴の一声で、席を立って日直の挨拶に皆声を揃えてさようなら。そうして、帰りのホームルームは終わった。
皆がランドセルを背負って、ウキウキと廊下に出て行く。今から部活の時間なのだ。でも僕はたらたらと廊下を出て、玄関へ向かった。僕はそういうのには属していない。だから、家に帰るしかなかった。
廊下を出ると隣のクラスの女子達の話し声が聞こえた。今から文房具屋に行くらしい。他愛ない会話を聞き流しながら、そのまま帰ることにした。
玄関へ向かって、自分の下駄箱の前に行って、外靴に履き替えて、中靴を下駄箱に入れた。
踵を折って履いているから内側は擦り切れてぼろぼろになっていた。何となく虚しさがこみ上げてきて、僕は学校を後にした。