5.銀鱗の誘惑者
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ローム河は、ジレンが想像していたよりも大きく、そして風変わりな川だった。
尖塔の丘から見下ろした際、森に埋もれて見えない程の河川なら大した事は無いだろうと思っていたのだが。
土手になっている街道の上に立ち、改めてその様相を見渡してみて、それが解った。
川の両岸がほぼ見えない。
遠くて見えないのではない。
水中へ浸食するように、多くの木々が広く川の面積を占め、生い茂っているのだ。
先程、ジレン達が辿り着いたような水辺は、その緑が途切れて浅瀬となっているような場所であり、それ以外は木々に覆い尽くされている。
暗緑色の葉を付けた枝が水面を這い、互いの幹を支え合うかのように左右へ広がっていた。
曲がりくねった幹はやや細く、その幹から垂れた根が幾つも水中へと伸びている。
大きな箒のような姿形をした木々は、森の中で見た針葉の巨木とは大分違っていた。
「こんな川は初めて見る」
「ロームに初めて来た人は、皆そう言うわ。あれは、サンドグローブよ」
ウドクの呟きを拾ったソワスムールが応えた。
並んで立つ二人の後ろ姿は、さながら寄り添う恋人同士か何かのようだ。
もっとも、ソワスムールが先程からウドクの腕を離そうとせず、ウドクもまたそれを無理に拒んでいないせいだが。
もう諦めたのか慣れたのか、ソワスムールに左腕を預けている。
「サンドグローブ?」
ウドクが聞き返すと、ソワスムールが頷いた。
「あの木の名前よ。川底に根を張って、それがそのまま水面から伸びてるの。あの木のお蔭で、ロームの流れが緩くなって……、春先の雪解けでも、木が地中に水を逃がすそうよ。川の氾濫も滅多にないわ」
「ほう」
「サンドグローブならエゼナスの方にもある筈だけど。これだけの群生地があるのはロームだけよ。冬は、また変わった様子になるわ」
聞こえてくるソワスムールの話は、それなりに興味深く、ジレンも目の前の景色を見渡してみる。
河面から吹き上げてくる風が緩やかで少し冷えている。
寒く感じるのは、未だ生乾きの服や装備を身に付けているせいだろうが──、ふと、隣に目をやる。
疲労困憊のような遠い目で、ウドクとソワスムールの後ろ姿を見詰めているドールの横顔があった。
それが、自分を見ているジレンの視線に気付くと、じろりと睨み付けてくる。
暫し、無言でその視線を受け止めた。
「……お前、ふざけんなよ」
ドールが、小声で言った。
恨みがましい視線と台詞だったが、それに覇気はなく、うちひしがれているような様子だ。
ジレンは、肩を竦めて見せた。
「すまん」
一応、謝っておく。
すると、ドールが長く細い溜め息を吐く。
「……なんで、断らなかったんだ」
「いや、あんたが黙ってたからさ」
「俺の話を聞いて無かったのか?」
「いや、でも、本当にまずいなら、止めてくれりゃ良かったろ。あの状況で、俺に断れって言う方が無茶だぜ」
「……」
ジレンの応えに、ドールが返す言葉が見付からなかったようで、黙る。
── 半刻前。
ジレン達は、焚き火をしていた川辺を離れ、ロージングの城塞門に当たる、カヤック門を目指し歩き出していた。
一先ず、件のラジエルという男の元へ向かうと言うソワスムールの提案通り、進んでいる形となっている。
ソワスムールは、ドールの言動がどんなものかよく知っているようで。
ジレン達に、こう告げたのだ。
「ドールが色々言ったかも知れないけれど……。ラジエルは、そこまで悪い奴じゃないわよ。だから心配しないで」
それに対し、ドールは反論する素振りを見せたが、何故か急に勢いを削がれたように黙ってしまった。
結局、ドールが引き留める様子を見せなかった故に、ジレンはソワスムールの提案を承諾したのだった。
そして、極めつけにソワスムールは、こうも言った。
「ドール、伝を探してあげるって約束したんでしょ? ラジエルに会いたくないからって、途中で逃げたりしたら承知しないから」
その結果が、今のうちひしがれたドールの姿である。
「……はぁ。なんでこんな事になるんだ」
ドールが再び溜め息を吐き、独り言を漏らす。
何やらドールには、ソワスムールに頭が上がらない訳でもあるのか。
ソワスムールの半ば脅しのような物言いにも従う様子だ。
実際に逃げるつもりがあったのかどうかは解らないが、兎に角、ラジエルという男に会いたくないのは確からしい。
ラジエルについて、ドールとソワスムールの見解は、幾つか食い違っていた。
だが、端で二人の様子を見て、聞いていた限りだと、どうも正しい事を言っていそうなのはソワスムールの方だ。
それもあって、ジレンは彼女の提案を受け入れたのもあるのだが。
なんとなく、ソワスムールにドールをラジエルの元へ連れていくダシとして使われたような気もしないではなかったが、それは口に出さずにおく。
どうやら、色々とこの二人の間には、ありそうだ。
「ねぇ、ジレン」
ふと、涼やかなその声が呼び掛けてくる。
相変わらず、ウドクに絡み付いたままのソワスムールが振り向いて此方を見ていた。
「なんだ?」
「今夜は、あたしの所に泊まらない?」
あまりの唐突さに、ジレンは言葉を失って目を見開いて固まりかけた。
「これから宿は決めるんでしょう? ラジエルとの用向きが終わったら、二人とも、いらっしゃいな」
そう言って微笑む緑の瞳がゆらりと揺れて、ジレンを眺めるようにする。
艶かしい目付きが足元から舐めるように見上げ、そして視線が合うと再び笑む。
腕を取られて、同じく振り向いているウドク。此方も目で訴えていた。
── 断ってくれ、と。
祈るような目である。
大方、此方がドールに愚痴られている間、そちらは口説かれて困惑していたのだろうが。
正直、ジレンもあまり乗り気にはなれなかった。
魔物の美女の誘いに乗って喰われてみたい気が無い訳でもないが。
ソワスムールのおおっぴらな誘惑を前にすると、見世物で蛇に喰われる蛙になったような心持ちが過る。
それは、ソワスムールの食指の外、白けた目で眺めるドールの視線があるからだろうが──。
「……いや、ダメだ。今晩は、俺ん所に泊める」
ソワスムールの申し出を、拒んだのはドールだった。
ジレン達にも初耳な、意外な提案を含めつつ。
「あら……。そうなの?」
「もう決めてんだ。悪りぃが、男なら他当たれ」
ソワスムールが、一時ドールと見詰めあった。
何やら、何とも言えない無言が双方にあった後。
「解ったわ。残念ね」
そう言って微笑むと、ソワスムールが前に向き直り歩き出す。
ウドクも、ほっとした面持ちでそれに倣う。
ジレン達も、それに続いて歩き出した。
ジレンは、無言のまま傍らのドールを見た。
ドールが前を向いて歩いているまま、言う。
「あっちの方が良かったかよ?」
「うん? あぁ……、いや。泊めて貰えるなら、そっちの方が助かる」
「そうかよ。なら、ちと付き合え」
それから、ドールとは暫く会話を交わすことなく無言のまま並んで歩いた。
色々と、意外だった。
ジレンの方は、元々ドールに数日の寝床をたかろうと企んではいたのだが、ドールから、その話が出るとは思っていなかった。
また、森の中では退屈そうにソワスムールとジレン達のやりとりを眺めていたドールが、今の誘いに横槍を入れて来るとも思っていなかった。
ずっと、興味が無さそうに見えていたのだが、そうでもないのか。
まぁ、よく解らない。
とりあえず、それ以上ドールが何も言わなければジレンも黙って歩く。
そうして暫く。
ジレン達は、ロージングの都への入り口とも言える、カヤック門へと漸く辿り着いた。




