2.ローム河川
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広大とも言える“溝”だったが、それは暫くして途切れた。
土壁となっている終着地点は、雨風に晒されて、のっぺりとした断面になっている。
だが、草が生えている様子は無い。
魔物が掘ったものである所以なのだろうか。
更に道を先に進み、ようやく目指すローム川へと辿り着く。
木々が疎らになり、拓けた土地を進んで煌めく青を見つけ。
そこへと、三人はやや速足になりつつ向かった。
「──うわあっ?!」
ジレンは、思わず声を上げていた。
何故なら、背後からむんずと掴まえられたと気付いた次の瞬間には、宙に放り投げられていたからだ。
ぐるりと視界が回転し、そのまま頭から水面へと着水する。
突然の事で、訳が解らない内に身体が沈んでいく。
たらふく水を飲みかけたが必死に手足を掻き、明るい水面へと浮上する。
水流のうねる音から抜けて、水から顔を出すと、辺りには豪快な笑い声が響いていた。
他でもない。ドールだ。
川辺の浅瀬に立ち、此方を向いて大笑いしている。
飲んだ水を吐き、暫く咳き込みながらジレンは、それを睨み付けた。
「おい、流されるなよ。早く戻ってこい」
ドールが笑いながら、そう声を掛けてくる。
その斜め後ろでは、ウドクが唖然と目を見開いたまま佇んでいる。
ウドクが止める間もなく、ドールがジレンを川に放り投げたらしいのが明らかな光景だった。
「おう。大分ましになったじゃねぇか」
泳いで川辺に辿り着き、浅瀬にようやく立ち上がったジレンを迎えて、ドールが上機嫌で言う。
ジレンは、それに大きな溜め息で応えた。
「……あんた、ほんとに根に持つのな」
「あぁ? 洗えばいいだろって言ったのはお前だろ。細けぇ事ぐだぐた言うな」
八つ当たりと、そして、おそらくはこれまでの仕返しも含めて。
ジレンは、化け物のよだれまみれの状態へとドールの道連れにされていた。
森をようやく抜けて、河川沿いの拓けた光景を目にしてそこに辿り着いた時。
また、二度目の不意打ちを喰らったのである。
文句を言うのにも疲れて、ジレンは開き直ると、その場で服を脱ぎつつ身体を洗い始めた。
反論無く大人しいジレンの様子に満足したのか、ドールも身に付けていた革製の武具を取り外し始めた。
ぼろぼろの衣服も脱ぎ捨て、厳ついブーツから脚を引き抜き、半裸になると、ざぶざぶと水に入ってくる。
暫く、並んで全身の汚れを洗い落とした。
「ドール」
川辺の岩に腰掛け、二人が身体を洗うのを眺めていたウドクが、そう呼んだ。
「なんだよ」
ざばざばとブーツを洗いながら、ドールが応える。
「さっきの話だが、教えてはくれないのか」
「さっき? どのさっきだ」
「聖女の話だ」
「ははぁ。お前も俺が女に見えるのか?」
ウドクの問い掛けを、ドールが鼻で笑う。
「いや。そうは見えない」
「当たり前だ。まだ、こいつの方が女と言った方が驚かねぇぜ」
「……あんたと比べたら、の話だろ」
槍玉に挙げられて、ジレンはぼそりと反論する。
実際、ジレンとて華奢な身体の造りはしていない。
並べば、ドールの方が大きいのは一目瞭然ではあるが。
ジレンをやり込めて満足したのか、ドールは楽しげに水浴びしている。
“聖女”だの、からかい半分でジレンが女扱いした時の怒気は微塵もない。
その横で、ジレンは黙々と服を洗っていた。
今のウドクの問い掛けに対するドールの答えに、興味を持ちつつ。
「なんだかんだで、あんたは肝心な事は、ほとんど教えてくれないな。会ったばかりでは、仕方ないとは思うが」
ウドクは、静かな声音でドールに語りかける。
ドールは、その言葉に肩を竦めた。
「それは、お前らも同じだろうが。お互い、深く詮索しあう必要はねぇだろう」
「詮索するなと言われればそれまでだが。俺には、どうしても知りたい事なのだ」
「なんだって知りてぇんだよ」
「あんたの、すぐに傷の癒える身体の事だ。ムスタブの聖女には、“癒し”の力があると聞いた事がある。もしかして、あんたは、“天使の子”ではないのか?」
「──……はっ?」
気が付くと、ウドクと、そして、ちろちろと火種が揺らめいているような目のドールが、此方に向いている。
ドールの顔から、さっきまでの上機嫌が嘘だったように消えていた。
黙って聞いていたジレンだったが、ウドクの口から出た単語に、思わず声を漏らしていたようだ。
その二人の目を、きょとんと見詰めた後。
ドールの視線を横っ面に感じながら、用心深くウドクに問い掛ける。
「……今、天使とか聞こえたんだが」
「あぁ。そう言った」
ウドクが頷き。
視界の端で、ドールの肩がぴくり動いたのが見えた。
ウドクが、言う。
「“はぐれ”で、そう呼ばれる者がいるのだ。俺が“魔物の子”と呼ばれるのと同じようにな。病や傷を癒す力を持っているとされている。ムスタブの聖女も、“天使の子”だと言われているが……、だが、とても数が少ないと聞いた。だから、俺も会った事がないし、詳しくは知らない」
ウドクの話に聞き入った後、ジレンは横に居るドールに、そろそろと視線を移す。
ぶっすりとした面持ちで、再び不機嫌の極みに戻ったドールの横顔があった。
その顔をまじまじと見てみたが、ドールが此方に向く気配は無い。
「お前の言う通りだったとしたら、なんだって言うんだよ」
ドールが、ウドクに問う。
ウドクは、答えた。
「もし、癒しの力が本当にあるのなら、俺のこの姿も元に戻せたりしないのかと思ったのだが──」
「無理だな」
ウドクを遮って、即答が返された。
ドールが、洗い終えたブーツの水気を振ってはらい落としながら、続けて言う。
「俺には、そんな力はねぇよ。“闇喰い”が言った通りだ。出来損ないなんでな」
ドールの答えを受けて、ウドクは得心したように頷いた。
「そうか。では、やはりムスタブの出身か」
「血筋は引いてるがな。俺は、ムスタブには行った事もねぇよ」
「傷が直ぐに癒えるのは、血筋のせいなのか?」
「そうだ。てめぇの傷は、何もしなくても直ぐ治る。産まれてこの方、病らしい病にかかった事もねぇ。あほらしい事にな」
「……素晴らしい力ではないのか?」
「素晴らしい力か。ははっ」
その時、ドールが発した笑い声は、自嘲気味な投げ遣りなものに聞こえた。
それに気付いたのか、ウドクは次の言葉を続けるのを止めてしまった。
暫し、その場に沈黙が落ちる。
「……天使、ね」
ごしごしと衣服を手にして擦り洗いつつ。
ぽつり、ジレンの声が落ちた。
「……何か文句あんのか」
横でブーツの片方を洗い始めたドールが、低い声で問う。
「いや、よく似合った呼び名だと思ってな」
澄ました声で応える。
ぶんっ、とドールの腕が空振る風切り音が、咄嗟に下げた頭上で響いた。
「逃げんな、この野郎! 馬鹿にしてんのか!」
「やめろよ、そんな訳ないだろ」
「待ちやがれ! もう一回川にぶん投げてやる!」
「なに怒ってるんだ」
「なに? この──……、てめぇは、人をコケにしといてしらばっくれんな!」
その場で拳を握りながら怒鳴り散らすドールを、ジレンは少し離れた浅瀬に立って見詰める。
正直、今しがた頭を掠めたドールの拳には肝が冷えたが。
いつもの、覇気の薄い目で淡々と告げる。
「よく解らないが、でかい図体して何なんだ? 何か傷つけることでも言ったのか、俺」
「──……の野郎」
ジレンの言葉に、ドールの目に激しい怒りが走ったのが見えた。
ドールが飛び掛かって来る前に、更に身を引きながら言う。
「あのな。冗談言っただけだろ。そんなに怒ることかよ? いちいち、カッとなって突っ掛かって来るのはやめろよ、な?」
「てめぇ、逃げんな!」
「やだね。殴られるような事を言った覚えはない」
「さっきから大人しく聞いてりゃ、てめぇは、どんだけ人を馬鹿にすりゃ気が済むんだ?! あぁ?!」
「おい、やめろ。やめてくれって。なぁ、あんたの事を俺は、よく知らないんだぜ? 本気で馬鹿にするもしないもないじゃないか」
ドールは怒り心頭の様子だったが、距離を詰めてこようとまではしなかった。
その場から、ジレンを指差し怒声を放つ。
互いにびしょ濡れの体のまま、暫く睨み合っていたが。
ドールが、歯噛みしてジレンから目を背ける。
そして、手にしていたブーツを自分の足元に投げ捨てた。
苛立ちを露にした足取りで、ざぶざぶと水から上がっていく。
そのまま、半裸姿で歩いて行ってしまった。
取り残されたジレンとウドクは、ドールの後ろ姿を目で追う。
やがて、その背中が見えなくなった頃に、ウドクが口を開いた。
「……お前は、少し物言いを改めた方がいい」
「時と場は弁えてるさ。一応な」
ジレンの応えに、ウドクが小さく息を吐く。
「どうする? 行ってしまったぞ」
「……うん? 服も何もかも置いてったんだ。戻ってくるだろ」
「そうではない。あの男に着いて行くつもりなのだろう? 仲違いしてどうする」
「俺は、喧嘩するつもりはなかったんだけどな」
「なら、どういうつもりだ?」
「あんなに怒ると思ってなかった」
ウドクが、呆れた目になった。
その視線を受けて、ジレンは肩を竦める。
洗い終えた上衣の水気を絞りながら、言う。
「まぁ、馬が合わないのは確かだな」
ざぶざぶと進み。
水の中に落ちたドールのブーツを拾い上げると、ウドクの方に放る。
「でも、まぁ、嫌いじゃないな」
「向こうは、そうでは無さそうだぞ」
「嫌われたかな?」
あっけらかんと聞いてみるが、ウドクは、ゆるゆると無言で首を横に振っただけだった。
ジレンは、口の端を上げて弛く笑った。
「やっぱり、あいつにしよう。あれだけ考えてることが顔に出る奴はそう居ないぜ」
「向こうに追い払われないといいがな」
「その時はその時だ。それより、“聖女”がお前を戻せるかも知れないって言う話。あれ本当か?」
ジレンに問われ、ウドクがもう一度首を横に振る。
「……いや。もしかしてと思っただけだ。俺も、さっき話した以上の事は知らん」
「そうか」
「ジレン」
「うん?」
「お前、あまり無茶はするな」
ウドクの不意の言葉に、ジレンはきょとんとした。
首を傾げ、問う。
「いきなり、なんだ?」
「いや……、バロウィケンを出てから、お前が気を張り過ぎていないかとな。少し気になった。お前に無茶されると、俺が困る」
ウドクは、そう言うと僅かに首を傾け。
ジレンの目の奥を、窺うような仕草をした。
ジレンは、暫し黙ってその視線を受けていたが。
「そんなことはない。俺は、元々こうだ」
そう応えて、浅瀬から上がる。
ウドクは、ジレンの答えを聞いても直ぐには何も返さなかった。
少し間があった後。
「そうだな。解った」
そう、浅くこくりと頷いた。