1.レグルス街
─・─
突然だった。
目の前の光景に僅かに発した歪み程度は、捉えきれていたかも知れない。
だが、それを認識した次には、目の前に居た筈のジレンの姿が消えていた。
「── あ」
少し間の抜けた声が傍らで響いた。
声の主の腕が、反射的に前に伸ばされる。
地面に崩れ落ちかけた華奢な背中の服を掴んで支えた手の先、ぶらりとぶら下がる少女の身体。
ウドクは、一時動き止んでその一連の様子を眺めていた。
「……ジレン?」
友の名を呼んで口から漏れた、自分の声も酷く間が抜けていた。
だが、自身のその声でウドクは我に返る。
瞬きすら忘れていた視線を上げ、鋭く辺りを見渡す。
── いや。ウドクは解っていた。
素早くその場から移動したのでも、何かに力ずくで拐われたのでもない。
見ていた。一部始終を目を逸らすことなく見ていた。それであれば、ウドクの狼の眼が見逃す筈がない。
視線の先で、ただジレンだけが忽然と姿を消したのだ。
「── ジレン!」
声を張り上げ、その名前を呼ぶ。
周囲を見渡し、再度呼ぶ。
「ジレン! ──ジレン!」
返事は当然のごとく無い。
見渡す視界に、見慣れた友の姿も見付けられない。
急速に焦りと不安がウドクの内を満たして行く。
雑踏の中で上がる、突然の怒号のような大声に視線が集まる。
俯いていた顔を上げ、声を張り上げる内に目深に被っていたフードが頭から後ろへ滑り落ちる。
露になった黒狼の顔に、辺りにざわめきが広がった。
だが、それに構う余裕すら無くジレンを探し雑踏の中へ脚を踏み出そうとした。
「おい、ちょっと待て。何処行くつもりだ」
ドールがウドクの肩を掴んで呼び止める。
「ジレンが居なくなった」
「……あぁ。解ってるよ」
「何が起きたのだ? ジレンは無事なのか? 何処へ行った?」
「いっぺんに喋んな。とりあえず落ち着け」
「教えてくれ、ジレンは無事なのか」
「おい──」
問い掛けながら、思わずドールの上腕を掴む。
すると、ドールが顔をしかめウドクを睨み付けた。
ドールの腕を掴む指先に、無意識に力を込めていたことに気付く。
手を弛め離すと、ドールが舌打ちした。
「ラジエルだ。あの野郎、何かやりやがった」
言いながらドールが脇に抱えている少女を視線で示す。
少女は、今はもう糸の切れた人形のようにドールの腕にぶら下がっているだけだ。
「何かって──何故だ。何故ジレンが」
「知るかよ。俺に聞くな。まぁ……多分、何か術を使ったんだ。あいつだけ拐ったみてぇだな」
「術? ……魔術か?」
「そんなとこだ。まぁ、居所は解ってる。そこに行きゃあ、お前のダチも居る筈だ」
「なら、早くそこへ」
「まぁ、待てよ。ラジエルはクソ野郎だがそこらの罪人よりは未だまともだ。いきなり、物騒な事にはならねぇ筈だ。何か訳ありでもな」
急かすウドクを再度引き留めつつ、ドールが周囲に視線を回す。
その素振りで、ウドクもようやく思い出したように気付く。
遠巻きに様子を伺うようにしている、幾人かの街人達。
その視線は、ほぼウドクに向けられている。
ウドクが目を向ければ、それらのほとんどは逃げるように逸らされる。
ひそひそと交わされる声。
晒されて、遮るもの無く露になった自身の狼の顔を思う。
── “あかぐち”。
幾つかの人の口が、そう言葉を形作っているのが見えた気がした。
だが、顔が晒された今、ウドクにそれを構う気は既に失せていた。
それよりも意識を奪っているのはジレンの行方と、今、ドールが口にしたラジエルという男の意図である。
野次馬を面倒そうに眺めてから、ドールがウドクの顔に視線を戻す。
「行く前に、ちょっと先に聞いときたい事がある。──ロイスって誰だ?」
「……ロイス?」
「ラジエルがあいつに言ってただろ。“ロイスの息子か”ってよ」
ドールに問い掛けられ、ウドクもその時の事を思い出す。
だが、思い当たる事は浮かばず、ウドクは首を横に振った。
「聞いた事がない。だが、ジレンの親父さんの名は“ゴードン・バルコ”だ。ロイスではない」
「じゃあ、何か人違いだっつうのか」
「解らん。いや……、だが」
「だが? なんだ」
言い淀むウドクの目を、ドールが覗き込むようにする。
ウドクは一瞬、躊躇った。
だが、ドールの目を見据えると口を開いた。
「ジレンの親父さんは、昔、ロージングに居た事があるらしい。ジレンがそう言っていた」
ウドクの言葉に、ふとドールが気付いたように片眉を上げる。
一時、沈黙があったが。
「初耳だな?」
ドールがそう言うと、ウドクは気まずさを隠せずに狼の鼻先を微かに歪める。
ジレンの意向で、ドールには明かしていなかった事だ。
だが、ドールはそれを責める素振りは見せずに話を続けた。
「まぁ、じゃあ何だ。元賞金稼ぎだっつう親父さんは、昔、ロージングに居たのか」
「俺も詳しくは知らん。いずれ話すとジレンに言われていた」
「ほぉん? じゃ、お前もあの軽口野郎に隠し事されてたって事だな」
「いずれ話すと言われたのだ。それ以上俺から聞きはしない」
「でも、よっぽどの事だぞ?」
「何がだ」
「あのラジエルが血相変えてた様に見えたからな。お前のダチや、その親父は、お前には何か大事なことを隠したまま、ロージングまでお前を引っ張り連れて来たんじゃねぇかって事だ」
「連れて来られたつもりはない。それに、俺達がロージングに来た事とジレンの親父さんは無関係だ。俺達は、自らの意思でここに来た。第一、俺には俺の理由がある」
「でも、ラジエルは何か知っている素振りだったぜ。お前がどういうつもりで来たにせよ、なんか臭うと思わねぇのか? あの軽口野郎も、その親父もよ」
ドールに更に間近に目を覗き込まれるようにされて、ウドクは鼻面をしかめる。
「臭う……とは?」
「お前、騙されてるか利用されてるんじゃねぇかって事だよ」
低い声で告げられたドールの言葉に、ウドクは瞬いた。
一時、口を閉ざし考え。
それから、応える。
「それは無い」
あっさりと否定したウドクに、ドールが胡散臭そうに眉をひそめた。
「ほぉん? トモダチを信じてるってか?」
「あいつほど正直な奴を、俺は他に知らん」
「……は? あれが正直だ?」
「そうだ」
頷いたウドクを、ドールは呆れたような目付きで暫し眺めていた。
それから、鼻を鳴らす。
「お前、脳味噌までわんころ並みみてぇだな。ま、本人がめでてぇなら別にいいが」
「あんたには解らんだけだ」
「……あ?」
「ジレンは、未だあんたを信用していない。それだけだ」
そう言い放つウドクに、ドールの顔がぴくりとひきつった。
この時、ウドクには特に悪意は無かった。
元より、悪意らしき物は僅かにしか持たない性根だ。
だが、ドールはウドクの言葉を、自身が馬鹿にされた事と友人を疑われた事への応酬と受け取ったようだった。
さも面白くなさそうに顔を歪めた。
「……ほう。そうかい。ま、そうだな。お前の言う通りだ」
言って、くるりと踵を返す。
そして、先に歩き出す。
その姿を目にしながら、ウドクは思った。
── 今のは失言だったかも知れない。
だが、素直というか。
ジレンが言っていたように、解りやすく機嫌がよく変わる。
そういうところは、まるで子供だ。
ウドクは、早足にその後を追った。
「──ドール」
その横に追い付きながら呼び掛けると、じとりと横目に睨み付けて来た。
「なんだよ」
「いや。……ラジエルという男の所へ案内してくれるか?」
先程思った事は無論、口には出さず確認の問い掛けだけをする。
「元からそのつもりだよ」
「そうか、頼む。出来るだけ急ぎたい」
「後で話して貰うぞ」
「……ん? 何をだ」
素で問い返すウドクを、ドールがぎり、と凄い形相で睨み付けた。
「決まってんだろ、お前らがロージングに来た本当の理由だよ」
また、間近に顔を寄せられてウドクは思わず顔を引いたが。
「……俺の事は、あんたに話した事で全部だ」
「本当だろうな? 言ったよな? 俺は騙されるのはごめんだってよ」
「俺は、あんたに嘘はついていない」
「なら、お前の相棒は? どうなんだ」
ウドクは、その問い掛けには首を傾げ。
「それは、ジレン次第だ。俺が話すことは無い」
「──あぁ?! さんざ、ここまで俺を使っておいて信用が出来ねぇだどうだ抜かすか?!」
堪えきれなくなったのか、突然ドールが怒声を張り上げた。
歩き出していた脚を止め、その場で互いに向かい合う。
「いいか? 別に俺だって信用してくれなんて頼んじゃいねぇよ。だがな? 厄介事を抱えてんなら、それに捲き込む前に言うのが礼儀ってもんじゃねぇのか?」
── それだと、打ち明けさえすれば厄介事に捲き込まれても構わないような言い方に聞こえる。
それがドールの本心だと取るには、此方にとって幾らなんでも都合が良すぎるのだろうが。
── それとも、そうなのだろうか。
ジレンが言ったように、そこまで、この男は“お人好し”なのだろうか。
ウドクは内心、そんな事を考えていたが黙っていた。
激昂するドールを前にして、うまく宥められる気もしなければ、下手に何か口にして逆撫でしてしまうのを案じたからだ。
ウドクが黙っていると、ドールもそれ以上言わなかった。
ただ、ウドクを暫く睨み付けた後、忌々しげに短く溜め息を吐いただけだった。
「……とにかく、お前の相棒にも話して貰う」
そう声の昂りを落として告げたドールに、ウドクは安堵した。
「あぁ。そうするといい」
相槌を打つウドクを、ドールがまた睨み付ける。
「……本当にお前ら、むかつくわ」
「それは、すまん」
「……はぁ。もういい。行くぞ」
何度目かの溜め息を吐き、ドールが促した時だ。
「── ぎゃああああああ!!」
突然、間近で上がった凄まじい悲鳴に二人共ぎょっとしてその場に凍り付く。
「どうなってんのよ! なんでこんなことになってんの! ラジエル──あのクソ野郎!!」
ばたばたとドールの腕に抱えられている小さな身体が四肢をばたつかせながら喚く。
今しがたまで意識を失っていた少女が、目を覚ましていた。




