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1.闇喰いの溝


 ─・─



 それは、まさに“溝”ではあった。

 だが、予想を遥かに上回る“溝”だった。


 森の中を進み、立ち並ぶ木が疎らになってきた辺りで、その光景がジレン達の目にも入った。


「……これを、鳥が」


 ウドクが隣で呟いた声が聞こえた。

 ウドクがどんな様子で、そう漏らしたのかは解らない。

 ジレンもまた、目の前の光景に一時、意識を奪われていたからだ。


 その巨大な“溝”は、森を分断していた。


 森を抜けて、その縁に立ち左右と深さを見渡せば、その規模が改めて知れる。


 ジレン達が立つ其処からは、溝の始まりと終わりを視界に入れる事は出来なかった。

 落差と幅は、それなりの家ひとつゆうに収まるだろう。

 溝を挟んで見える、向こう側の森は、向こう岸と言ってもおかしくはない。

 地面が深く抉られ剥き出しになったの土の断面が、干上がった河の跡を思わせる。


 その規模を眼前にして、二人は文字通り言葉を失っていた。   


「……どれだけデカイ鳥だって言うんだよ」

「用水路でも掘ったような跡だ」

「どうやって掘るんだ? 鳥なんだろ。ほんとに鳥なのか? これをやったのが」


 我に返ったように浮かんだ言葉をそれぞれに口に出していれば、ふと、傍らで此方を見ている視線に気付く。

 

 ── にやにやと。

 何処か誇らしげな笑みを浮かべて、ドールが二人の様子を眺めていた。


「驚いたか」


 目が合えば、ドールがそう問い掛けてくる。

 ウドクが素直に頷き、ジレンも正直に頷きはしたが。


「ちょっと聞くが。俺達にこれを見せたいだけで、ここに連れて来た訳じゃないよな?」


 そう言って、ドールの顔を見詰めてみる。

 すると、笑っていたドールの頬がぴくりと微かにひきつった。


 ──図星かよ。


 ジレンが片眉を上げて冷やかすと、ドールは肩を竦めた。


「悪かねぇだろ。ここじゃなきゃ、こんなもん見れねぇぞ」

「……そうだな。驚いた」


 ウドクが、横で素直な感嘆を漏らす。

 ジレンは、少し白けた目でドールを見たが無視された。

 感心している様子で辺りの光景に目を走らせているウドクに、ドールが得意気に頷きながら言う。


「だろ? まぁ、ついでだ、ついで。言っとくが、それだけでここに来た訳じゃねぇぞ」


 そう、ジレンに向き直り言い訳としか聞こえない事を告げる。


 苦情は、あったが。

 ドールもウドクも機嫌良さげにしているのを見れば、ジレンも下手に文句を言うのは止めておいた。


 ドールが腕を上げ、“溝”とも“道”とも称したそれの右方を指す。


「これに沿って行けば、ロームに着く。街に近い方角だ」

「ローム?」

「河の名前だ。街を南へ真っ直ぐ突っ切って河が流れてる。それがヴィルタゴにも流れて、網の目みたいになってる訳だ」

「へぇ」

「普通に川沿いを進むのもいいが、表の街道じゃなくても賊の待ち伏せは、どこにでもある。楽に通れると知られてる道は、どうしてもな。それに比べりゃ、ここは賊もほぼ出ねぇ」

「それって、賊が出る場所より余計に危ないって事じゃないのか」

「まぁ、出会したらヤバいのは確かだがな。賊に出会す回数よりか、ずっと少ねぇさ」

「滅多に出ないのか? その魔物は」

「あぁ。一年の内でも片手の指に収まる程度だ」

「……へぇ。なるほど。それなら、確かにここを進むのが良さそうか」


 ジレンが納得を示すと、ドールが満足げに頷く。


「ま、いざと言う時は、全速力だ。森の奥に逃げりゃいい」


 話が纏まれば、ドールが再び先に歩き出す。

 続いて歩き出しつつ、ドールの背中から、視線を傍らのウドクに向ける。


 ウドクは、未だ溝の光景に気を取られている様子だった。

 そんなウドクの横に寄り添って歩く彼の馬は、相変わらず主にべったりの素振りだったが、特に怯えているようにも見えない。

 ジレンは、それらを一時眺めた後、声をかけた。


「なぁ」


 だが、答えは直ぐに返ってこなかった。

 ジレンと歩みを合わせて脚を運んではいるが、その目は相変わらず溝の方を見回している。

 ふと、ジレンは怪訝に眉を寄せた。


「……なぁ。おい、ウドク」

「……」

「おいって」


 その上腕を小突けば、ようやくウドクが此方を向いた。


「なんだ」

「なんだだと? こっちの台詞だ。どうかしたのか」

「あぁ、いや……少し気になってな」

「何が」

「この溝だ」


 ウドクが言いながら、視線を溝の方へ流し示す。

 つられて溝の光景を目にするジレンの横で、ウドクが続けて言った。


「── 見覚えがあるような気がした」


 ふと、その言葉にジレンは訝しく眉をひそめる。


「お前、ロージングに来るのは初めてなんだよな?」

「あぁ──いや……そうだ。来るのは初めてだ。だが、そういう事ではなくだな。この場所に、こうして立って、この景色を見た事があるような気がした。なんとなく……そうだ。夢で見たような。そんな感覚だ」


 何か考え馳せながら、ひとつひとつ確かめるような口振りで、ウドクが言った。

 そんなウドクを、ジレンは胡散臭げに見詰める。


「……お前さ。昨日から不死がどうとか、なんか薄気味悪い事ばっかり言ってるぞ」


 ジレンの言葉に、狼の顔がはたと動き止む。

 それから、横目にジレンの顔を窺うようにした。


「……おかしいだろうか?」


 そう問う様子は、ウドクが何かやらかしてジレンに救いを乞う時のものと同じだ。

 ジレンは、暫し無言でウドクを見詰めていたが。

 その目に、問い返した。


「ほんとにロージングに来るのは初めてか?」

「……あぁ。それは本当だ」

「じゃあ、お前、夢で予言でも出来たのか」

「そんな力は無い」

「じゃあ、なんなんだ?」


 問い掛けられ、ウドクが少し考える素振りをしたが。

 直ぐに、首を横に振った。 


「……俺にもよく解らん。そんな気がしただけだ。気にするな」


 ジレンがあまり真剣に取り合っていないように感じたのか、ウドクはそれ以上、その事には触れなかった。


 考えるのを止めてしまえば、ウドクは切り替えが早い。

 馬の手綱を引きながら、淀みない脚取りで進んで行く。

 だが、共に並んで歩きながら、ジレンは今しがたのウドクの話が気になっていた。


 ──見た事があるような気がした?


 だが、話ぶりからは、ウドク自身が曖昧でよく解っていないようだ。


 既視感、というものはジレンも知っている。

 そのような感覚を、なんでもないような場所で抱く経験がジレンにも有ることは有る。

 然程、気にすることでは無いのかも知れない。


 とは言え──。

 時折、ジレンはウドクについて知らない事が、未だに多い事に気付く時がある。

 それは大抵、ウドクがジレンの村に、来る以前の事に関わる話になったときだ。

 元より、ウドクは口数が多い方ではない。

 それに合わせて、ジレンもあまり聞こうとしなかった経緯があったから、そうなっただけではあるが。


 とにかく、ウドク自身がはっきりしない様子なら続けられる話題でもない。

 暫く互いに無言で歩きながら、ジレンも頭の中を切り替え戻した。


「ウドク」

「なんだ」

「聞こうと思ってたんだが、あいつと今朝、どんな話した? 俺が起きる前に」


 言って、前方のドールの背中に顎をしゃくる。


「昨夜、お前が話した事とさほど変わりない。ここに来た理由を聞かれた」

「それにしては、昨夜とは反応が違ってるように思うんだが」

「道案内を頼んだ。直ぐに引き受けてくれたぞ」


 ── 直ぐに?

 

 昨夜の、ドールの警戒心の強い様子が浮かぶ。

 全身で、あまり関わりたくなさそうな素振りを示していたように見えたのだが。


 ウドクが言う。


「俺の身の上を知りたいと言ってきたんだ」

「それで、話したのか?」

「話した。それで力を貸してくれる気になったらしい」


 ジレンは、一時黙りこんだ。

 

 ──……。 あいつ、そんなにちょろいのか?


「ふぅん」

「あぁ、それと。俺が元に戻る方法を知っていそうな人間の伝を、探してくれるとも言ってくれた」


 次にウドクがさらりと告げた言葉に、ジレンは立ち止まりかける。


「……何だと? そんな事まで?」

「あぁ」


 呆気に取られたようにすらなって、ジレンはウドクを見詰める。

 ちらりと前方のドールに視線を向けるが、てくてくと脚を運んでいるだけだ。


 だが、その様子は、おそらく此方の話が聞こえている。

 何故なら、元からドールに聞こえても構わない声音で話していた。

 だから聞こえているに決まっているが、ドールは素知らぬ振りを決め込んでいる。


「……そういう事は、早く言えよ」

「すまん。言いそびれただけだ」

「まぁ……そうなのか。昨夜は、あれだけ面倒臭そうにしてた癖にな」

「あぁ。悪い人間では無いと思った。俺はな」

「……そうだな。でも、あの男、大分間が抜けてるみたいだ。あまり信用し過ぎない方がいいと思うぞ」


 ──と、その時。

 ドールが、じとりと肩越しに振り向いた。

 だが、目が合っても何も言わず前に向き直る。


 その脚運びが、それを境にやさぐれたものに変わったように見えた。

 しかし、何も言って来ないのであれば、ジレンは構わず続ける。


 ただし、今度は声をひそめて。


「真面目な話、あまり信用はするな」


 ジレンの言葉に、ウドクがちらりと視線を合わせる。

 そして、無言で頷いた。


 そんなウドクの様子を目にすれば、特に不安も過ることはなく。

 ジレンは、前方のドールへ視線を戻した。


 不機嫌そうに歩いている。

 やはり此方の話を聞いたのだろうが、聞こえぬふりもしていたいようで、文句を言いたくても言えない様子だ。


 ── まぁ、確かに。

 そこまで、警戒する必要もなさそうだ。……あんな様子だと。


 ドールの背中を眺めながら、ジレンはそう思った。

 


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