1.銀鱗の誘惑者
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一斉に、全員が上を向いた。
その次の行動を誰よりも早く起こしたのは、ウドクだった。
ジレンの傍らに立ち上がり、素早く身を低くして構える姿勢を取ったが。
そのまま、動き止む。
薄く笑んだ瞳が、三人を見下ろしていた。
くすぐるような、密やかな笑い声が響く。
「あらあら、驚かせちゃったわね。ごめんなさいね?」
柔らかな声が響き、傾げた白い首の横から、さらりと淡い金色の髪が流れ落ちた。
木の枝の上。
そこに腹這いの姿勢で身を持たせ、三人を見下ろしていたのは、人間の女だった。
年の頃は、一見だと解らない。
うら若い乙女にも見えれば、妖艶に笑む様が、成熟した年増にも見える。
組んだ腕の上に顎を載せ、片方だけ垂らした脚を揺らしながら、地上からだと手は届きそうに無い高さから、此方を眺め下ろしている。
ゆらゆらと揺れる、白い脚。
内腿に透けた静脈の青紫が、艶かしい。
思わず、それに一時目を奪われたが。
ジレンは、ウドクの隣にゆっくりと立ち上がった。
── なんだ、この女……いつの間に?
全く、気付かなかった。
河辺から、ここまで移動してきた時、その木の枝には確かに誰も居なかったはずだ。
音も無く、気配を欠片も此方に気取られる事も無く、一体どういう所業だろうか。
そして、何よりジレンが驚いたのは、ウドクですら女の声が落ちてくるまで、その存在を捉えていなかった様子があった事である。
ちらりと横目にすれば、ウドクは身構えた姿勢のまま、木の上の女を凝視している。
並の人間よりも、ウドクの五感は遥かに鋭い。
それにも関わらず、気取られる事無くそこに現れた女の存在は、ウドクにとって驚異ととらえられただろうと、ジレンにも容易く想像は付く。
女の薄く笑んだままの瞳がゆるりと動いて、一人一人の顔を確かめるようにすると。
その目が、ドールの上で止まった。
「こんな所で何してるの? ドール」
女が、ドールの名前を口にした。
ジレンとウドクの視線が、同時にドールに向けられる。
ドールは、焚き火の前に腰を下ろしたまま、白けた顔で女を見上げていた。
「……こっちの台詞だ。また盗み聞きか」
ドールが言うと、女がくすくすと笑い声を漏らした。
そして、悪戯っぽく肩を竦めて見せる。
「未だ何も聞いてないわよ? 残念。相変わらずぶっきらぼうねぇ」
「お前に優しくする理由ねぇしな」
「意地悪」
女が口を尖らせ拗ねる様子を造るが、ドールは、つまらなさそうな顔で女を見上げているだけである。
女の顔に艶然とした笑みが戻ると。
ゆらりと視線が揺れ、ジレン達の方に向いた。
どうやら、ドールの顔見知りらしい。
二人のやりとりを前にして、緊張していた肩を僅かに落とす。
だが、女が怪しげな気配を醸し出しているような気が失せない。
ジレンは、半眼を胡散臭そうに細めたまま。
ウドクは、先程よりは幾らか警戒を解いた様子で女の視線を受け止めた。
「この人達は何? さっき、“赤口”って聞こえたけれど」
ジレン達を見下ろしたまま、女がドールに問う声を向ける。
「さぁな。どうせ聞いてたんだろ」
ドールが素っ気なく応えた。
女が、ちらりとドールを睨んでからジレン達に視線に戻す。
「聞いてなかったって言ってるじゃない。さっき貴方達を見付けたばかりだもの」
「どうだか。地獄耳の癖に」
「んもぅ……いいわ。自分で聞くもの。──初めまして? お名前は?」
小さな子供を見下ろし優しく問い掛けるような口振りで、女がジレン達に促してくる。
ジレンは、直ぐには応えず。
ウドクも黙っている。
ジレンは、女を見上げていた目をちらちらとあちこちに流す。
── ドール。
気の抜けた、さもつまらなさそうな顔で此方を眺めている。
傍観の姿勢だ。
── ウドク。
警戒は解いたようだが、子供をあやすような物言いで語りかけてくる女を訝しげに見上げている。
無言である。
── そして、妖しい女。
長い衣の裾をはらうようにして、その脚を露に見せ付けるようにしているのが挑発的だ。
並の人間では無さそうだが、至極いい女ではある。
──…… 。いや。
そこは、今はどうでもいい。
再び釘付けになりそうになった、艶かしい脚線から目を逸らし。
一先ず、周り──特にウドクに、緊迫感がないのを確かめて。
ジレンは、口を開いた。
「お姉さん、お知り合い?」
問い掛けながら、ドールを指差して女に示す。
「そうよ」
柔らかく笑んだまま、女が頷く。
「どういう?」
続けて問うと。
「あら……そんなこと聞くの? 恥ずかしくて言えないわ」
「何言ってんだ、お前」
対照的な声が双方から返ってきた。
ドールが、舌打ちすると面倒そうに大きく溜め息を吐く。
「お前ら気を付けろよ。こいつ、男を捕って喰うからよ」
── と。
ドールが、やたら刺激的な言葉を告げた。
その言葉につられたように見上げたジレンに、見せ付けるように脚を揺らしながら女が笑う。
見せ付けてくるのなら、一時、遠慮無く眺めてから。
ジレンは、ドールに向き直った。
「まともな女じゃない?」
ドールがジレンの言葉に、ふと、意外そうな顔をする。
そして、にやりと笑った。
「よく解ったな」
ドールが、言った。
「そりゃあな。なぁ?」
ドールに頷いた後、ウドクを見る。
それまで、ずっと無言で女を凝視していたウドクが口を開く。
「あぁ。……この人からは匂いがしない」
ウドクの言葉を聞いたドールが、気が付いた顔をした。
「ほう。なるほどな」
そう、得心したように頷く。
「もう……なによ。まともな女じゃないなんて酷いわ」
木の上から、不服そうな声が落ちてくる。
見上げると、女が口を尖らせてジレンとウドクを軽く睨み付けていた。
── 単純な話。
ウドクは鼻が効く。
狼の姿になっているときは、更にその鋭さは増す。
まさに、獣の嗅覚に近い。
そのウドクが、気配や音を誤魔化されても、近付いてくる匂いに気付かない訳がない。
それなりの手法を用いて匂いを誤魔化す事も、可能ではあるが。
そうであったとしても、そこまでして忍び寄って来るのなら、普通の女ではないのは確かだろう。
ジレンは、女に肩を竦めて見せた。
「いやまぁ。あのお兄さんが、捕って喰うとか怖い事言うからさ」
「そんな事しないわ。……昔はね? 骨までぺろりとね」
さらりと、女が聞き捨てならない不吉な物言いをした。
ジレンは、女の顔をまじまじと見詰める。
「……まさか、本当にぼりぼり頭から喰ったり?」
ジレンの言葉に、女が小さく声を漏らして笑う。
「知りたい?」
そう言って、首を傾げて流し目に見詰めてくる。
ジレンは、またちらりと白い脚に視線を下ろしたが。
再び、ドールの方に向いた。
「この女、何なんだ? 化け物か?」
「そうだ」
ドールが、いともあっさりと頷く。
「……化け物?」
未だ、冗談半分で問い掛けていたジレンは、ぴくりと頬をひきつらせた。
ドールが、そんなジレンの様子を目にすると、再びにやりと笑みを浮かべる。
「正真正銘、そいつは魔物だ。まぁ、血の濃い“はぐれ”、と言うか。──そうだろ? ソワスムール」
そう言いながら、ドールが木の上へ視線を上げる。
その視線と言葉につられて、再度、見上げた先。
枝に頬杖をついて見下ろしている、女の目と目が合う。
柔らかに笑んでいる唇。
それを弛く開くと、現れた紫色の長い舌の先が二つに割れ、宙を舐め上げるようにべろりと上下した。