1.尖塔の丘
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ハドキア国、大陸の東に広がる森林地帯、ヴィルタゴ。
そこは、“黒の森”と古くから呼ばれている。
通り名の由来は、その光景を目にした事がある者であれば容易に解るだろう。
「これはまた──……、なんとも言えない景色だ」
緩やかな勾配を登る馬の背に揺られ、“尖塔の丘”に辿り着く。
ロージングの都の様子が視界に入るなり、ジレン・バルコは感嘆を漏らした。
軽装の旅装束、背中には白木の長弓と揃いの矢筒を背負っている。
吹き上げてくる緩やかな風が、明るい茶色の髪を揺らす。
辺りを見渡す黒灰色の瞳。眠たげにして見える半眼を更に細め、瞬いた。
広大な荒れ地を背後に、白を抱くように大地に広がる黒の楕円。
その楕円は、漆黒という異様な色相からなる森によって形作られていた。
黒い森に抱かれるようにある、無秩序に造られた白い街並み。
そして、都市の中央に当たる位置には巨大な白い尖塔が見える。
それと似た作りの双塔が、今、ジレンが立つ尖塔の丘の上にも高くそびえている。
── “尖塔の丘”。
その双塔は、ロージングの領地内へと入る越境線にジレン達が辿り着いた事を示していた。
「──なんだ、この色は」
その時、厳つい声が背後で上がった。一足遅れて丘に辿り着いた気配が、馬の蹄を踏み鳴らし近付いてくる。
ジレンは肩越しに振り向き、声の主を迎えた。
「ようこそ。ここが東の辺境、“罪と自由の都”──、ロージングだ」
そう芝居じみた素振りで左腕を上げ、横に広げる。
暗緑色のフードの奥にある目が、胡散臭そうに細められた。
「何を言ってるんだ」
「うん?」
不機嫌な声に首を傾げる。
だが、フードの奥の目は無言で睨んでいるだけだ。
「お出迎えがないしな。ロージング娘の代わりをしてやってるんだぜ」
「その無精髭面でか」
言われて、ここ数日あたっていなかったせいで薄く髭のざらつく顎に手をやりながら、ジレンは笑う。
「なんだ? 今日は機嫌悪いな」
「……別に。いつもと変わらん」
「随分と長い用足しだったな」
「あぁ。夕べ、お前が作ったスープが酷かったせいだ」
その台詞で、相棒の虫の居所の悪さが何処にあるのか気付く。
ジレンは、小さく声を漏らし笑った。
だが、相変わらずむすりと黙りこんで睨んでいる視線を受けて笑うのを止める。
「いや、すまん」
「笑うな」
「そうか。──……よし。どうだ、もう笑ってないぜ」
「薄ら笑ってないか」
「俺は、元々こういう顔だ」
相棒が再び黙りこんだのを見届けてから、腰に下げている道具袋に手をやる。
取り出した小箱を開き、しまっていた包の中から一つ取り出し投げた。
「とにかく腹下してるなら、これ飲んどけよ」
寄越されたそれを、革手袋を嵌めた掌が受け取る。
「具合が悪けりゃ言えよ」
「そこまで悪い訳じゃない」
言いながら包みを開け、中の丸薬がフードの奥にある口に放り込まれる。
「あ、そう。じゃあ途中で漏らしても文句は言うなよ」
気の無い口振りでそう言ってから、視線を丘の前方に広がる景色へと戻す。
応えはなかったが、代わりに蹄の音が近付くと、フードの頭が横に並ぶ。
「……しかし、聞いてた以上におかしな場所だな」
低く呟くようにする相棒に、ジレンは頷いた。
「だな。真っ黒な森に真っ白な街。そういう絵でも見てるみたいだ」
「街まで未だ大分遠いな。……あの森を抜けなきゃならんのか」
「南の方から行こう。川があるはずだ。見えるか?」
問われて相棒が暫く無言になる。
フードの奥から目を凝らし捜している気配の後、応えた。
「あぁ。あそこだ。南北に突っ切って、森を分ける筋がある」
革手袋が指したその先に、ジレンも目を凝らす。
だが、相棒が言うような様子が定かには解らず。
片眉を上げ、鼻を鳴らして笑うと、見定めるのを直ぐに諦めて目先を足元の地面に切り換える。
「あぁ、あそこだな。んじゃ行こうぜ。日が暮れる前には、せめて下に着きたい」
適当な相槌を打ちつつ相棒を促し、馬の背から地面へ降り立った。
“尖塔の丘”と銘打たれつつも、なだらかに小高いのは、外地からここまで続く辺りの話だ。
二人が今居る場所から見下ろすと、都や森が広がる平地は、はるか眼下の未だ先だ。
そこは、深い崖と言ってもおかしくはない。
北に森を置き、南には山岳地帯から連なる高地の地形。
その大地が、突如抉られたような景観となっている。
尖塔の丘から、下の平地へ続く勾配は然程急では無いが、楽に行き来出来そうには無かった。
斜面には、窪みを繋いで出来たような細い道が見える。
馬に乗ったまま、そこを降るのは命知らずでしかなさそうだ。
「ここから暫く山下りか」
ジレンに続いて馬から降りつつ、相棒が重たい声を落とす。
ジレンは肩越しに振り向き、茂みがある方へ顎をしゃくった。
「今の内に、もう一回踏ん張ってきた方がいいんじゃないか? 崖の途中でクソ垂れる事になったら四方から丸見えだぜ」
「……そんな心配はいらん」
うんざりとした声が返ってくると、ジレンは薄く弛い笑いを返してから、再び歩き出した。
馬の手綱を引きながら、用心深く下方へ続く窪みを目指して脚を運ぶ。
「──大丈夫だ。一緒にゆっくり行こう」
ふと、背後でそんな声がしてちらりと目を向ける。
いや、自分にかけられた言葉でない事は解っている。
見えたのは、手綱を引く馬に寄り添い、それに話し掛けている相棒の姿だ。
深いフードの奥の顔は此方からは見えないが、馬が応えて頭を上下に揺らしている。
物言わぬ馬が彼に従う様子を見届けてから、ジレンは視線を前に戻した。
暫くの間、互いに無言のまま崖を降りて行く時間が続いた。
「──他に誰かいるようだ」
不意に、相棒がそう告げたのは崖を降り始めてから、二刻以上が経った頃だった。
馬を引きながら、細い道を進む歩みを止める。
振り向き、頭上を見上げる。
崖の中腹を過ぎた頃だろうか。
尖塔の丘の白い塔の外壁が、頭上に遠くなった崖の縁の向こうに見えている。
続けて、細く頼りない道と、その先の未だずっと下にある少し拓けた原っぱを見下ろす。
更に左右にも視線を走らせるが、動く物は見当たらない。
上空を高く旋回する鳥の小さな影が目に入っただけだった。
「何処だ?」
相棒に問い掛ける。
フードの奥で光っている白眼が動き、見上げた。
「上だな」
「……人間か?」
「おそらく」
短い答えを受けて、ジレンは一旦黙った。
気配を探っている相棒の様子を見詰めながら、暫く待つ。
「──どうも穏やかな様子ではない」
相棒がそう告げたのと同時、ジレンの耳にもその気配が届いた。
男のものらしき叫び声だ。
怒号とも思えた。物音に耳を澄ませながら、相棒と目を合わせる。
「複数か?」
「そのようだ。風向きのせいで匂いが解らんが……、足音も声も複数だ」
それを聞いて、ジレンは短く息を吐く。
「めんどくさいな」
「どうする?」
問われるが、考える間も置かず道の先へ顎をしゃくる。
「どうもしない。とっとと降りよう。街に着く前から面倒事なんてごめんだ」
「解った」
相棒が頷いたのを見届けると、ジレンはそれまでより歩みを速めて進み出した。
頭上の喧騒が、言葉の端々が解るまでに崖へ近付いていた。
主要な街道から離れた場所にある尖塔の丘。
そこは、おそらくロージングに向かう目的以外で脚を向ける者は居ないだろう。
そんな人気の無い場所で物騒な気配があるならば。
追い剥ぎだの盗賊だのの類いだと考えて、ほぼ間違いない。
関わろうものなら、命のやりとりになる事態しか見えなかった。
ばらばらと土砂と石ころが降ってくる物音に、頭上を振り向き仰ぐ。
すると、崖の際に後退りつつある男の背中がジレンの視界に入った。
「……落ちて来ないでくれよ」
呟いたジレンの声が聞こえたであろう相棒も、視線につられたように仰ぎ見る。
だが、二人が見上げたのを合図にしたように。
さくりと細い何かが男を貫いた。ぐらりと揺れる身体。
その身体が後方へ引かれるように重心を崩した様を映した二人の目が見開かれた刹那──足元で崩れた土砂と共に、男が落ちた。
「おい……、おいおいおい……」
ジレンは、思わず口走る。
男の身体は、一度二度と斜面に叩き付けられた。
その後は、崩れる土砂を巻き上げながら転がり落ちてくる。
落下の軌道は、後方斜め上に居る相棒の横を逸れ、ジレンの立つ其処へと向かっていた。
ジレンは手綱を手繰り、力任せに馬を引こうとした。
だが、馬は嘶き、その場で激しく脚を踏み鳴らすだけで従おうとしない。
見開かれた馬の目は、明らかに平常を失っている。
その様子に、歯噛みする。
諦めて手綱を放すと、背中の長弓を掴んだ。
「ジレン」
相棒が、名を呼ぶ声が鋭く響く。
その軌道へと動こうとする相棒に気が付き、ジレンは制止を飛ばした。
「やめろ」
二人に出来たやりとりは、それだけだった。
迫る土煙と転がる男の身体。瞬く間に、眼前に迫っていた。
「くそっ──」
言い捨て、矢をつがえた弓を素早く構える。
ぎりぎりの所で落ちてくる男を避ければ、もう馬には目もくれない。
どかっと蹄が地面を蹴る音が響き、ジレンが身体を引いた方とは反対側へと身を返そうとする馬の嘶きが、悲鳴のように上がった。
凄まじい勢いで転がり落ちて行く、男の身体が巻き上げた砂煙の向こう。
視界の端、バランスを崩した馬の身体が、そのまま滑り落ちるようにして下方へ消える。
──すうっ、と細く長い息を吐く。
定める視線は、唯一点。真っ直ぐに鏃を向けた頭上だ。
「──あんたら! 其所で動くなよ!」
幾つかの目が、崖の縁から此方を見下ろしていた。
牽制するジレンの大声に一時、崖の上の動きが止む。
やがて、落下を続けていた2つの気配が静まったのを聞き届け、ジレンは再度、細く長い息を吐く。
北の高地、微かに冷えた空気。
こめかみを、汗が伝うのを感じた気がした。
つい今しがた、横様を転がり落ちて行った男の気配が甦っていた。
視界の端に映った、黒ずんだ青の色。
男が身に付けていた衣服の色だ。顔や、それ以外の容姿までは解らなかった。
斜面を転がっていたとは言え、この落差とあの勢いだ。助からないだろう。
仲良く落ちて行った、あの馬も同じく。
鏃を、崖の縁から覗いている男の内の一人に定める。
ここからでは、上に居る連中に矢は届かない。
だが、彼等が動き出し降りてくるような様子があれば、先制する。
その意思表示に、弓を構えたまま続けて声を張り上げた。
「──こっちは面倒事を避けたいだけだ! 見たとこ、あんたら物騒だからな!」
「──馬と身ぐるみ置いてけば、見逃してやる!」
返答があった。その声に続いて下卑た笑い声が響いてくる。
弓を構えたままま、ジレンは相棒と視線を交わした。
「……ロージングに来て、早々これか」
低い声でぼやくジレンに、相棒が問う。
「どうする?」
「とっとと逃げたい」
「逃げられると思うか?」
「まぁ……厳しいな」
話す声が、知らずの内に力無くなる。
上の男達がとにかく殺すつもりで来るならば、ジレン達目掛けて丸太や岩だの投げ落とすだけでも済むだろう。
それに加えて、弓矢なんぞ携えていようものなら目も当てられない。
── いや。まさに目も当てられない状況だ。
先程、崖の上で男の身体を何かが貫いたように見えた。
あの様子からすると、弓でやられたと考えた方が妥当だ。
足場の悪い高所の斜面で無防備に上から矢を降らされたら、ひとたまりもない。
まぁ、それでも或いは──、ちらりと相棒に視線をやる。
相棒一人なら、何とかなるかも知れない。
だが、馬と自分は呆気なくやられてしまう。
ジレンは素早く考えを巡らせ。
相棒の傍らに、寄り添うようにして立つ馬に目を向けた。
「問題は、こいつだな」
馬の呼吸が荒い。今しがたの光景に怯えているのは確かだ。
だが、混乱し脚を踏み外して落ちて行った馬よりは、大分ましな様子だ。
それから、相棒を見る。
「お前、ここから走って逃げるのは余裕か?」
「あぁ」
頷きは、直ぐに返ってくる。
「じゃあ、矢だの岩だのを避けながら走るのは?」
「出来る」
「その間、俺の援護も出来るか?」
「……。少し難しくなるが、出来ると思う」
今度は、やや考える間があった。
「それと併せて、こいつも護れるか?」
矢継ぎ早に言いながら、馬に顎をしゃくるジレンを見詰め。
相棒は、それまでと比べれば大分、長めの無言の後に答えた。
「……そうなると、守る術が思い付かん。……すまん」
「いや。聞いてみただけだ」
素っ気なく応えるが、それは初めから予想に難しくなかった事だ。
いくら、この相棒相手でもそこまで期待するのは酷な話だろう。
ジレンは、決断した。
「馬を置いて行こう」
フードの奥、光っている白目が瞬いた。
「……馬を?」
「そいつを置いてけば、もしかすると連中も無茶はしないかも知れん。俺達の持ち物で値がはる奴って言ったら、もうそいつだろ」
「……だが」
「お前にとって、そいつがちょっと特別なのは解る。でも、それしかない」
相棒から、応えは直ぐに返らなかった。
躊躇うような無言が続く。
その傍らに、片時も離れんとするように寄り添う馬体。
その馬は、確かに相棒にとっては“特別”だった。
何故なら唯一、彼をその背に乗せる事を拒なかった馬だったからだ。
だが。それを考える猶予は無い。
ジレンは、フードの奥の目を真っ直ぐに見据え、告げる。
「── 割り切れ。ウドク」
その白目が縁取る、丸く黒い瞳が動いた。
フード越しの頭上を窺うようにする。
フードの蔭に、そのまま溶け込む黒い顔。
尖る鼻先が動き、その下の口が薄く長く裂けたように赤が覗いた。
「……こいつも、一緒に逃げられないか?」
相棒の応えに、ジレンは一瞬声を失った。
歯噛みし、説き伏せる為の言葉を口にしようとして──、再び、視線を戻し見合った目に動き止む。
頑固そうに、そして、真摯に光る目が見詰めている。
── ダメか。まぁ、そうだろうとは思ったが。
ジレンは、口にしかけた言葉を引っ込めると。
代わりに、小さく息を吐いた。
「……解ったよ。じゃあ、こうしよう。──そいつが一緒に逃げるつもりがあるなら、だ」
フードの奥の目が、瞬く。
ジレンは、その目に肩を竦めて見せる。
「そいつが賢いのは俺も知ってる。もしかしたら、俺達について来れるかも知れない。だが、それまでだ。逃げる間は、そいつには構うな。“三人”、それぞれ全力で逃げる」
フードの奥の目が、こくりと頷く。
「あと……これも頼む。護るのは俺だけにしてくれ」
相棒が、一瞬黙る気配を見せたが。
ジレンは、ゆるゆると首を横に振る。
「連中も馬を殺そうとはしないさ。狙われるのは、俺とお前だけなはずだ」
ふと、気付いたように目が瞬き。
そして、頷いた。
「……解った」
「じゃ、決まりだ」
相棒が、フードの頭に手をかける。
重しが縫込まれた飾り布の留め具が外され、頭をすっぽりと覆っていたフードが後ろへと下ろされた。
露になった、黒い輪郭。
獰猛を体現するように、大きく尖り立った耳。漆黒の瞳と鈍く輝く、瞳の色と同じ硬毛に覆われた顔。
それは、ジレンには見慣れた相棒の顔だ。
── 黒狼の頭。
暗緑色の外套を纏う人間の男の身体の上に、それが載っている。
「……そんじゃ、ま。俺が先に行く。走り出したら開始な」
「いつでもいい」
相棒の応えに、口端を僅かに上げて返す。
徐に弓を降ろし、背中の矢筒に外した矢をしまう。
行こうとする前に、ふと、相棒の傍らの馬を見る。
黒く大きな目が、何か意思を伝えようとしているかのように一瞬、思えたが。
── らしくない。そんな訳、ないじゃないか。
馬に構う事はしないまま、崖下へと意識を向け直す。
そして、上の連中に気取られるより、先に動こうと身を翻そうとしたが──ふと。
違和感に気付き、相棒と顔を見合せた。
「……うん?」
ジレンが首を傾げると、相棒が鼻先を上げて崖の上へと向き直る。
それにつられたように、ジレンも頭上を見上げた。
違和感の正体に気付く。先程まで上から聞こえていた、賊の男達の罵声や笑い声が止んでいた。
崖っぷちから見下ろしていた、幾つかの下卑た笑い顔も、綺麗に消えている。
「なんだ?」
「……あぁ」
「どうなってる?」
「……いや。俺にもよく解らんが……」
気配を探り確かめている、狼の顔が困惑したように歪む。
「奴等、急に引いて行った」
「……は? 逃げたのか?」
「そのようだ」
相棒の答えを受けて、ジレンは訳が解らず言葉を失った。
二人と馬以外に音を立てる気配は無くなった、尖塔の丘の下。
戻った静けさの中、拍子抜けと、得体の知れない不気味さを混ぜこぜに抱きつつ。
「……まぁ、いいさ。じゃあ早いとこ降りよう。こんなとこで考えてても始まらん」
即座に切り替え、ジレンは相棒を促した。




