2.銀鱗の誘惑者
「──…… うっ」
思わず、呻くような声を漏らす。
美しい女だと思っていた相手の口から、蛇のような長い舌が不意に現れたのだ。
ジレンは、一瞬怯んだが。
直ぐに気を持ち直し、女の容姿を改めて眺める。
そのジレンの様子を、女は見られる事が心地好いとでも言いたげに、艶かしく脚を揺らし、紫色の舌をちろちろと覗かせながら、微笑している。
── 長い舌。蛇か?
でも、脚があるが。
ドールは、先程、この女は魔物だと言ったが、同時に“はぐれ”だとも言った。
それなら、この女はウドクと同じであると言うことになる。
「──化け物だなんて。ほんとに酷い言い方ね」
くすくすと笑いながら女が言う。
“化け物”“魔物”と自分に向けられる言葉と視線を嗤い、楽しんでいるようにさえ見える素振りだ。
「いや、人を捕って喰うなら化け物だろ?」
ジレンがそう問い掛けると、女が驚いたような顔をした。
そのまま、暫く黙ってジレンを見詰める。
ゆらゆらと、長い舌を暫く顔の前で揺らしていたが。
しゅるりと飲み込むように、それを再び口の中にしまいこんだ。
「なんだか、変わってるのね。あたしの事、怖がらないなんて……新鮮」
そう言ってから、ジレンを見詰め。
「お名前、教えてくれないの?」
再び名前を問い掛けてくると、にっこりと首を傾げる。
“人喰い”の話は、はぐらかされた。
だが、そうして異形の舌が見えなくなり、愛らしい仕草で微笑んでいると、また見惚れそうになる程には、美しい女だ。
“女”といって差し支えないのかどうかは、未だ怪しいが。
「そんなに脅かされて、名前言う奴いねぇと思うぞ」
横からドールが言う。
女が、むっとしてドールを睨んだ。
「……んもぅ、邪魔しないで。さっきドールが変な事言うからでしょ」
「お前だってノリノリでべろ出したじゃねぇか」
「ドールの話に乗ってあげたんじゃない」
「……馬鹿かお前」
女が頬を膨らませむくれてドールを睨むが、ここは双方の言い分共に、どちらもごもっともだ。
ジレンは、どう相手したらいいものか考えて黙りこんでいた。
「お姉さんさ……、ちょっと聞いていい?」
一先ず、恐る恐ると言った体で問い掛けてみる。
すると女がジレンに向き直り、ゆるゆると首を横に振る。
「そんな呼び方イヤ。あたしの名前は、もう知ってるでしょ? 名前で呼んで」
「名前?」
「んもぅ。さっきドールが呼んだわ。ソワスムール、っていうの」
「…………。ソワスムール」
とりあえず、言われるまま呼び掛けると、女──ソワスムールの笑顔が、ぱっと明るくなった。
「なぁに?」
「つまり……、あんたは、人間? 魔物? どっち?」
「どっちもよ」
「どっちも?」
「そうよ」
そう頷くと、脚をゆらゆらと揺らしてにっこりとする。
やりとりをしようとしても要領を得ない応えが返ると知れば、ジレンは再び黙りこむ。
とりあえず、この女は名前で呼ばれる事に拘りがあるようだが。
ジレンが知りたいのは、そんなことじゃない。
先程、ドールが言った事の意味だ。
── 血の濃い“はぐれ”だ、と。
だが、例えウドクと同じ“魔物の子”だったのだとしても、本当に人喰いの化け物なら、あまりお近づきにはなりたくない。
その時点で、ウドクとは別次元の存在だろう。
頭上のソワスムールを、改めて見詰める。
先程、ジレンに名前を呼ばれたのが余程嬉しかったようで、邪気ない様子でにこにことしている。
どうも、くるくるとよく表情を変える。
なんにせよ、一見は美しい容姿とたぶらかそうとしてくるような言動に、此方の調子を狂わされているのは否めない。
── どうしたものか。
今のところ、ソワスムールから敵意は感じない。
ドールにしても、気の抜けた白けた顔で見ているだけで全く警戒する素振りも無い。
ただ、この女に遊ばれているだけのような気もするが。
「──俺は、ウドクだ。ウドク・ラグドネル」
──と。
ジレンは、傍らのウドクを見た。
意外な所から不意打ちを喰らったような面持ちで、狼の横顔を見詰める。
木の上を見上げたまま、ウドクは名乗りの後に続けて言った。
「貴方も“はぐれ”なのだな?」
ウドクの問い掛けに、ソワスムールがその瞳を揺らし。
ジレンからウドクへ視線を映すと、にっこりと微笑んだ。
「そうよ。……ウドク? ウドクって言うのね」
「そうだ」
ウドクが頷くと、ソワスムールが木の上から少しばかり身を乗り出すようにして、ウドクを見詰める。
「……本当ね。口の中が真っ赤。貴方、“赤口”なのね?」
まじまじと見詰められ問い掛けられて、狼の横顔が少し困ったように曇った。
「その“あかぐち”が何なのか、俺達には解らん。俺が、そうなのかも解らん」
「……そうなの?」
「あぁ」
ウドクの応えを受けて、ソワスムールが二人の顔を見比べるようにした。
「貴方達、ロージングの男じゃないのね? 何処から来たの?」
出身を聞かれると、そこでウドクが一旦黙りジレンを見た。
答えていいものか、問い掛けてくる目だ。
『貴方達』と呼び掛けられたせいか。
おそらく、ウドクは普段そうしているように、自らの事だけであればジレンに構う事なく告げようと思い至ったようだ。
ジレンは、横目にウドクと目を合わせ肩を竦める。
「別にいいぜ」
ジレンの答えを聞くと、ウドクがソワスムールに向き直った。
「バロウィケンから来た。エゼナスの方角だ」
「エゼナス……。素敵な所ね」
「あぁ」
素直に相槌を打つウドクの様子に、ソワスムールは嬉しそうに、はにかむような笑顔を浮かべた。
その素振りは、ごく自然で造ったようなわざとらしさは無い。
そして、機嫌良さそうに笑ったままの視線が再びジレンの上に戻ってくると。
無言で期待を向けてくる様子に、ジレンも躊躇うのが馬鹿馬鹿しくなってきた。
「ジレン・バルコだ」
名乗り、弛く笑顔を返す。
流石に此方は作り笑いだが、ソワスムールは、それを知ってか知らずか、変わらぬ調子で続ける。
「ジレン? ジレンね。……そう。貴方達、ここには来たばかり?」
「まぁね。昨日、着いたばかりだ」
「ドールの知り合いなのかしら?」
「いや。昨日、会ったばかりでさ」
「そうなの?」
「お蔭で、馬二頭ダメにした」
「あら」
ジレンの言葉に、同時に三人の視線がドールの方に向く。
不意に槍玉に挙げられ、それまで白け顔だったドールが驚いたように瞬きを繰り返した。
「いや、ちょっと待てよ。なんで俺のせい?」
「そのようなもんだろ? 一頭目は、あんたに巻き込まれて死んだし。二頭目は、あんたの道案内先で喰われた」
「お前、それは、ちょっと──」
ドールが、ジレンに言い返そうと身を乗り出そうとする。
だが、今、この場で自分に向けられる視線と無言とが、自分に味方が居ない事を悟ったようだ。
舌打ちすると、むくれた顔になり黙りこんだ。
ドールがやり込められて大人しくなれば、ソワスムールが再びジレン達に視線を戻す。
「災難だったのね、解るわ。ドールは、悪運も幸運も強いもの」
「……悪運に、幸運?」
ふと、引っ掛かってその言葉を繰り返すジレンに、ソワスムールは、にこにこと頷いた。
「そうよ。そういう血筋だもの。皆の分も身代わりに背負うの。だから、ドールは──」
「おい。勝手に俺の話をすんな」
と、ドールが強い口調でソワスムールの言葉を遮る。
すると、ソワスムールがドールの方に向いた。
一時、黙っていたが穏やかに微笑み。
「ごめんなさい。それなら、止めておくわ」
ドールは、むくれ顔のままそれ以上何も言わなかった。
ソワスムールが、明るい笑顔に戻るとジレン達に向き直る。
「傍に行っていいかしら?」
そう問い掛けられ、ジレンはウドクと目を合わせた。
だが、二人から応えがある前に、するりとソワスムールが動いた。
その時──、それは彼女に度肝を抜かれる、三度目の光景となった。
ソワスムールの白い脚が、見るまに形を変えた。
白い肌が一瞬にして銀の鱗に覆われると、二本の脚の輪郭が一つに重なり、合わさる。
そして、一本の太く長い“それ”となった彼女の身体の一部が、しゅるりと枝に絡み付いた。
“それ”は見間違う事なき、蛇の胴だった。
そうして、呆気に取られたジレンとウドクの目の前までするりと一息で降りてきた。
木の枝から、銀鱗が輝く尾が離れたと同時。
ソワスムールがジレン達の前に降り立つ。
その時には、既に彼女は元の白い二本の脚でそこに立っていた。