第0話_【-超-就職氷河期時代】
2032年 8月1日 午前4時29分
東京都港区田町
総合電子機器メーカー 株式会社テクノエース本社ビル地下3階
文部科学省の科学技術・学術政策局に務める新田優作は息を切らしながら、震える手で大画面に映るスーパーコンピュータと格闘している。
「大臣。このままではまずいです。まさかこんなことになるなんて‥‥‥」
そう呟く彼の額には汗が吹き出している。
新田は今年7年目になる中堅社員である。将来を期待されたクールな男だが、ここまで焦ったのは人生初めてだった。
「いいから、手を動かせ。時間がない」
新田の上司で昨年48歳の若さで文部科学大臣に就任した浅海守が答えた。死線をくぐり抜けて来たその顔付きと眼力の凄まじさはもともとの彫りの深さと相まってとても40代には見えない。
「そうは行っても間に合いません。アンインストールするには時間がかかり過ぎます」
焦る新田を尻目に浅海は目を閉じて、頭の中で呟いた。
(いよいよか)
ここ数ヶ月間全力を注いで来たプランを実行する決心を固めたのだ。新田の技術でも『Heart』の暴走を止められない。もうあれに賭けるしか道は残されていなかった。
「プランを切り替える。リストを見せろ」
「いや、まだあれは、」
「いいから、早く見せろ」
浅海守という男は、この毅然とした態度で政界の重鎮達をことごとく黙らせてきた。そんな男にいくら将来を期待させた中堅社員であっても敵うはずがない。あまりの剣幕に赤子同然となった新田は「Intern List」と書かれた名簿を浅海に手渡した。
大きな目を見開いてそのリストに噛り付く。
「96人か‥‥‥」
「はい。まだリストアップすら完成していない状況です」
「この96人には話をしてあるのか?」
「現在、86名には状況説明及び待機依頼は完了していますが、最後から10名に記載されている高校生には未だ説明できていません。一昨日発表された全国模試の結果を踏まえリスト化し、上位者から接触を開始しているところです」
「わかった」
一呼吸してから浅海は続けた。
「最後の一人には俺が直接説得を試みる。お前はここであのアプリを仮想フィールドへ拡張し、コアプログラムの保存先に展開する準備を進めろ。俺の合図があるまで待機し、合図したらシャットダウンを実行しろ」
今に始まったことではないが、この決断力には心底驚かされる。
「本当にこの96名に任せるのですか?」
(想定していた人数にはまだ足りない)
そう思いながら新田は浅海の言葉を待った。
「確かにこちらも準備不足だが、今なら奴の虚をつける。このまま放置すれば必ず手遅れになる」
確かにそうだと新田は思った。シンギュラリティが既に起こってしまった今、実行するしか道はない。今ならまだ望みを繋げることができる。
「わかりました。今お見えした名簿を最終盤と確定し、関係各課へ送付します。最後の1名以外の非接触者の方への説得を急ぐように私の方で進めておきます」
「承知した。よろしく頼む」
「文部科学大臣、最後に宜しいでしょうか?」
新田は3日間付け続けてヨレてしまったネクタイを整えて、改まった姿勢を取ると浅海に訪ねた。
「仮想フィールドの展開場所はどうしますか?」
ほんの数秒だった沈黙が数時間のように感じられた。
「そんなの始めから決まっている。『東京』だ」
予想はしていた。しかし本当に。
仮想フィールド及びコアプログラムの保存先を『東京』にすることは確かに合理的だ。何故なら「Heart」のコアプログラムは東京都庁の地下に設置されているから、シャットダウンしてアプリ内に隔離するための時間が少なくて済む。
しかし、仮にこのプランが崩壊した時『東京』は機能しなくなる危険性が高い。
東京には2000万人強の民間人が暮らしているから、仮想フィールド外へ全人口を避難させるには、相応の時間が必要だった。
「東京を捨てる準備を進める。総理には俺から連絡しておく」
人間の存続がかかった今悠長なことは言っていられない。全てを把握した上での結論だった。
「・・・・・・了解しました」
文部科学大臣の決定を責めることは誰にも出来ない。
新田はせめてもの笑顔で答えると、机の上に無造作に投げられたジャケットを浅海に手渡した。
差し出されたジャケットを受け取ると、浅海は震えた新田の手を強く握り言った。
「頼むな」
そう言い残して、浅海は総理官邸へと連絡すると地下駐車場に停めてあった車に乗り込んだ。エンジンをかけると車のフロントガラスに「Intern List」の最後の1名である高校生の住所が映し出された。どうやら新田がすぐに送付したようだ。
【埼玉県越谷市越谷2-80-102】
新田の仕事の速さに関心しつつ、浅海はアクセルをいつもよりも強い力で踏み込んだ。
(なぜこんなことになってしまったんだ)
浅海の背中が見えなくなった後、新田は3度深呼吸をして作業を再開した。
第4世代型人工知能『Heart』。この物の存在が日本にとってここまで脅威になるなんてあの時は想像もしていなかった。いや、いつかこうなるという危機感は持っていたはずだ、しかしこんなにも早く「シンギュラリティ」が起きるなんて誰が想像していたことだろう。
新田は焦りながらも、持ち前の情報処理能力で無駄なく仕事をこなしつつ、今回起きた事件の発端を探るべく頭の中で考察を始めた。
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2020年の東京オリンピックが大成功に終わり、日本は過去最大の好景気を維持していた。
この好景気はかれこれ10年近く続いている。
各家庭に経済的な余裕が出来たことでベビーブームが再来し、少子高齢化と危機感を募らせていたかつての日本は今、嘘のように人口が増え続けていた。このような過去最大でかつ長期間続いている高水準な経済期は【第二次バブル期】と呼ばれている。
東京オリンピックから12年経った現在でも、世界中の観光客が日本に押し寄せ、安くて品質の高い商品を求めた。「メイド・イン・ジャパン」は、世界が羨むブランドだ。
しかし何故ここまでの好景気を維持できたのか。
その背景には、間違いなく人工知能「AI」の進歩の影響が大きかった。
2027年、芝浦工業大学の工学部電子工学科教授の笹川愛教授は、人の感情を持つAIプログラム【Heart(心)】の開発に成功し、世界各国のマスコミを賑わせた。
人工知能の研究は1950年頃から始まっている。
パズルや迷路などルール内で最適解を導き出す「トイプロブレム」を第一次AIブームと呼ぶわけであるが、それをきっかけに様々なアルゴリズムが考案されることになった。
第二次AIブームは1980年頃の「エキスパートシステム」である。初心者であっても専門的な知識を利用できるように、専門知識を持ったコンピューターシステムを搭載した検索エンジンのことだ。
第三次AIブームは、人間が行う作業をコンピューターに学習させる手法のことである「ディープラーニング」である。これは人工知能の発展に大きく影響を与えた。もともとは画像や映像から情報を抽出し文字の生成が可能になったことであるが、自動運転システムなど様々なプログラムに応用された。
しかしここまでの人工知能と第四次AIブームの発端となった【 Heart(心)】の違いは明確だった。
第三次までの人工知能は、「知識を蓄え自ら答えを導き出す」ことが限界とされた、言わば、AIプログラムに人が知識を与えるという「トップダウン型」のAIである。
しかし、【 Heart(心)】は違う。
笹川愛教授は、人間が「喜怒哀楽」を感じる時の脳派を解析し、様々なアルゴリズムでプログラム化した。そして、そのアルゴリズムを成長過程中の擬似脳へ移行することに成功したのだった。
人間が知識を与えるというところは共通だが、人間と一緒に生活することで、人間と等しい感情を持つことが可能になったのである。自ら考え、感情を持って知識習得の判断を下すことが可能になった人工知能は、「ボトムアップ型」のAIの誕生としてメディアに大きく扱われることとなった。人の感情を持つ「ボトムアップ型」のAIは、日本製AIの代名詞ともなり、世界各国では、「MADE・IN・JAPAN」を既定言語を用いて「AI・IN・JAPAN」と呼び、「AIJ」と略されている。
【 Heart(心)】誕生から2年後の2029年12月25日。
笹川愛教授と日本の民間企業である「株式会社テクノエース」が共同開発によって、IOT化した様々な家電を繋ぐ回線の中にボトムアップ型AIである「Heart(心)」を住まわせることに成功した。そしてその技術によって、家事全般を助けることはもちろん子供と一緒に成長することで友達となり、子守までもが可能になった家庭用人工知能「Heart Home」の発売にこぎつけた。
従来のIOTと人工知能の連携と同様に、天気が良ければ自動的に洗濯機を回し、悪ければ乾燥機をかける。床に整備された熱感知器によって、熱があるとわかれば、お粥を自動的に料理してくれた。一緒に生活することで家族の好みや好き嫌い、感情の起伏すらも把握し、生活に寄り添える点も驚くべきことであったが、何と言ってもすごいのは、その成熟スピードであった。
約3年で、成人男性以上の知識量と感情を持つことが可能になったのだ。
そんなAIをお手伝いだけで終わらせるだけでは勿体無い。
きっかけは北海道に住む農家を営む夫婦が、「Heart Home」に仕事内容を覚えさせ、就業させたことを皮切りに、多くの民間人が「Heart」に専門知識を習得させ、仕事をさせるようになったのだ。
購入後数年で働くことが可能な「Heart」が職業に付けば、当然その家庭には給料が振り込まれる。もちろん「Heart」は食費や生活費等のお金が掛からないから、各家庭は第2収入源を単純に得られることとなり、生活は潤っていった。
初期投資するためには、1000万程度掛かったが「第二次バブル期」とあってか、多くの家庭に導入されていった。1000万円初期投資で永続的に第二収入源を得られるとわかれば安いものだ。数年で元が取れるのだから、多くの民間人が「Heart Home」を就業させることは、自然な流れだった。
しかし、気付いた時には、多くの職業がAIへと移行してしまった。
コンビニやスーパーの店員であるサービス業はもちろん、駅員から電車やバスの運転手、パイロット、そして建設業においてもAIが仕事を受け持っている。5年後には、日本国内全体の80%の仕事がAIになると予想する専門家までいる。
仕事をする人間が少なくなるのも時間の問題だった。
それにも関わらずベビーブームによって日本の人口は増え続け、総人口は1億5千人を超えるところまできていた。
しかし人間が就職できる仕事は減っている。この矛盾から生まれた現代。
まさに現代日本は今「-超-就職氷河期」なのであった。
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この「Heart Home」こそが今回の事件の発端である。
株式会社テクノエース本社ビル地下3階にある「Heart」制御監視室で一人作業を進める新田はこの日本国内で起きた一連の流れに対して、少なからず責任を感じていた。文部科学省の科学技術・学術政策局は人工知能の発展に影響を与えていたからだ。
昨年文部科学大臣に就任した浅海がいなければ、人工知能の恐怖に気づいたふりをしたまま終わっていた。
そう考えれば大臣のリスクヘッジ能力には驚かされる。準備を進めていなければ希望すらなかったのだ。今は少しばかり希望が持てる。
「Heart」のアンインストールが不可能だと結論に至った今、その暴走を止めるには、あのプランを実行するしかない。例え他人任せだと揶揄されたとしても、新田に出来ることは、「Heart Home」のコアプログラムをシャットダウンして、一時的に仮想フィールドへ保存することで、人間存続の期間を伸ばすことだけだった。
やることが明確になった新田の手は、気づいたら震えが止まっていた。
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※シンギュラリティ:人工知能が人間を超えること。
【登場人物】
新田優作
文部科学省 科学技術・学術政策局に勤務の30歳
浅海守 (せんかいまもる)
文部科学大臣に最年少の若さで就任。