小さな世界を繋ぎ合わせた先に
少年は部屋の中、窓の近くに立っていた。窓は閉めきられてはいるが、鍵は掛かっていない。
近くに椅子はあるが、座る気配はない。
ただただ、窓の前に立ち尽くし、その手を縁に当て、半分閉められたカーテンから覗く鬱陶しいくらい青々とした大空を見上げた。
少年の暮らす家は田舎の端の方。けして、寂れているわけではないが賑わっているわけでもない。大きな商店街は近くにないが、公園と田舎特有の広い土地を利用して作られた小学校がそこそこの距離に有るため、別に静まり返っているわけでもなかった。
しかし日中の、それも平日のこの時間。此処等は少しばかり静かになる。
もうすぐおやつの時間と言うのにも関わらず、子供たちが机に紙とペンを広げ、部屋に一人しかいない大人の書く文字を必死で理解しようとしているからだ。勿論、そうでいないものも居るだろう。諦めて寝ている人も居るかもしれない。余裕だと紙に模写するだけの者も居るかもしれない。
だが、部屋に一人しかいない大人相手に、子供が何人も居るのだ。当然のように置いていかれる者も、いる。手を上げて、大人の話を遮って、疑問を話せるものは少ないだろう。静な部屋に流れる空気を感じ取り、優れた人の邪魔になることを遠慮して、声もあげられない人もいる。
お前以外は解っているのにお前は解らないのかと、言われるかもしれない。思われるかもしれない。【できない子】のレッテルを張られるのが嫌で、手があげられなかった。
被害妄想。そうかもしれない、でも、少しでも事実に成りそうなら避けてしまいたいのが人の心だと思うのだ。
少年は大人も、子供も、自分以外は誰もいない筈の静かな部屋で静かに、静かに、音お殺すようにため息を吐いた。
田舎特有の広い大空は綺麗な色をしているのに、胸の中は濁っていた。心なしか部屋の空気も悪い気がする。
換気をしよう。
少年は部屋の澱んだ空気から逃げ出すように窓を開けた。外の風は昨日とは違う、まだ冷たくはない午後の風。
少年は昨日の空気の方が好きだったが、窓を閉めて先程までの部屋の空気になるよりは幾分も此方の方が好ましかったので、窓は開けたまま、近くの椅子を引き寄せて座る。そしてそのまま窓の縁に肘をたて、瞳を閉じた。
家の周りは今だ静かだ。
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午後四時も過ぎ、英国の鐘と同じ音色が近くの小学校から響いて暫くのこと。
昨日と同じように開け放たれた窓の外から、昨日と同じ色が、昨日よりも近い所で視界にはいる。
「ぼく、聞いてきたよ! 」
小さな雄の黒猫は昨日と同じように元気に言った。きっと昨日の言葉通り、【からす】とやらに聞いてきてくれたようだった。ただの口約束なのに律儀なものだと少年は思った。
「あのね、からすは別にいいんだっていってたよ。誰かに合わせることで安心する人も居るんだって」
小さな雄の黒猫はつづける
「人に涙を見せるのが矜持を傷付けるなら、一人で泣いてもいいんだってからすは言ってたよ」
少年はその答えにため息を吐きそうになった。まるで宥めるために作られた言葉だと思った。答えになってないし、からすとやらに何を聞いたのかすらわからないと思った。
しかし、実際に少年がため息を吐くより早く、小さな雄の黒猫はでもね、と言葉を繋げる。
「これは、正解じゃないんだって」
「正解じゃないけど、間違ってないから自分はそう思ってるんだって」
からすはそう言ってたよ。
小さな雄の黒猫は少年の瞳を見つめながらそう言った。少年はよくわからなかった。では正解はなんなのだろうと思った。自分の聞いた質問ではなくなっていたけれど、少年は興味が沸いたのだ。だから小さな雄の黒猫に聞いた。
「だから、ぼくは小さいからよくわからないんだよー」
小さな雄の黒猫の言葉に少年は今度こそため息を吐いた。でも、それは今日最初にした静かに音を殺すような重いものではなく、とても軽い物だった。
「だからね、ぼくよくわからないから、明日犬に聞いてみるよ!」
そう言うと、小さな雄の黒猫は笑った。今度はそのまま去ってはいかず、少年の返事を待っているようだった。
少年はどうすればいいのかわからなくなった。何を言えばいいのか、何が正解かわからなかった。ただただ、期待するように見つめてくる瞳に、何度か口を開いたり閉じたりを繰り返したあと、小さく息を吸って、頼むと一言吐き出した。
小さな雄の黒猫は、それに更なる笑顔を浮かべ、またあの約束を口にして去っていった。
部屋に橙の光が射し込むこの時間、外の風は昼間とは異なり少しずつ冷たくなっていく。
しかし、少年はその風が不快ではなかった。
冷たい風が頬を撫でても、その日の少年の胸の中は暖かいままだった。
ぼんやりとした頭であの曖昧な口約束を思い浮かべ、ぽそりと口先でそれをこぼす。
もうじき夜になる。窓は閉めなければいけない。冷たい風に当たりすぎては体に悪いし、防犯の意味でも閉めるべきだろう。
けれど、少年は閉める気分には成らなかった。あと少しだけ、そう頭の片隅で思い、一日の終わりを告げる陽射しが見えなくなるまで、少年は穏やかなときを肌で感じた。