4.シードバック・ギルド
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目の前が黒い、と思った。
意識があり、感じたのはそれだけだ。
だが、不意に視界が晴れる。
見えたのは、目の前に立つ見知らぬ一人の男──と認識した瞬間、ぐらりと視界が揺れる。
そのまま声もなく、ジレンはその場に倒れていた。
茫然と見開いた目に映ったのは、見た事もない真っ白な天井だった。
今しがたまで、間違いなく街中の雑踏に居たはずだ。
だが、見える光景は異なり。
通りの喧騒が幻だったように、静まりかえっている。
身動きしようとして、気付く。
手足が動かなかった。
引き寄せようとした四肢に感覚がなく、呼吸する胸の上下すら重く感じる。
今の状況を考えようとするが、頭の中が虚ろでろくな事が浮かばない。
茫然とするだけのジレンの視界に、先程、目の前に立っていた男が姿を現した。
「やぁ」
声をかけられ、身体が反射的に動こうとする。
だが、やはり両手両足共にぴくりともしなかった。
動けない事を再確認すると、再度、ジレンはぽかんと目を開いただけに戻った。
うまく頭が回らないまま、上にある男の姿を眺める。
銀縁の四角い枠に二枚のガラスを嵌めたらしき、奇妙な細工物。
その銀縁を鼻筋に載せ、薄いガラス越しに見下ろしてくる黒い瞳。
その目と目が合うと、にこりと微笑みかけてくる。
瞳と同じ、黒い髪。
多く少し硬そうな毛質を、やや短めに整えているが手入れをこまめにしている様子はなく、艶が無くもっさりとしている。
顔立ちは悪くはない。
ただ、年齢不詳の類いの容姿だ。
二十と言われても不自然ではなく、三十を過ぎたと言われてもさして驚きもしないような。
白と黒を基調にした、僧衣のような服は地味な仕立てだが安っぽくは見えない。
男を見上げているまま、ジレンは瞬きする。
それで、目蓋と自分の目は動いているのだ、ということだけ認識する。
すると、少しずつ思考が戻ってきている事にも気付いた。
── なんだ? 何がどうなってる?
こいつ、……誰だ?
「あぁ、やっぱり反動が酷いみたいだね。聞こえてる? 僕のこと、見えてるかな?」
応える術が無いジレンに、男が問い掛ける。
じっと、瞬きすらせず見下ろす目。
にこやかにしてはいるが、単に笑顔を張り付けているだけに見えるのは、その目のせいだ。
── 笑っていない。
ただ、じっと確かめるように覗き込んでくる黒い瞳。
その目付きと、飄々とした面差しに見覚えがある──と、ジレンが思い至った時だった。
「見えてるし、聞こえてる、か。なら、大丈夫そうだ。成功、成功」
男が言いながら、ジレンの顔を覆うように掌をかざす。
ひたり、と冷えた掌が顔に触れた瞬間。
四肢に不快な痺れが流れ込むように一気に指先、爪先へと広がった。
「……う……!?」
思わず呻き声を上げたのと同時に、身体が動いた。
動いた瞬間に、酷い痺れがびりびりと身体のあちこちに走る。
苦痛とまではいかなかったが、身をひきつらせる程の激しい痺れである。
だが、堪えていれば少しずつそれが引いて行く事に気付く。
呼吸すらままならない状態で暫く耐え忍び。
ようやく、痺れが手足から遠退き始めた頃に頭上で低い男の声が落ちた。
「血の流れが止まっていたんだ。でも、もう元に戻った。大丈夫」
床の上にうずくまるようにしていた顔を上げる。
すると、腕組みして首を傾け見下ろしている男と再び目が合った。
男は、またにっこりと笑顔を作った。
「やぁ。改めて、初めましてが正しいのかな?」
ジレンは、黙っていた。
果たして自分の声が出るのか、今しがたの奇妙な全身の痺れから、不安が過ったせいもある。
目の前の男は、悠々としてそこに立っている。
隙だらけな様子で、身構える素振りもなく。
部屋の中を見渡しても、男の他に人の姿は見当たらない。
そこで、ジレンは大事な事を思い出したように知る。
つい先刻まで一緒だったはずの、相棒の姿が無い。
当然のごとく、ドールもだ。
そして、あの奇妙な少女も。
部屋の中におそらく、この男と二人きりだった。
── と言うか。なんだ? ここは?
見渡して気付く。
広い床と天井。
豪奢ではないが、質と造りのよさそうな家具が備え付けられている。
壁には、一面ぎっしりと書物が並んでいた。
調度品は少ないが、膨大な量の書物が、飾り気を圧してしまっているような様相だ。
「ここは、僕の私室だ。人ばらいしたくてね、ちょっと強引だったけど君だけ呼んだんだ」
ぽかんと室内を見回していたが、その声に我に返り視線を戻す。
腕組みした立ち姿のまま、にこやかに笑顔を続けている男と再び目が合い。
暫く、無言で睨み合うような間があった。
ジレンは、先に続くと思われた男の言葉を待っていただけだったが。
ふと、男の様子に気付く。
じっと見詰める目は、期待して何かを待ち焦がれているような。
そんな、嬉々とした色を隠そうともせずに此方に向いている。
ジレンは、男を今暫く黙って見ていたが。
「──……あんたが、ラジエルか?」
少し掠れ気味の声低く、問い掛けた。
すると、男の目がぱっと大きく見開かれた。
「そう! よく解ったね」
肯定する声が、室内を震わせて響き渡る。
突然、様変わりしたかのような男を、ジレンは、きょとんと驚き見開いた目で見詰めたまま、固まっていた。
この状況、見覚えのある、聞き覚えのあるような言動。
誰であろうと、察しは付きそうなものではあったが。
男にとっては、そうではなかったらしい。
男は満足げに頷くと、にっこりと笑む目でジレンを見下ろし、告げた。
「僕が、ラジエル・シードバックだ」




