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現実的短編集

天使が落ちてきた日

作者: 水波 洋

 天野桐枝(あまの きりえ)は天使のような少女だった。


 新年度最初の登校日、春の風と一緒に彼女はやって来た。足を踏み下ろす度に鈴の音でも聞こえてきそうなふわふわ歩きで教室に入ってきて、担任教師の横でこちらへ振り向く。

 たぶんその瞬間に、クラスの全員が転校生の背中に羽を見た。

 落ち着かない様子の担任に促されて黒板に書き出す名前の文字さえ、不思議とキラキラ光って見えた。心なしかチョークの音もご機嫌だ。

 黒板にその御名(みな)をしっかりと刻み込んで、ゆっくりと始めた自己紹介の声は、まさしく天使の歌声。父親の仕事の都合で転校してきたという少女は、一瞬の間にその場の全員の心を奪ってしまったのだった。


 天野桐枝の髪は、夜を飲み込んだような深い黒だった。

 蛍光灯の無機質な光を光背のように従えて、頭のてっぺんには見事な光輪を冠していた。歩みに合わせて揺れるたび、風に吹かれてそよぐたび、誰もが目を奪われる。髪を褒められると、頬を染めてはにかむように笑うので、皆こぞって褒めた。


 天野桐枝の肌は、夜から漏れた陽のような温かな白だった。

 長いまつ毛と薄桃色の小さな唇を際立たせるような、それでいて血色の悪さとは無縁の白。春の麗らかな日差しを浴びて輝くような肌艶。口を動かすたびに形を変える柔らかそうな頬。


 天野桐枝の体は、少し心配になるほど小柄だった。

 手足は彫刻のように研ぎ澄まされて、細いながらも健康的な肉付きを保っている。濃紺のブレザーとスカートの裾からしなやかに伸びた四肢は、決していやらしさを感じさせず、男子諸君はおろか女子諸賢もその御手(みて)御御足(おみあし)に陶酔した。


 体のあらゆるパーツがそれぞれ一つの芸術品のように洗練されていて、なおかつ、無理やり一つにまとめたようなバランスの悪さを感じさせない。全てが神がかり的に噛み合っている。

 懸命に言葉を並び立てたところで、その魅力の何割を表現できるものか知れない。


 転校初日から学校中の注目を集めていた天野桐枝だったが、授業が本格的に始まると、有象無象の青春の集積場はいよいよ彼女の独壇場となっていった。


 座学は極めて優秀であり、教師に指された難問にいとも容易く解答する彼女の声は、神聖なる啓示となって教室内を包み込んだ。

 体育の授業においては、彼女は特別秀でた存在ではなかった。元々が小柄で線が細いため、身体能力に関しては人並み程度であった。特筆すべきはその動きの優雅さで、その所作一つ一つに周囲が魅了されているうちに、人並み以上の成果を残すのである。


 天野桐枝は、驚くほど汗をかかなかった。

 夏も近づいてくると体育の授業では誰もが額から汗を垂らしていたが、彼女は息を切らせることはあれど、汗は滲むことすらなかった。

 汗をかかないというのは健康問題に直結する現象だ。しかしながら、その現象が天野桐枝の身体に起こったこととあれば、それが彼女の人間離れした特徴の一つとして処理されることは想像に難くないだろう。


 天野桐枝は、いつも大きな傘を持ち歩いていた。

 彼女の小さい体には随分不釣り合いで、ふわふわした歩きに合わせて海月のように揺れるのがまたなんとも愛らしい。肩から担いだ鞄につけている羊のキーホルダーが、いつも傘の裾からひょっこりと覗いている。そうして、牧羊を導く羊飼いのごとく人々の前をふわふわと歩くのである。


 天野桐枝は、博愛にして唯一雨を嫌った。

 屋外で不意の雨に降られた時、羽織っていた制服のブレザーを頭から被って一目散に屋内へ逃げ出した。

 昇降口の軒下へ駆け込み、空を睨んだ。彼女が明確な敵意を持ってなにかに相対する姿は、これ以来見ていない。


 天野桐枝は、言うなれば、周囲と同じ人間とは思われていなかった。

 彼女に向けられる特別な感情は、常に畏敬や崇拝に近いものであって、惚れた腫れたの俗なものではなかった。高嶺の花ならば努力次第で手も届くだろうが、天に至る術はないのである。

 一事実として、天使さながらの彼女に邪な感情を持つような人間は、知る限り一人としていなかった。

 彼女自身、その境遇に不満を持つでもなく天真爛漫に日々を過ごしていたのだった。



 ◆



 衣替えの済んだばかりの、ある暑い日のことだった。その日は五時限目に、月に一度の全校集会があった。

 雲量は五、予報によれば降水確率は二〇パーセント。全校集会は予定通りグラウンドで行われた。

 眠気を誘う校長の長話を片耳から片耳に受け流しつつ、皆が皆、列先頭に座る天野桐枝の後ろ姿をチラチラと見ていた。彼女は珍しく集中を欠き、時々キョロキョロと空を見上げていた。


 話が佳境に入った頃、事件は起きた。青と灰色と混じり合った空から、突然大粒の雨が降ってきたのである。

 教師陣が校舎に戻るべきか相談をし始める。雨粒は大きいが勢いはさほどでもなく、生徒たちは近くの友人と話しつつ落ち着いていた。ただ一人、一番前の小さな後ろ姿だけが慌てふためいていた。

 近くのクラスメイトが驚いて声をかけるが、天野桐枝は耳も貸さずに頭を抑えたり服を引っ張ったりした。ブレザーならば頭から引っ被ることができるが、衣替えを終えたばかりの夏服でそんなことをすれば、肌を晒すことになる。周りの女子が慌てて止めた。

 騒ぎに気づき、次第に全校の視線が天野桐枝に集まっていった。


 天野桐枝の髪は雨を吸い、みるみるその本来の姿を露呈していった。

 あちらこちらからぴょこぴょこと毛の束が天に向かって跳ね上がり、ひっつき虫のようになる。美しい直毛は見る影もなく、いっそ無様な程捻くれた癖っ毛になった。どんな特殊加工をすれば普段の美髪になるのか、日々の苦労が偲ばれる。


 気まぐれな雨はいつの間にか止んで、地に落ちた雨粒を日差しが照らし出した。グラウンドの人工芝が一面キラキラと煌めく中で、癖っ毛は大量の水滴を纏って、一際輝きを放っていた。

 天野桐枝は耳まで真っ赤になり、小さく丸くなった後ろ姿を震わせていた。彼女を見つめる人々も、みるみる顔を赤くしていった。

 天使が目の前に落ちてきた気がした。

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