3.銀鱗の誘惑者
「……うふふ。やっぱり驚かないのね」
くすぐるような笑い声が間近で響く。
二人共、それに直ぐ応える事が出来なかった。
目の前に降りてきた女の姿、長い舌に続いて垣間見えた正体に身体を堅くし、言葉を失っていた。
── 驚かない訳があるか?
いや、驚くさ。誰だってな。
目の前で、女の下半身が一瞬に蛇に変わったのだ。
だが、その異様な筈の光景は、ジレンに恐怖を抱かせる事は無かった。
その理由を、ジレンは自覚していた。
大分昔に、自分がそういう“質”であることを知ったからだ。
それは、── そうだ。
傍らにいる、この狼の姿をした相棒と初めて出会った時もそうだった。
だが、その時、ジレンがソワスムールに恐怖を抱かなかったのは、ただ単に。
間近にした彼女の容姿が、その白銀の異形も含めて美しく見えたせいもあっただろう。
切れ長の、だが細くは無い目。
ややその端が切れ上がっているが、眼差しと面立ちに、きつさは無い。
澄んだ緑色の大きな瞳と、ふくよかな唇が微笑む。
一歩、ソワスムールの右脚が踏み出される。
その爪先の運びは、どちらへ近付くか迷うように意味深に宙で一度止まった後。
ジレンに微笑みかけてから、ウドクの前へと歩み寄った。
薄水色の長い衣は丁度脚の両脇で深く切れ上がっており、裾の間から脚線が露になっている。
地面を踏むソワスムールから、やはり音をたてる気配は無かった。
白い腕が伸ばされ、ウドクの胸に掌が触れる。
ウドクは、ぴくりと僅かに身体を震わせたが身を引くことは無かった。
狼の横顔は、近くに寄った女の顔をじっと見下ろしている。
大きな黒い目に、微かな動揺がある。
触れられた事と、ソワスムールの変身を目の当たりにした名残とが、おそらくまぜこぜになっている。
混乱と困惑とで黙っているウドクを、暫し見詰めた後。
白い手が、狼の横顔をそっと撫でた。
「お名前、教えてくれてありがとう」
ソワスムールが、囁くようにウドクの鼻先間近で言う。
「貴方、素敵ね。身体もとても大きいし……、それに綺麗な目。素敵よ」
そうして、まるで恋人に語りかけるような声でしなだれかかる。
だが、ウドクは応えなかった。
多分、応えられなかった、という方が正しいだろう。
何分、ジレンは知っている。
ウドクは、まぁ──、初心だ。
もっとも、あの村のあの有り様で、ウドクが女に手を出そうなど出来る訳も無かったし、元々そういう奴だ。
生真面目な質で、村を出てからここまでの間でも、それは変っていない。
今現在の、その異形の様相では無かった頃も同じだった。
そんな訳で、寄り添う二人の様子は傍目に、妙な事になっていた。
狼の横顔は、いつもと変わらず静かな面差しを留めてはいる。
だが、胸に手を添わせて身体を寄せてくるソワスムールを、どうにも扱えず両手は真横に下ろしたまま。
耳は、ぴんと真っ直ぐに立って。
ウドクは、明らかに硬直してしまっていた。
ソワスムールは、そんな事も構わない様子でウドクの胸や肩に掌を這わせている。
まさか、こんな場所でいきなり押し倒したりはしないだろうが、その手つきは随分と艶かしい。
── 何やってんだか。
ジレンは、呆れとやっかみ半分ずつ、少しばかり面白くも思いつつ。
横から、半眼でウドクを眺めていた。
「……なんか、木偶の坊になってねぇか」
暫くして、気の毒そうな声で言ったのは、ドールである。
焚き火の前に座ったままで、相変わらず退屈そうに三人の様子を眺めていた。
その目と目が合うと、ジレンは苦笑いを返し。
そして、その声に漸く我に返ったように、ウドクがソワスムールの呪縛から解かれた。
自分の身体に這い回るソワスムールの両手首を、無言のまま掴まえる。
そして、ソワスムールと自分自身を引き離すようにする。
ソワスムールが、ウドクを間近に見上げる。
赤い唇を微かに開いたまま、ウドクを潤んだ目で見詰めている。
ウドクは、その目を前にして、また声を詰まらせらたようになっていたが。
ようやく、と言った様子で口を開いた。
「……や」
言葉の途中のどころか、一声で息を吐き──どうやら、ずっと呼吸すら止まっていたらしい。
ふうっ、と大きくまた吸い込んでから、ソワスムールを見下ろし。
「やめてくれ」
今度は、はっきりとそう言った。
ソワスムールが、不思議そうに首を傾げた。
「……あら。どうして?」
「困る」
「何故?」
「何故と言われても……色々と困る」
「貴方に触れたいの。……ダメ?」
甘い言葉と仕草で更に迫ろうとするソワスムールの手首を抑えたまま、ウドクが助けを求めるようにジレンに向いた。
ジレンは、その視線を眠たげな半眼で受け止める。
── まぁ、多分そう来るだろうとは思っていたが。
やれやれと溜め息を吐きつつ、牽制しあう様相になりかけている二人の元に歩み寄った。
「ソワスムール」
名前を読んでみる。
すると、はすかいに緑の瞳が見上げてきた。
此方を見る目もまた、何故だか誘っているように見える。
「悪いな、そいつ奥手でね。まぁ、古風な野郎なんだと思って貰えれば──」
言いかけたとき、ソワスムールがするりとすり抜けるようにウドクから離れた。
目の前を、絹糸のような細くしなやかな金色の髪が流れる。
ソワスムールの白い腕が伸びると。
枝から枝へ絡み移るように、ソワスムールが、今度はジレンの胸にしなだれかかった。
── これには。
流石に、ジレンもぎょっとなった。
「……暖めて?」
言いながら、ソワスムールの腕が外套の隙間に入り込むと、ジレンの裸の背中に回される。
その言葉通り、微かに冷たい肌の感触が脇腹や背中にある。
ジレンは、ほんの一瞬固まり。
それから、周りを見回した。
ドールは、欠伸をかましていた。
今にもその場に寝転がりそうな、気だるい面持ちだ。
ウドクは、少しばかり呆然とした様子だったが。
身体をまさぐってくる女の手から解放された安堵の方が、何よりも勝ったようだ。
その証拠に、ソワスムールが離れていった事への心残りも見せずに、じりじりと後退すらしている。
そんな二人の視線に晒されて。
ジレンは、先程までのウドクの心持ちが少し解った気がした。
不意に、ぞくりと背中が波打つ。
ソワスムールの掌が、ゆっくりと裸の胸の上を滑る様にしているのだ。
── あ。ダメだ、これ。
ジレンは、慌ててソワスムールを自分から引き剥がした。
「……なぁに? もう」
何やらうっとりとした、少し不服そうな目で見上げてくるソワスムールに、ジレンは真面目な顔を造って応えた。
「やめてくれ」
ウドクの物言いそっくりに、そう告げる。
ソワスムールが肩を掴まれたまま、きょとんとジレンの顔を見詰める。
そして、その口元が緩むと。
薄く笑って、囁いた。
「……いやだ。貴方達──男色?」
「……いやぁ。それは無い」
苦笑い顔で、きっぱり否定し。
それから、疲れた半眼になるとソワスムールを見下ろして、溜め息混じりに告げた。
「そりゃ、あんた綺麗だけどさ。俺もあいつも未だ初心でね。野晒しで人目に晒されて、平気で居られるほどスレてないんだ。──……ちょっ……、だめ、やめて。おい、待て、触るな」
すり抜けて、触れて来ようとする手からジレンも後ずさって逃げる。
暫し、妙な鬼ごっこが続いた。
ジレンは、置物と化しているドールを盾にしてソワスムールから逃げ延び。
やがて、卑怯な手を使えずに先に諦めたウドクが、再び白い魔手に捕まった。
「──解ったわ。本当に初心なのね。じゃあ、もうしないわ」
ソワスムールが、そんな宣言をした。
ウドクの腕に腕を絡めて、身をぴたりと寄せて並んで座った姿で。
「……お前、本当に、こんな所まで何しに来てんだよ」
ドールが、言う。
身体の疲労というより、気疲れで耳をやや伏せ気味なウドクを気の毒そうに眺めつつ。
ジレンは、ドールと並ぶ形でその場に腰を下ろしていた。
そうして、大人しく身体を寄せているだけなら少し羨ましくも感じるのだが。
真っ昼間から、性感的に刺激されて他の奴の目に晒されては堪ったものではない。
もっとも、ウドクはソワスムールの柔らかな感触を意識する余裕すら既に残されていない様子だった。
ふと、ドールの言葉にソワスムールが何事か気が付いたような顔をする。
「……あら。そうだったわ。忘れてた」
「あ?」
ソワスムールが、ウドクに身体をもたれたままドールを見る。
「“闇喰い”が来たって聞いたの」
ふと、ソワスムールの言葉に三人共、一様に顔をしかめた。
「……なんだと?」
ドールが、唸るような声で言う。
ソワスムールは、何事も気に止めないかのような緩やかな微笑を浮かべたまま応えた。
「それで、急いで来てみたのだけれど……、途中で、貴方達が見えたから」
「誰に聞いた?」
「ラジエルよ」
唐突に、だが出るべくして出たように聞き覚えのある、その名前がソワスムールから告げられた。
ドールが、したり顔に変わったのが見えた。
その顔で、頷く。
「…………ははぁん?」
「……どうしたの? なぁに? ……ドール、顔が変だわ」
「……うるせぇ」
ドールが威嚇するように、ソワスムールに言う。
その傍らで。
ジレンは、ドールから聞かされていた例の話諸々を頭に浮かべていた。
そして、ドールの腕を横からつつく。
「なぁ」
「なんだよ」
「これって、さっきの……あんたの予想話もあながち外れてないかもって事か」
ドールが、ジレンを横目に見る。
「……あ? 外れどころじゃねぇよ。当たりに決まってるだろ」
そう言うと、ドールがどす黒くにやりとした。




