1.ローム河川
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歩く度、ずしゃ、ずしゃ、と濡れた土砂袋を地面に置くような音が響いている。
その後ろ姿は、頭の先から爪先まで、纏うものは全てべったりと身体に張り付いている有り様だ。
半刻前。
闇喰いから吐き出されたドールは、直ぐに息を吹き替えした。
嵐のように化け物が現れては、唐突に姿を消したその後。
皆、一様に疲れきっていた。
だが、その場で一休みする気にもなれず、無事に済んだ荷物だけ拾い集めて、ジレン達は再度出発した。
ウドクは、酷い身体の疲れも痛みも抱えていないようだったが、塞ぎこんでいた。
無理も無い。
大事にしていた馬を失ったせいだ。
だが、ウドクはそれを口にして嘆いたりはしなかった。
ただ、馬を失う事になったその場を後にする際に、冥福を祈る短い言葉を口にしただけだった。
森を出発したばかりの時と同じく、ドールを先頭にして、その後にジレンとウドクが続く。
前を行くドールの姿を、二人は少し遠巻きにして眺めていた。
見掛けだけでなく、匂いの方も相当酷かったせいだ。
鼻の利くウドクは、その為にドールの近くに寄りたくても寄れない様子だったが、ジレンは単に近寄らずにいる。
化け物のよだれや体液でべとべとの相手に、好き好んで近付く訳も無い。
同情と、野次馬根性がそれぞれ半分くらいの心持ちで、ドールを眺めていた。
「……しかし、つくづく頑丈なんだな」
ジレンが言うが、ドールからの反応は無かった。
ただ、返事の代わりだと言いたげに腕を上げると、自身の胸を乱暴に拭ってから、びしゃりと横に払い捨てる。
草むらに飛び散ったぬらぬらと光るそれを、ジレンは薄気味悪そうに眺めてから、言った。
「機嫌悪いな」
「仕方ないだろう」
嗜めるようなウドクの言葉に、肩を竦める。
「でも、まぁ。助かって良かったじゃないか」
ふと、その言葉にドールの脚がぴたりと止まった。
それに合わせて、ジレン達も立ち止まる。
ゆらり、と幽霊のような動作でドールが振り向いた。
「……あぁ。……良かったなぁ……? 抱き締めてやるからよ。一緒に喜んでくれるか?」
呪詛を吐く、それこそ怨霊のような目と物言いのドールに、ジレンは即座に首を振って返す。
「いや。色々と遠慮する」
「いやいやいや……、遠慮すんなよ。本当に良かったと思ってるならなぁ?」
「……なんか、やけに絡むな。と言うか俺に八つ当たりするなよ。この道を選んだのは、あんたじゃないか」
ジレンの言葉に、ドールがむっとした。
呪縛に囚われた様子から素に戻ったような、白け混じりの不機嫌な顔。
その目が、疑わしそうにじとりと睨んでくる。
「……けっ。何が助かって良かっただ。喰われたのが自分で無くて良かった、の間違いだろ」
「なんで、そんなにひねくれてるんだよ。まぁ、確かにそう思ったけどさ」
「あ……? なんだと、この野郎」
「おい。待て、あまり近寄るな」
殺気を放って迫ろうとするドールから、ウドクを盾にして逃げる。
ウドクが、心底嫌そうに鼻っ面をしかめる。
そんなウドクを前にすると、ドールの八つ当たりも矛先を鈍らせたようだ。
少し離れた場所に立ち止まると、恨めしそうにジレンを睨んだ。
「……けっ。どうせ、お前みたいな口先だけの奴はな。大方、一人で逃げようとしてたんだろ」
「おぉ。中々、鋭いな」
ジレンの言葉にドールが再び迫り来る気配を見せたので、慌てて付け加える。
「あぁ、あんたを置いて逃げようと思ったさ。でも、助かって良かったってのも本心だぜ」
「適当な事言ってんじゃねぇぞ? おら、こっち来い。ぶち殺しゃしねぇから」
「本当だって。俺達だって、あんたが居なきゃ困るんだ」
「あぁ? わんころはともかく、お前は何も困らんだろ。ロージングなら、このまま溝沿いに行きゃあ直ぐだ。なんなら、溝の方にぶん投げてやろうか。底の方が歩き易いだろうよ」
「落ち着けよ。とにかくさ、この先に川があるんだろ? そこで洗えばいいじゃないか」
「あぁ、そうだな。だから、おまえも付き合え」
「なんでそうなる」
「……いい加減にしろ」
言い合いをする二人に挟まれて無言で耐えていたウドクが、そう低い声を発する。
だが、ジレンもドールも聞く耳持たず。
小突き合いで互いに逃げ回る子供のように、ウドクの周りをぐるぐる回る。
「……」
ドールが発する悪臭と、二人の騒々しさにウドクは、不機嫌そうにまた暫く黙りこんだが。
ふと、言った。
「“聖女”とは、ムスタブの聖女の事か?」
その言葉に、ドールがぴたりと動き止む。
ウドクの後ろに回り込んだまま、ジレンは、それに気付く。
ドールの様子を気に留めていないかのように、ウドクが続ける。
「あの鳥が言っていた。なるほど、と俺は思ったのだが──、違うのか?」
「……なんだと?」
ドールが、ウドクを睨んだ。
睨んだ、と言うよりもそれは、目一杯、今のウドクの言葉を訝しむものに見えた。
「そりゃ、どういう意味だ」
ドールが、ウドクに詰め寄る。
「“闇喰い”が、そう言っただと?」
眼前に迫り問うドールに、ウドクは、らしくなくあからさまに後退った。
だが、ドールの真剣に問う目を前にすると、臭いを堪えて踏み留まったようだ。
そして、応える。
「あんたを吐き出した後で、“闇喰い”がそう言った。“出来損ないの聖女”だとな。……どういう意味だ?」
問い返すウドクを真っ直ぐに見据えたまま、ドールが黙る。
暫し、そのまま時が過ぎ。
二人のやりとりを、ジレンも無言で見守っていた。
──“ムスタブの聖女”。
ジレンも、その名称だけは知っている。
ハドキア国内のちょうど領土の中央にあたる場所。
そこに、国教に敬虔な信者が集まる都市がある。
それがムスタブで、そこで崇拝される巫女のような存在が在り、そう呼ばれているのだと子供の頃、父親に聞かされた。
聖職者が市政を治める、清廉な聖女の都。
だが、ジレンが知っているのは、それだけだ。
ふと、ドールを見る。
盗賊に殺されかけたり、砂と泥まみれになったり、縛られて馬上に放置されたり、化け物のよだれだらけになったりと、酷い有り様が続いている男。
どう見ても、“男”だ。
それも、むさ苦しいと言っていい部類の、無精髭面の、がっちりとした体つきの悪人面。
ジレンは、まじまじとドールを眺めた後、一時考え。
馬鹿馬鹿しいと、首を捻ったが。
二人の会話の端々だけ繋ぎ合わせてみた答えを、恐る恐る言ってみた。
「あんた、まさか……──女?」
物凄い勢いで此方を向いたドールの目が、瞬時にどす黒い光に満たされたのが見えた。
その視線が向けられた素早さと、ほとんど同時に。
ウドクの横を抜けてドールが伸ばした腕に、ジレンは、がっちりと首根っこを押さえ付けられていた。