2.レグルス街
抱えている腕からなんとか逃れようと暴れる少女の四肢が、ドールの脇腹や脚を打つ。
蹴られながら、ドールがうんざりとした声を少女に向けて落とした。
「なんで目覚ましてんだよ。ずっと寝てりゃいいのに」
その言葉を聞いた少女の手足が一瞬止まる。
大きな目が、ぎっと凄んでドールの顔を睨み付けた。
「うるさい! なんでお前が居るのよ」
「そりゃこっちの台詞だ」
「離せ! うすら馬鹿!」
「俺だってほっぽり出したい所だが、そうも行かなくてな。つーか、うすら馬鹿ってなんだよ、あ? うすらだ?」
「ぎゃっ?!」
ドールが少女の身体を持ち替えたと同時に、短い悲鳴が上がる。
服の背中を掴まれ、目の前にぶら下げられる格好になった少女とドールが睨み合った。
「……な、なによ」
「なんで俺がここに居るんだとか言ってたな。お前、ラジエルに何も聞かされねぇでのこのこ来たのか?」
「う……」
「ははぁ? 図星か」
「ち、違うわよ! お前に話す事なんかないってだけで」
「それなら、なんで慌ててんだ? また適当にあしらわれてほいほいお使いに出されたって所か」
ドールがそう問い掛けると、少女が一旦黙り。
そして、ちらりと視線がウドクに向けられた。
目が合うと少女の顔が歪む。
だが、それが見えたのはほんの一時で、直ぐに顔を背けてしまった。
ウドクは、気付く。
それは、今も自分に向けられている他の幾つかの視線と同じだった。
── 怯えだ。
畏怖からの怯えと言うよりも、嫌悪や蔑みを含んだ目である。
「……あぁ。なるほどな。俺がっつーより、“赤口”が居たのが予想外だったか」
少女の様子にドールも察した事があったらしい。
少女がドールを見上げて応える。
「そうよ。なんでお前が“赤口”と一緒に居るのよ」
「色々あってな。ま、話は後だ。お前も一緒に行って貰うか」
「……え?」
ドールの言葉に、少女の顔がひきつった。
「一緒にって……どこに行くの」
ドールはそれには応えず、ただちらりとウドクと目を合わせただけだった。
だが、それだけで少女には充分だったらしい。
彼女の怯えを増幅させる“勘違い”の切っ掛けとして。
金切り声が上がった。
「──いやあああ! やだやだやだやだぁ! ううううーっ!」
「うるせぇな、静かにし──、いでぇっ!?」
今度は、ドールの方が悲鳴を上げた。
少女が背中に手を回すと、思いきりドールの手を引っ掻いたのだ。
思わず怯んだドールの掌を振り払うようにして少女が地面に降り立つ。
そして、脇目もふらずに走り出した。
その時、ウドクは逡巡した。
逃げる少女を追うべきかどうか。
彼女がラジエル・シードバックの使いであれば、おそらく行く先は変わらないだろう。
だが、ウドクが少女を追うのを迷ったのはそれだけではない。
先程の、少女が自分を見た時の目のせいだ。
あのような眼差しを向けてくる相手──それも、幼い少女を追い立てるような真似をしていいものかどうか、気が引けたのだ。
少女が何故逃げ出したのか、その理由までは解らない。
だが、少なくとも自分の存在がそうさせたであろう事はウドクにも解った。
人の間をすり抜け、見る間に離れて行く少女の背中を一瞥した後、ドールに問う。
「追うべきか?」
ドールは直ぐに応えなかった。
少女に傷つけられた手を押さえて顔をしかめている。
その様子が、どこか尋常でない様子にウドクは気付いた。
「どうした? 大丈夫か」
「……あのクソ女。仕込み毒だ」
「毒?」
「爪だが何かに毒を仕込んでた。話も聞かずトチ狂いやがって、畜生」
唸るような声で言うドールの手元を覗きこむ。
見えたドールの手の甲の様相に、ウドクは鼻面をしかめた。
鋭い切っ先で抉られたような裂き傷。
その周りが、見る間に青黒く変色していく。
「これは……何の毒だ」
「さぁな。まぁ、死にゃしねぇ。ただ少し時間がかかるわ」
「時間?」
「毒が回って消えるまでな。暫く動けねぇ」
そう言うなり、ドールがその場に尻餅を付くように座り込んだ。
咄嗟にその身体を支えようとしたが、ドールが腕を振って遮る。
見上げるドールの顔色が明らかに悪い。
血の気が引き、こめかみから冷や汗が伝い落ちて行く。
「大丈夫だ。お前は、ベルルースの後を追ってけ」
「だが」
「俺には毒もまともに効きやしねぇよ。早く行け。後から追う──って、おい」
ドールが戸惑う声を上げた。
無言でドールの背後に回ると、その両脇に腕を回して支え、ぐいと地面から引き立てる。
そして、ドールが更に何か言う前にさっさと通りの端へと移動した。
建物の壁に背中を持たせる形でドールを座らせながら早口に告げる。
「先に行く。後からでも、どうか必ず来てくれ。俺達には、今はあんたが一番の頼りだ」
ウドクのその言葉を聞いたドールの眉が、ぴくりと微かに動く。
ドールの返答を待たずに、ウドクは立ち上がる。
鼻に残る、少女の匂い。
嗅いだことの無い匂いではあった。
甘く、そして、鼻腔を微かにひりつかせるような匂いだ。
── 毒か。その匂いなのかも知れない。
少女が走り去った方向へと、ウドクも走り出す。
行く手の人の小さな群れが直ぐに開け、ウドクの動向を遮る者は無かった。
ただ、怯える幾つかの目が通りすぎていく。
── こっちか。
だが、ウドクはそれらには構わず。
狼の頭を露にしたまま通りを走り、少女を追った。




